文鳥問題.

《読書とネット》 

 しばらく手間のかかることを考える暇がなさそうなので、文鳥の本を少し紹介してお茶を濁しておくことにしました。また、文鳥関係のホームページ(略してHP、サイトというべきかもしれないが、以下すべてホームページと呼称する)についての、個人的な考え方を載せておきます。初心者がネットサーフィンなどをされる際の参考に・・・ならないかもしれませんが、一つの意見ということで聞き置いてください。


  読書の話      ネットの話


読書の話

 文鳥の本を探すには、HP『ピンクのクチバシ』を参照すれば良いのである。おしまい。・・・しかし一般性があまりにも怪しいので、ちょっと他人にお薦めできずにこっそり読んでいた本もある。この際、そういったものの名前も挙げておこうと思う。
 個人的に泣ける童話や文鳥のマンガを読む気があまりしないので、小説や、随筆を探索する事になる。実際のところ、昔は、どんな飼育の仕方をしていたかを確認したいという、
実に散文的な関心しか個人的にはないのである。共感を得たいとか、感動したいという精神構造がないのだ。しかし「文鳥」と言うきっかけでもない限り、退屈な『文学』など近づくこともないはずだから、せっかくの機会ともいえよう。

 有名なのは夏目漱石の「文鳥」だが、この綺麗な文章の随筆は結末が悲惨なので、文鳥愛好者には不評らしい。むしろ漱石の弟子の内田百閧フ「漱石山房夜の文鳥」の方が、百閧ニ言うユーモアあふれる(だいぶひねくれた)人格を踏まえておくと楽しい(『ピンクのクチバシ』に紹介させて頂いたので、所載本についてはご参照願いたい)。この二つは、現在でも簡単に読める。
 なかなか読めないのは、漱石に文鳥を飼うことを薦めた弟子の
鈴木三重吉の作品であろう。この人は雑誌『赤い鳥』を創刊させたことで著名な人だが、若い時は漱石的で耽美的な小説を書いていた(もっとも国文科出身ではない私が詳しく知るところではない)。その一つに「文鳥」という小品がある。これにより、明治20年代以前に地方の夜店で、なかなかの値段の白文鳥が売られていた事が判明し、個人的な興味は充足したのだが、あえて門外漢が文学作品として論評すれば、短編小説として見れば試作的なものに過ぎないのではなかろうか。はっきりいってしまえば面白くはない。しかし、文鳥本を極めたい人は押さえておくべきだろう。岩波書店から出ている『鈴木三重吉全集』の第一巻に収録されているので、おそらく図書館にいけば見つかると思う。

 文豪で弟子も多い人格者といえば、志賀直哉も忘れるべきではない。残念ながら動物好きで、文鳥をお飼いになったかもしれないご本人の作品の中には、文鳥が登場するものはないようだが、弟子の網野菊は文鳥の飼育経験をいくつか随筆に残してくれている。内容は文鳥との出会い(迷い鳥)から、繁殖やヒナ育てなどを、その時々の作者の心情をからめて淡々と書き出したもので、その抑制が効いた透徹な文章は、個人的にかなり好ましく思えた。
 ただし内容、つまり飼育方法自体はずいぶんと怪しい。危篤の文鳥に人間の薬
(『救命丸』)を飲ませたり(死んでしまった・・・)、「あ、それは」といった話が飛び出してくる。もっとも、それは初心者が何となく飼いつづけると失敗しそうなことばかりで、私個人の小学生時の経験に重なり合う部分もあり、妙に親近感を感じないでもなかった。
 過去を知らず、現在のめぐまれた環境下での限定的なものの見方のみで、ことの良し悪しを単純に断定してしまうタイプで、身も心も文鳥にささげるといった人には、網野女史の態度などは、何となくそっけなく、いい加減なものに映るかもしれない。しかし、それが
一昔前までの伝統的な姿であり(なお網野さんのは昭和30年代初頭の話だが、40年代も50年代も大して変わらなかったと思う)、現在の独善的視点で目を三角にせずに読めれば、共感する部分もあるのではなかろうか。
 こちらも全集に収録されている。
講談社『網野菊全集』第三巻。しかし地域の中核となる図書館でも、置いていないところもあるかもしれない。

