文鳥問題.

《文鳥とセキセイ》 

 今に始まったことではないのかもしれないが、一部でセキセイインコと文鳥に飼育上の混乱が起きているような気がしている。しかし、二種の小鳥が大体同じ大きさで同じものを食べるからといって、全く同じに考えてしまうのは、とんでもない誤解である。
 そこで、両者の相違を具体的に検討してみたいのだが、なぜかインコ類にまるで関心のない私は、セキセイインコの飼育経験が全くない。従って、セキセイについては一般的な飼育書レベルの知見しかないことをお断りしておかねばならない(奇妙なところがあればご指摘下さい)。また、インコが好き、文鳥が好き、両方好き、どちらかが嫌い、両方嫌い、といった好悪の感情が人によって違うのは致し方なく、本文中にも個人的に文鳥の方をひいきにしているニュアンスが漂っているかもしれない。しかし、当然優劣の問題ではないので、その点もご了承頂きたい。


分類  呼称  原産地  気候  ねぐら  クチバシ    飛翔  飼育環境  まとめ


分類

桜文鳥さん スズメ目カエデチョウ科の文鳥、オウム目オウム科のセキセイ、と言ってしまえば、簡単に思うかもしれないが、実は分類上『目(モク)』が違うというのは大変な話である。例えば、文鳥とペンギンが同じものだという人はいないと思うが(色合いは似ているが・・・)、これとてただ『目』の違いでしかないのである。
 鳥全体の進化を考えた時、現在最も隆盛しているのは文鳥の属するスズメ目で、多くの科に分化し、その種類は鳥類全体の過半に達する。一面において、最も進化した種族といえよう。一方のオウム目は独自の進化をたどってきた種族で、科の分離が見られない。オウム目にはオウム科しかないのである。文鳥とセキセイはその
分類上すでに性質を異にする存在なのである。

 

 

呼称

budgie 文鳥が英語名でJavaSparrow(ジャワ雀)とかRiceBird(米食い鳥)などと原産地や主食となるもので表現されるのに対し、セキセイはBudgerigar(バジャリガー)という名詞が一般的な呼称となっている(Budgieと略したりする)。これはセキセイの原産地オーストラリアの原住民アボリジニーが「betcherrygah」と呼ぶのに由来する単語であるという。その「betcherrygah」には「良い食べ物」という極めて明快な意味があるらしいが(よほどのご馳走に違いない)、より本源的には「ベッチェリガー!」・・・彼らの鳴声に由来する単語なのではあるまいか。
 それはともかく、日本名の「文鳥」は彩りのある鳥という意味であり、江戸時代、18世紀にはすでにそのように呼ばれていた
(中国の人は模様の有る鳥をすべて「文鳥」と表現するようなので、日本人はそれを一種類についての名詞と誤解したものと考える)、一方のセキセイインコの「セキセイ」は
背黄青のことで、背中が黄色や緑(=青)色をしているインコという意味である。1910年代くらいに日本に輸入された際つけられた名前らしいが、英語の別名のShellParacheet(貝殻模様のインコ)から「シェルインコ」とか、インコ類では最小の部類なので「プチインコ」などと、今なら呼称したかもしれない。

 

 

原産地とその生活

 さて、文鳥の原産地のジャワ島は、熱帯(熱帯モンスーン気候・サバナ気候)であり、中央部を東西にはしる脊梁山脈から川が流れ、平野部は米の二期作が行なわれる穀倉地帯である。つまり、年中飲水と食料の心配のない恵まれた地域と言え、すでに8世紀には王国(シャイレーンドラ王国)が築かれるような文明地帯であった。そこで文鳥は、人間の栽培作物を失敬しながら古くから生きてきたわけで、その立場は日本のスズメと極めて近いものと想像されよう。人間が農耕を始める以前のことは分からないが、やはり日本のスズメが人間なしには居住圏を広げられないという研究結果があるのと同様、栄えた存在ではなかったに相違ない。つまり、もともと人間の文明への依存性が高い生き物なのである。
赤道以南の図。生息地が案外近いと思ったでしょ。
 一方のセキセイは、オーストラリアのいわゆるグレートディバイディング(大分水嶺)山脈の西の乾燥地帯(ステップ気候)を中心に、半ば砂漠化した地域も含め、南北を大群で移動しながら生活しているらしい。その一帯はおもに一年草が生える草原地域であり、降雨は少なく、水は稀少である。現在も羊の放牧地域が広がっているような、農耕の難しい苛酷な自然環境の中で、人間の営為とは直接関係なくセキセイは生き続けてきたわけである。つまり 、人間の文明とは基本的に無関係に生存してきた生き物といえよう。
 古くから農耕を行なう人間と共に生きてきた
(というより寄生=「片利共生」してきた)文鳥と、人間の存在を無視したかたちでワイルドに生活してきたセキセイといった際立った違いを見出せるわけである。

※文鳥の原生地については『文鳥の本』(ペット新聞社2000年)の江角さんの知見に従いジャワ島とバリ島に限定した。セキセイについては、明瞭な参考資料が見出せなかったので、大井盆地を中心とした牧羊地帯と重ねておおよそを推定したが、もっと広く分布しているかもしれない。

 

進化による飼育上への影響−気候条件など−

 原産地の環境の相違は、具体的な身体の構造や機能に影響せずにはいない。例えば、乾燥地帯に適応した結果、セキセイは水浴びという習慣がなく(まったくしないわけではない)、それどころか羽毛は水を吸い取ってしまう特質を持つことになっているらしい。文鳥では健康上も毎日の水浴びは必須と考えられ、実際それが大好きな個体が多いが、セキセイでは毎日の水浴びは避けるべき行為となってしまう(万一水浴びが好きな個体がいれば、風をひかないように注意する必要がありそうだ)。そしてさらに注意すべきは、その乾燥への適応の結果、当然セキセイの飲水量も比較的に少ないとされている点である(一日飲まずにも平気だとしている飼育書もある)
 この側面は小鳥の飼育において、セキセイを基準とする事に一つの疑問を投げかける。なぜなら飲水に溶かす形での薬剤や栄養剤を使用する場合、飲水量の多少は絶対的な薬剤の摂取量を左右してしまうので、セキセイの飲水量を基準にすると、
より飲水量の多い文鳥などの他の鳥には薬剤が過剰となりかねないのである。

 また、人間と共生してきた種族か否かは、飼鳥化した後の順応性にも幾分影響するかもしれない。文鳥の場合は、日本のスズメが人間の食べ残しを何でもついばんで生活しているように、消化機能などある程度それに適応した進化をしている可能性も考えられる。一方、人工の食品に適応していないはずのセキセイでは、よりストレートな悪影響が起きる可能性も十分に考えられる。
 つまり。セキセイを飼うには、一部の文鳥飼育者も指摘するくらいの厳密さ
(おやつなどは与えない等々)
絶対的に要求されるのかもしれない(文鳥の場合は比較的に要求されるものであろう)

 

進化による飼育上への影響−ねぐらの役割−

 セキセイは乾燥した原野を餌と水を求めて、乾季には集団移動をつづけ、雨季(12月頃か)になるとつがいをつくって、ユーカリ林などで繁殖を行なうのではないかと想像される。つまり、一箇所に定住する鳥ではなく恒常的な巣を必要としない。
 一方の文鳥の野生での生活様式は不明だが、自然条件の中に大規模な移動の必然性が見当たらないので、基本的に一定の縄張りの中で生活し、日本のスズメのように
毎日ほぼ決まった塒(ねぐら)に入って就寝するように思われる(スズメの場合は若鳥に集団移動が見られるが、これは種の生息域の拡大と、諸所で落鳥による縄張りの空間を埋めるためのものであるらしい。文鳥も同じような形態をジャワ島内で繰り広げているのかもしれない)
 この点『鳥はどこで眠るのか』
(文一総合出版1997年)には文鳥とセキセイは取り上げられていないものの、参考となりそうな例が挙げられている。セキセイと同じオーストラリアのモモイロインコはユーカリ林に集団で寄り合って眠るとし、文鳥と同じカエデチョウ科のキンカチョウは家族単位で夕方には繁殖にも用いる塒(「部屋ねぐら」と訳出されている)に戻るとしているのである。