 文鳥の稀少本として、読んでおくべきだったと悔やんでいるのは、『ぴっぽころ物語』と言う本で、何と副題を「お化粧の好きな文鳥」というものである。これはご存知の方は、まずいらっしゃらないと思う。東京都立図書館に所蔵されているのを発見した小冊子だが、ペラペラめくっただけで読まなかった(借り出せないので。なお、あの図書館は貸し出しをしない、コピー代は異常に高い、手続きは面倒で分かりづらい、館員の態度はでか過ぎる、といった困った存在である)。中森弘さんという、元軍人か何かのご隠居さんが書いたものを、知人たちが1968年に出版したものらしく(間違っているかもしれない)、書いたのが女の人でないのが面白そうではあった。いつか非常に暇で、石原都知事の職員教育が行き届いたら読みに行きたい。

 その他、文鳥とは直接関係ない本でも、このホームページでの調べものの過程でいろいろ読んだが、その都度参考文献などとして明示しているので、特にあげることもないだろう。

 ただ書名を挙げていない中で、とあるHPが非常にすすめていたクレア・キップスの『Sold for a Farthing』の訳書だけは特記しておくべきだろう。この小品は、イギリスのキップス夫人がイエスズメの「クラレンス」との12年間(1940〜52年)のベタベタ愛情生活の一端をつづったお話で、手乗り文鳥とその飼い主の心情にきわめて近い心の動きを感じさせる名作である(私は小学館ライブラリー『小雀物語』を読んだ。幸運にも古本屋で50円で売っていたからだが、より原文に近い訳本として、訳題『スズメと私』があるという。横浜市内にはなく神奈川県立川崎図書館に所蔵されている。近郊の人の参考までに)
 正直に言えば、スズメを文鳥と同一視する気は全くない。しかし、なるほど文鳥のしぐさと「クラレンス」のそれは重なり合う部分があり親近感がもてる
(反対にキップス夫人や欧米の人が「小鳥がこんなことを!」と驚くような感覚は共有できない。「あたりまえ」に思えてしまうのだ)。もっとも、個人的にはスズメに思い入れはないので、このお話がベストセラーになる欧米にも、
潜在的に手乗り文鳥を受容する余地があるのではないかと、散文的なことばかり考えてしまう。この読みかたは不健康だろうか。キリスト教的な思想の中では、軒先に落ちていた奇形の(つまり自然では生きられない存在)野生スズメの子を助けることと、飼い鳥(つまりは自然では生きられない存在)の文鳥を手乗りに仕立てることに、どれほどの相違があるだろうか。

 最近、女優の高木さんが、庭木に巣を作った小鳥のヒナをヘビが食べようとしている場面に接して、助けるか助けまいかで、自然のままに放っておいたとして、その是非が話題になったことがあった(…日本は平和だなぁ)。
 私は木さんと同じで知らん顔するか、さらに暇ならジーと観察してしまうタイプの人間である。一々自然動物の捕食に介入する趣味はないのだ。ただし、自分の小鳥に関してはそれを狙っただけで、そのヘビは処刑してしまう。ずいぶん身勝手なようだが、自分の所有物とそうでないものとの対応が同じという方がおかしいと思う。たまたま狙った小鳥が、私の文鳥だったとは、ずいぶん運のないヘビだとは同情するが・・・。したがって、庭木のヒナも、たまたま見かけた雑木林のヒナも、自分の主観で所有物のように思える人は、迷わずヘビなど叩き落してしまえば良いと思う。ヘビには迷惑な話だが、人間社会では罪にはならない。
 ただ自然というものは、人間がコントロールするのは極めて困難なもので、恐ろしい(人間の主観で)狼は殺しかわいい(人間の主観で)鹿を保護したら、山中に吸血殺人ダニが繁殖したりする(糞による土壌の栄養過剰が原因と言う)。また有明海で干拓事業をしたら、海苔が取れなくなったと大騒ぎになる(一説に干潟による海水の浄化機能が失われたものとも言う)。どこでどんな連関をしているかわからない。何か人為的なことをすると大変な結果を招く可能性が付きまとうのだ。だから小心な私は、なるべく自然(もしくはそれ的なもの)には手が出せない。当然、動物を飼うならペット化されたものにしておくべきだとは思う(つまり「文鳥を飼いなさい」欧米人も!)。