巣箱の比較 また、飼育上セキセイと文鳥にそれぞれ用意される巣箱の形を見ても、両者の相違は明らかである。セキセイのものは木の洞と同じで、上部に入り口がついていて、彼らは底部のくぼみにそのまま産卵するので巣材を必要としない(自然では、頑丈なクチバシでその穴を作る、または元あるものを拡張整備すること自体が巣作り[営巣]となる。もし人為的にくぼみをつけなければ、自分で削ったりするのであろう)。一方文鳥の巣箱は横に入り口が開いているが、これは木の洞というより、枝と枝の隙間、もしくは人工物の陰(天井裏などのいわゆる「部屋ねぐら」)を利用する習慣を反映しているに相違ない。そのままでは安全に就寝するための隠れ家に過ぎないので、繁殖の際には産座となる巣を巣材を集めて作る必要がある
 つまり、同じ巣箱といっても、セキセイのそれは繁殖時にのみ使用できれば良いものに過ぎないが、文鳥にとっては普段の塒
(部屋ねぐら)としても位置付けることが可能な存在と言える。これは本来の塒の位置付けの相違を反映したものであろう。

 塒の位置付けの相違は、一般的な飼育の上で、巣つぼを設置するか否かとの問題にも関わってくる。文鳥の場合は一年中塒を必要とするのだから、一定の塒として巣つぼがあっても不自然とはいえないが(ただし鳥カゴ自体を塒と考えることも出来るので、必ずしも用意しなければならないというものでもない)、日々塒を変えるセキセイの場合は、巣つぼは無用という事になる(第一、彼らはそれを破壊せずにはおかないだろう)

 

進化による飼育上への影響−クチバシの形状−

 鳥のクチバシは、その食性の違いを示すものといわれており、ガラパゴス諸島のダーウィンフィンチの例は良く知られている。固い物を食べる場合は太く大きくなり、樹皮の虫をつつくためには細く長く進化するといったことである。
 そこで文鳥だが、わりに尖った大きなクチバシをしていて種子食に適した形状をしている。とはいえ、固い種子をつぶすほどの力はなく
(人間の指をかじっても血は出ない程度)、地面に落ちた穀物をひろい食いするような食性を反映している。一方セキセイの曲がったクチバシは、基本的に他のオウム目の鳥たちと同様の形状であり、本来は果肉をむしって食べるのに最も適しているように思われる。木の実や果実を主食とするオウム目の中で、草地の環境(小さな穀物が多い)に適応して進化したのがセキセイなのかもしれない。しかし、あの形状は地上に落ちたものを拾い食いするのには具合が悪そうなので、自然では、実のついた草にしがみついてむしって食べるのが基本であろうと想像される。つまり、
同じ穀物食でも両者は捕食の形態を異にしているように思われる(文鳥が全くむしり食べないとか、セキセイが全く拾い食いしないということではなく、どちらにより適性があるかの話)

 また、ついばむための形をした文鳥のクチバシでは、昆虫類を捕食するのも容易と思われるが(普通虫食いのためにはクチバシを細く尖らせる進化が起こる)、一方のセキセイのクチバシでは、昆虫を捕食するのがきわめて困難となるはずである。
 このようにクチバシの形状から自然界での食性を考えると、本来的には
インコ類はほとんど動物性の食べ物を必要しないのではないかとの想像も成り立つように思われる。従来飼育上、アワ玉のようなものが必須と考えられる(繁殖時)文鳥に対し、セキセイではその必要性をさほど強調されないのは、両者の自然における食性の相違に根ざしているのかもしれない。

 さらにクチバシの形状は、先に述べた営巣の習性にも影響する。まがった強いクチバシは木を掘ったりして営巣場所を自分で作るのに適するが、巣材で細かな巣作りをするには不適当となる(強いが不器用)。逆に文鳥は細かな巣を編む事は出来ても、それを設ける隙間を自作する事は出来ず、探さなければならない(器用だが弱い)

 

進化による飼育上への影響−歩行と趾の形状−

 両者の違いはその歩行にも顕著である。文鳥は両足をそろえてピョンピョンはねながら移動する(ホッピング)。これは地面の手近な距離を効率良く移動するのに適しており、常に両足をそろえていれば、素早く飛び立つ際にも都合が良い。一方のセキセイは交互に脚を出す歩行を基本とする。これは樹上、枝の上を確実に移動するのに適当と思われる。
脚の比較
 またそもそも、その脚の形状自体が両者で著しく異なっている。文鳥や大多数の鳥は前に指(趾)3本、後ろに1本という配置となっているが、オウム目の鳥は前に2本、後ろに2本の配置となっている。この前後2対2の配置は、鳥類の中でもフクロウやキツツキで見られる程度の特殊なものだが、枝の上などで長時間姿勢を保ったり、物をつかむ際にバランスがとりやすくするための進化形態と考えられる。

 両者を見比べる機会があれば、止まり木に止まっている時の足元に注目してもらいたい。セキセイはその指の前後ではさむようにつかんでいるが、文鳥の方は後ろ指を引っ掛けて前の指3本を添え、握るというより乗っかっている印象の方が強いものと思う。
 鳥は枝などに止まると体重によって腱が引っ張られ、
意識しなくとも指が閉じて枝をつかむ構造になっているが、反対に枝を離して飛び立つ時には、意識的に指の筋肉を使わなければならないという(『ビジュアル博物館@鳥類』同朋舎出版)。しかし、これは難しい話ではないだろう。関節にものを当てて力を加えれば嫌でも曲がる。ボッーとしている友人の後ろに回ってひざを折らせる、子供が良くやる遊びを思い起こせば良い。曲がったひざは放っておいても元には戻らないし、そのままの状態にしておくにも筋力が必要となるのは人間も同様である。
 つまり、止まり木などに乗って自然と脚が閉じるのと、それを「つかむ」のとは別次元の話といえよう。嫌でも止まり木にとまれば指は閉じるが、それを開くにはいささかの筋力が必要で、つかんだりつかんだものを離すにはそれ以上に筋力が必要となるわけだが、文鳥の場合はいざとなれば最小限の努力で即座に飛び立つ態勢を保つために、枝を「つかむ」ことをほとんどしないのである。一方のセキセイは安定的な姿勢で摂食や就寝する必要があり「つかむ」のが自然な行動となっているものと思う
(大集団で生活するので個々が急に対処するような危険は少ない)
脚指の形状も根源的な相違を映し出していると言えよう。
 そしてその相違はクチバシの形状の相違と同様に、両種の摂食のための進化の結果であり、またその形態を規定することにもなる。文鳥は地面に落ちた種子を拾い食いするので指先の力
(握力)は必要ではないし、必要としなくなったのに対して、セキセイでは揺れる穂の上で姿勢を安定させるためにも、穂についた種子をむしるためにも、握力は必須であり、その面が強く進化せざるをえなかったのである。

 さて以上の点も、飼育の上でのそれぞれの相違に結びつかずにはいない。セキセイは大きくて固いものを強い脚で押さえて強力なクチバシでむしる事が出来るので、カトルボーンや塩土を大きな形で与えられるし、それを砕くことが運動にもなるが、文鳥は脚で押さえつけることがはなはだ苦手なので、クチバシでつつく事しか出来ず、大きいままではうまく食べることが出来ない。いちいち細かくして与える必要が生じるのだ。
 また脚で扱う事を前提とした小鳥用のおもちゃの多くは、文鳥には意味がないといったことにもなる。それらは従来から当然のように指摘されてきたことだが、
それぞれの特性のうえからも首肯出来る話なのである。

 文鳥にとって指の筋肉はあまり意味はなく、ホッピングや飛び立つ際に必要とされる大腿部の筋肉こそがより重要となる。一方のセキセイは止まり木を握り締めて移動し、本来摂食のためにも指の利用が不可欠であるとすれば、両種の間で、より必要とされる脚の運動の性質が異なるといえるかもしれない。つまり、セキセイに必要な脚の運動が、止まり木を握ったりおもちゃ遊びによって利用される握力であるとすれば、一方の文鳥に必要なのが、ホッピングで発揮されるようないわばキック力にあると言えよう。
 そのように考えれば、文鳥を鳥カゴに入れたままで飼育した場合、床面でのホッピングが困難なので、その運動不足によって脚弱症状を起こす、といった可能性も飼育上の問題点として指摘できるかもしれない
(ただし原種のもつ本来的な能力での話。飼育されるようになって数十世代も経っていれば、それなりにカゴの中の飼育に順応した進化を遂げているはずなので、過大な心配はいらないようにも思う)

※「進化」などというと非常に時間がかかり、何代もかけて徐々に行なわれる気がしてしまうが、実際はあっという間に進行する(『フィンチの嘴』早川書房1995年など)。まして飼育下では人為的な選択が強烈に働くので、原種とはかけ離れた環境に適応するのも容易なはずである。ただ人間は姿形にばかり注意を向け、その点での品種改良に忙しいので、十分に「カゴの鳥」としての適性を完成するには至らないだけの話である(それでも極端に人を怖がるとか、極端に人間の与える飼料に適合しない個体が成り行きとして脱落し、飼育環境に耐えられる個体が残るという、消極的な選択が素早く働くはずなので、瞬く間にある程度飼育の容易なペット化が生じるはずである。ただ逆に外見の重視は、性格など内面の選択を抑制する方向に働くかもしれない)