 とりあえず、この程度の知見しかない。皆さんも、いろいろ発掘してみてもらいたいと思う。

 


ネットの話ー自己弁明ー

 はっきり言って、私はあまりインターネットサーフィン(いろいろなホームページを見て回ること)をしない。文鳥関係のホームページも未見の物が多いと思う(リンクさせて頂いているのに不義理していることも多い)。したがって他人のホームページを寸評する知識も、さらに一般的なネット上の礼儀や習慣なども、他人様にトクトクと説けるものではない。しかし、何だかんだと2年以上ホームページを続けているので、参考までに思うところを書いておきたい。

 掲示板(ホームページを訪問した人が基本的に自由に書き込みが出来る場所)HP『桜文鳥チコのホームページ』では「井戸端会議」と銘うたれていたが、私もそれが本質だと思っている。仲間同士でワイワイと楽しくおしゃべりするのに最適なメディアで、それは井戸端でのご近所主婦連の世話話、情報交換の場と共通するものと言えよう。しかしそれは反面で、小難しい議論や立ち入った話を展開するには不都合が多く、うっかりすると仲間が固定化されてしまう危険もあるという、井戸端コミュニティーと共通する弱点も持っているとも言えるのである。

 ところで、この『文鳥団地の生活』というHPは、かなりはっきり言いたいことを掲げてしまっているので、もし掲示板を設けても(技術的には簡単)違った考え方の人が参加してくれないと思われる。仲間内で固まるのは個人的には嫌いなので、おそらく将来的にも設けない。文鳥好きの人の交流の場として機能するのなら、賛否のある議論には触れないホームページの掲示板が適当に相違なく、そうした掲示板はすでに多く存在している。そうした掲示板で、妙な固定概念にとらわれず、「文鳥が好き」という一点で交流した方が楽しいだろう。飼育方法などで党派性を持ってフィルター越しにしか人と話せないようでは悲しい。例えばHP『小鳥のお宿』などの掲示板はフレンドリーで同好の友達を得るのに最適であろうし、飼育相談的な機能としてはHP『獣医フォーラム』に書きこみしてみるのもお勧めではないかと思う(ただし私は井戸端の世話話は苦手なので滅多に書きこみはしない)。

→と言っておきながら、2003年1月画像掲示板(あとで普通の掲示板も)を設置してしまいました・・・。文鳥の画像掲示板も『桜文鳥チコのホームページ』や『小鳥のお宿』に立派なものがあるので、今更必要はないと思っていたのですが、@私自身が他人の文鳥を気軽に見たいのと、Aなかなか他のホームページの掲示板に参加しにくい人が多いようなので、突発的に設置したものです(カウンターが壊れたのも一因)。ある程度コツをつかんで、他の掲示板に参加されるようになってもらいたいと思っています。

 掲示板を読めば何となく、ホームページの管理人さん」の人柄がわかる面はあるかもしれない。
 以前始めて書き込みする人を『一見さん』扱いしたりするところを見かけて、公園を縄張りにするバカ主婦の感覚に近いものを感じてうんざりした記憶があるが、本来ホームページで掲示板を自由に公開している以上、いろんな人がふらっと書き込みするのが当たり前で、それが嫌なら辞めてしまうか、特別な暗号を入手しなければ見たり書きこんだり出来ないようにすべきだと思う
(最も初めての書き込みでは自己紹介くらい軽くするのは礼儀だと思うが)。そういったところは、「管理人さん」も独善的に流れがちなのかも知れない。そのように感じたら、掲示板を設置しているホームページはたくさんあるのだから、わけの分からないお仲間集団に無理してまぎれこむ必要はどこにもない。オープンな掲示板で友達を見つけるべきだと思う。
 また、実際に特別な暗証番号で入場を制限したり、何やらおびただしい規約を掲げたりしているホームページを見かけることもあるが、これについても理解に苦しむ。所詮、文鳥系の個人ホームページなどは、自分の文鳥の姿を見せびらかしたり、文鳥に興味を持ってもらったり、初心者に参考になりそうな経験などを公開するのが、開設の目的のはずである。そういった目的であるなら、やたらと敷居を高くする必要が一体どこにあるのか、不思議というしかない。もし、自分の意に沿わない人間を排除しようという理由だとすれば、
世間に自分の意見を公開する資格などはじめからないような気もする。それは、まともな社会人とは呼べない人が、鏡の前でブツブツ言っているようなものではなかろうか。本来相手にすべきものではない。

 掲示板を設置すると訪問者が増えるという効果もあるかもしれない。しかし、個人のホームページで訪問者数(カウンターではかる)にこだわる必然性があるのだろうか。不思議な話だ。カウンターの数と中身は別だとも思うが・・・。

 ホームページを開設したりすると、色々なことを言ってくる人がいるし、悪気ではないにしても突如大画像を送ってきたりして(少なくとも本文に断り書きのない添付ファイルは、コンピューターウイルスの恐怖を想像させる存在のため、気ままに開けるべきではない)、ネット生活上の注意事項を一つ一つ書いておきたくもなるが、それはやはり最小限に抑えるべきではないかと思う。
 なぜなら、文鳥系ホームページを閲覧する人は、何かの拍子に文鳥のヒナを買って、一体どうやって接していったら良いものかと思い悩み、とりあえず検索サイトで『文鳥』を検索してみたといったケースと、文鳥は昔から飼っているが、インターネットデビューに際して、とりあえず『文鳥』を検索してみたというケース
(私はこちら)が多いはずで、つまりは文鳥初心者かパソコン初心者、もしくは両方といった人が主流のはずなのであり、あまり厳しいことを言ってもわからないと思うのだ。初心者の間違いは、ある程度大目に見るのが、良識ある大人の態度というものだろう(以前パソコン初心者の頃にご迷惑をおかけした皆様、この場を借りてお詫び申し上げます・・・)
 ネット上での常識は段々わかってくるはずなので、あまり目くじら立てずに、なるべく放っておきたい。それがどうしても許せず、いちいち間違いを指摘する余裕もないなら、規約などで敷居を高くするよりも、ホームページなど止めてしまったほうが早いかもしれない。
 ただ未成年者が書き込みをしたり、メールで質問する時は、自分は未成年である旨を明示した方が良い。大人として扱われるのは大変な面もあるので
(少年が掲示板で袋叩きにあい、その後犯罪を起こしたことがあるようだ。未成年者だと知っていたら、多少は手加減してもらえたのではなかろうか)、そんな時には背伸びすべきではない。
 なお、ホームページにメールのアドレスを掲げておいて、閲覧者からのメールにまったく
返事もしないのは失礼であり非常識というものだが、いろいろ事情もあるだろうから、一方的に早い返事を強制することはできない。閲覧者は商売上の「お客さん」ではないのである。