 

進化による飼育上への影響−飛翔能力−

 文鳥の翼は全体に丸みを帯びているのに対し、セキセイの翼は鋭角な印象を受ける。また文鳥は飛行中に尾羽を広げたり舵のように器用に使うが、セキセイの長大な尾羽が目まぐるしく変化することは少ないようである。
 文鳥はエサや水を求めて長距離の移動の必要がなかったので、エサ場などで大群となることはあっても、基本的に一羽かせいぜい数羽単位で行動するものと思われる。したがって繰り返し述べてきたように、摂食の際にも外敵への対応に個々の機敏性が絶対に必要となり、また狭い範囲でのエサ探しのためにも小回り性能が優れていた方が有利となった。つまり、そうした生態を反映した翼であり、尾羽の構造をしているのであろう。
 一方セキセイの長い尾羽は、小回りには不利だが、樹上でバランスを取る役目を果たしていると考えられ、また、もしかしたら凧に吹流しの足をつけるように、上空を飛行する時の姿勢安定に寄与しているかもしれない。またその鋭い風切り羽を持つ翼は、文鳥とは比較にならない高速を可能にしているはずである。セキセイは大集団でエサ場や水飲み場を長距離移動するため、個々に外敵に対処する必要は薄く、個々の
機敏性や小回りよりも、早さや持久力といった飛翔能力が必要とされた結果と考えて良いものと思う。つまり翼や尾の形状も、それぞれの生態を反映して相違しているのである。

 文鳥とセキセイの飛翔能力の特性の相違は、せまい室内で放したりする時に、特にセキセイでは注意が必要となることを示唆するかもしれない。原種並の強い飛翔能力が維持されれば、障害物がある室内は危険となり、また基本的に細かな移動に適さないので羽ばたき運動が不足しきてしまう、といった可能性も飼育上の問題点として指摘できるかもしれない(ただし原種のもつ本来的な能力での話。飼育されるようになって数十世代も経っていれば、それなりにカゴの中の飼育に順応した進化を遂げているはずなので、あまり心配しなくて良いと思う)

 

国による飼育環境の相違

 『動物大百科』(平凡社1986年)によれば、世界各地域の飼育数の推定は以下の通りである。

  日本 合衆国 欧州主要国
十姉妹 数100万 50万以下 50万
カナリア 約200万 300万以上
セキセイ 「かなり」 約600万 850万以上

 アメリカ人の著述のため、当然のように文鳥は十姉妹のおまけとして扱われ、飼育羽数は載っていない。欧米での文鳥の飼育数は、物の数ではないのでこの扱いを不当とは言えないが、世界で唯一文鳥飼育がメジャーな日本でも、文鳥の飼育数は明確には出来ないようである。ただ1986年頃鳥類全体の国内の飼育数が約1000万羽だったという調査があるので(『ペットデータ年鑑'97』P76、日清ペットフード調べ)、とりあえずその一割100万羽程度を当時の目安として良いかと思う(なお、文鳥生産地愛知県弥富町の出荷数は1979年で推定50万羽、1993年に12万羽程度なので、この間漸減していったものとすれば、1986年頃は20〜30万羽と推定される。弥富以外を考えれば50万羽程度が流通したものと推定できそうなので、かなり不幸な末路があったとしても全体の飼育数は100万羽以上は確実だと考える。またセキセイの日本での飼育数は文鳥よりも若干多い程度と考えている。しかし今はペット動物の多様化で両者ともに飼育数はかなり減少してしまっているような気がする)。日本のセキセイ飼育数の「かなり」も、その販売実態を見ると、具体的には文鳥と同程度から2倍ほどで収まるのではなかろうか。
 ヨーロッパのセキセイ飼育数の内訳は、西ドイツとフランスがともに330万羽、イギリスが190万羽となっている。独仏英の人口は日本の半分程度なので、人口比で考えれば日本の2、3倍の飼育数と見なせそうで、合衆国は日本の人口の2倍程度だが飼育数は数倍というわけだ。
欧米でのセキセイの圧倒的人気が理解できよう。

 日本では文鳥とセキセイの飼育数にさほど差があるとも思えないのに、なぜ欧米での扱いは大きく隔たったものになっているのか、極東の文鳥愛好者としては疑問を感じずにはいられない。
 確かにセキセイの方がカラフルな外見をしており、色彩とその変異が多様に楽しめるという利点はある。そして
動物の人為改変は欧米人の好むところでもあり、実際に、彼らがセキセイに加えた人為淘汰は、さまざまなカラーバリエーションのみか、大きさの相違や変形種を生み出しつづけている(最近は「獅子頭」のようなセキセイがあるようだ)
 しかし、そうした人間の勝手な品種改良は、素材が何であれ可能なはずである。文鳥にしても、日本に比較すれば比較にならないほどの少ない飼育数の中で、シナモンやシルバーといった品種を創り固定したのはヨーロッパ人である。より飼育数が多く熱心に品種改良がなされたなら、真っ黒な文鳥も、色彩配置が逆転した文鳥も、茶色いチモール文鳥
(文鳥の近縁種)などとの交雑を発展させ茶色い文鳥も出来たかも知れず、大きさも大きくも小さくも出来そうに思う(個人的にはこういった品種改良には多大の違和感がある)。もっと本源的な差別の要因があるのではなかろうか。

 そこで日本との飼育スタイルの相違を考えてみたい。日本人的な感覚(さらにはアジア的感覚と言っても良いかもしれない)では、漠然と小鳥はカゴで飼うのが適当な気がするが、欧米では必ずしもそうではないらしいのである。小鳥は庭の大きな禽舎で多数飼育し繁殖させる方がより一般的な様子なのだ。鳥カゴの小鳥というと、観賞目的の色合いが濃くなるようで(映画などで、いかめしい鳥カゴに1羽でいる姿ばかりが印象にある)、室内の鳥カゴで小鳥を繁殖させるという日本では茶の間のセキセイでも実行してしまうような飼育法は、驚きの目で受け止められるのではなかろうか。また文鳥の代名詞のようなヒナ段階での餌付けによる「手乗り」という行為が、家庭的に普及していないどころか、皆無と見なせそうだ。(ヒナの販売が行なわれない。そんなことをする文化がないのだと思う)
 つまり、鳥カゴの手乗りと遊ぶようなスタイルはほとんど存在せず、おそらく
禽舎で飼育するのが主流なのだと推察するのだが(欧米で家庭内で飼育する鳥といえば、むしろ大型インコとなるのではなかろうか。飼鳥といえば大型も小型も一緒に考えるようなことはせずに、差別化が進んでいるのであろう。しかし、それは一面において小鳥飼育の文化的希薄性を意味するように私は思う)、この禽舎飼育は実にセキセイの生態に適当なのである。
 発端はたんに成り行きで、小屋にまとめて放りこんだだけなのかも知れないが、その環境は元々集団生活をするセキセイには、少数に分けられるよりは好都合だったはずである。社会性の強い彼らは、仲間がいることで落着くので、集団でいる限り、野生から捕獲したいわゆる「荒鳥」でも人間を恐れることも案外少なかったであろうし、禽舎の中に巣箱を並べていくつ置いても気の良い彼らは隣同士でケンカすることもなく容易に繁殖してくれたのではなかろうか。飼育する側から見れば、巣材も使用せず、動物性タンパクもさほど必要としない特性までありそうだから、これほど飼育管理が楽な小鳥はないとも言える
(あくまでも大昔の大雑把な話)。しかも鳥カゴに比べれば比較にならない広い空間の存在は、小回りが苦手なはずのセキセイたちにもストレスを与えずにすむ。繁殖で増えれば、人為淘汰による品種改良も容易となり、色変わりが増えれば益々人気になったのも自然な流れであろう。
 ところが、文鳥で同じ事をしたら騒動になる。本来が単独か家族行動が原則なので、あまりたくさん同居させると気が合わない個体同士で血を見るかもしれず、繁殖時もある程度以上巣箱を離さないと落着いて抱卵もしない可能性が高い。しかも巣材も動物性タンパクも必須だから、飼育管理する上で
セキセイに比べれば各段に面倒となる。第一、野生の原種は非常に神経質で、集団でいく分落着けるセキセイとは比べ物にならない程、飼育環境に慣れるのに時間がかかったに相違ない。繁殖して数をふやす前に、飼育を投げ出してしまったのではなかろうか(アメリカは1970年以前にこの経過をたどったようだ。前回の『文鳥問題』参照)
 かくして、欧米における両者の飼育羽数の格差は決定的なものになっていったように思える。

 一方日本では事情が異なってくる。この国の人間は、小鳥を繁殖させるとなると、庭籠(ニワコ)という小さな箱(前面のみが格子や網がはめられている)の中にいれて静かに対処する方法を、すでに18世紀には用い始めており(文鳥など比較にならない程に繊細で飼育の難しい和鳥飼育の伝統が前提にあるものと思う)、今でもその伝統が残っている。例えば、愛知県弥富町の生産農家では夫婦単位で一つずつ個室に入れ繁殖させているし、飼育書でも庭籠使用の有効性が指摘されている(セキセイにも当てはめるものもある)。元々が単独、もしくは夫婦などの小集団で行動すると思われる文鳥では、漠然と禽舎に大量に入れておくよりも、個室の方がむしろ自然に落着いて繁殖できるであろうし(「部屋ねぐら」的で落着くのだろう)、特に文鳥の野生原種を繁殖まで導くには、極力人目を遠ざけるこの方法は不可欠であったように思える。
 ところがその利点はセキセイには通用しない。集団生活で大勢でおしゃべりするのが本質の彼らは、夫婦単位で隔離されたスイートルームよりも、大部屋に集団でいた方がむしろ落着く環境なのである。

 つまり、日本での庭籠方式と欧米の禽舎方式という、それぞれの飼育における方法論の相違がどちらの種の性質により適合したのかという問題があるわけである。そしてそれは禽舎飼育=集団飼育=セキセイに適性庭籠飼育=夫婦単位飼育=文鳥に適性と整理でき、それぞれの相違が、文鳥とセキセイの普及の著しい相違に結びついたと見なせるのである。

 さて、文鳥により庭籠飼育の適性が認められるとすれば、現在の室内における少数羽の手乗り小鳥の鳥カゴ飼育という環境に限れば、より文鳥に適性があると言えるかもしれない。庭籠と鳥カゴを分けるのはその機密性だけと言って良く、すでに人に慣れた文鳥では人目を避けて隔離する必然性は薄いので、鳥カゴのデメリットは小さくなる。落ち着きがなく小回りが得意な文鳥なら、限られた時間、狭い室内を遊ばせるだけでも運動は十分に出来る。ところがセキセイは少数羽のデメリットと飛行特性の問題点を比較的にかかえてしまっているといえる。
 住環境の問題もあって、禽舎で飼育するよりも、一般家庭で小鳥を鳥カゴで飼育する方がむしろ主流の日本に限ってセキセイに劣らず文鳥も飼育されるのは、その姿形が日本人に好まれるというだけではなく、この国の飼育スタイルに適合して飼いやすいという潜在的理由もあるのかもしれない
(鳥カゴでセキセイを飼うのが不適切というのではなく比較した場合の話である。その比較にしても、なるべく大きな鳥カゴに可能なら複数を同居させ、室内で飛ばす時は障害物を少なくして、長時間遊べば問題など起きない。さらにそれも出来る限りの話である。ベストではなくベターをめざすのが文鳥であれセキセイであれ、ペット動物を飼う基本となると私は考える)

 

まとめ

 以上、長々と見てきたように、文鳥とセキセイはむしろ共通点の少ない生物で、それぞれの飼育には、それぞれ異なった注意が必要となるはずの存在であることは、ご理解頂けたのではないかと思う。その飼育上の相違点を大まかにまとめれば下のようになるが、すべて種固有の特性に基づくもので、安易に混同して良い理由はどこにもない。
 種類が違う以上実際の飼育方法に相違があるのは必然であり、その相違する理由をいろいろ考えてみると、より深くそれぞれの美点も理解できるし、それぞれの抱える問題点をあいまいにすることなく深化させることにもつながるのではなかろうか。類似点よりも相違点を見出す努力の方が、この場合に限れば建設的だと思うのである。

文鳥の場合 セキセイの場合
・水浴び必要

・塒として巣の常設も可

・夫婦単位がより自然

・エサは小粒に

・室内放鳥の必要大

・水浴び不要

・繁殖時のみ箱巣

・集団飼育の利益大

・エサは大きくても可

・カゴ内玩具の必要大


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