 『文鳥団地の生活』では、基本部分はみな同じような飼育本など買うのはもったいないとの考えから、飼育方法を掲げてしまっているが(簡単に読めるまとまった飼育法を紹介するホームページが開設当時見当たらなかった)、これは文鳥初心者用と考えている。文鳥の歴史や「文鳥問題」などの部分は文鳥飼育経験者用だと考えている。
 そこで少々弁明を・・・。
 すでに文鳥初心者ではなかった私は、パソコンで文鳥系ホームページを見はじめると、旧来の考え方と違うことが多く見うけられて驚いた。
「これは知らぬ間に進化している」とうろたえたのだ。しかし、よくよく考えてみると、一方的に伝統的な飼育方法を否定するには、諸々のホームページの主張は理屈が不足しているように思えてきた。はっきり言えば新しい話は根拠薄弱なものが多いのではないかと疑わしく思えてきたのだ(あくまでもホームページ上の説明だけからの話、しかし閲覧者はそれしか読めない)。そこで割合旧来的な考え方を弁護肯定する立場から、問題提起してみることにしてしまった。自分の飼育方法だけが正しいと主張する意図ではなく(ただし完全に間違っていると自覚した飼育法をする人は普通いない)、議論のバランス上の反証の提示と言っても良い。
 例えば「つぼ巣を入れるのは悪だ!」「カナリアシードは悪だ!」「ペレット使用は絶対善だ!」、といった断定に対して理屈の上でおかしいと主張するが、別にペレットを食べさせていようと、つぼ巣を排除していようと、せっせと獣医通いをしていようと、個人的に他人の飼育法に口出しする気はない。第一賛否は断定できないはずで、また個人的には、はっきり言ってどうでも良い。ただ、
ろくな理屈もなしに一方的な結論だけをホームページに掲げては、「私の今までの飼育は間違っていた」と単純に勘違いしてしまう人も出てきてしまう点を心配する。素直な人は多いのだ。
 かなり厳しく疑問点を指摘しておけば、ホームページ上で反批判してもらえるかもしれず、当然こちらもまた責任上反論するので、議論となる可能性も考えた。そうなれば、文鳥飼育者一般にも有意義になると目論んだ面もある。何らかの結論を公開するのなら論証くらいきちんとして反論に答えるくらいの責任はあってしかるべきだと、私は素朴に思う。ところが、何やらメールで一方的に結論を言い捨ててて逃げてしまう類の人くらいしか現れないのが現実である。残念なところだ。
 結局、今のところ議論にはなっていないが、とりあえず賛否両論いろいろあることは示せたと、自己満足している。あとは裏づけのない話などはそれぞれのホームページ管理人の思いこみの可能性もあるのだから、間違っても鵜呑みにせずに、飼育者個人個人が自分で考えてもらう以外にない。

※メールで質問される場合、私はとにかく質問者を「文鳥の好きな人」「同好の人間」という目で見ることにするので、成人している以上、老若男女はどうでも良い。したがって、そういったことを自己申告してもらっても意味がない(若い女の子だと特別詳しく返事するとか、男からだと無視するとかいったマネはしない)。念のため。なお返信は題名「Re〜〜」の形でそのまま出して、基本的にそれでお終いにしている。丁寧にお礼のメールを頂いても、そこにさらに質問事項がなければ返信しないことにしている(失礼な気がするのだが、そうしないとキリがつかず、メールの往復が続いてしまう場合がある)

 基本的に文鳥を扱ったホームページというのは、自分の愛鳥の自慢が主眼のものが多く、変わり映えしないかも知れない。しかし、むしろそれが健康的で自然な姿だと思う。
 文鳥を飼っていれば、自分の愛鳥の姿を見せびらかしたくなるのは、自然な成り行きで、むしろ文鳥愛好者は、どんどんホームページを作ってしまうべきだと思う。写真と簡単な飼育経過くらいなら、数日で公開できるはずなのだ。もしかしたら、その程度の内容では公開できないと気後れする人もいるかもしれない。しかし、初めから立派なホームページなど少ない。内容の充実など後から考えれば良いし、日常の記録と写真を何気なく載せているだけでも、結構他人が見れば興味深い点もあるものなのだ
(あまり他人事に興味がない私のような人間でも、白文鳥同士の子供で桜が生まれたりするだけでも地方色があるかも知れないと関心があるし、オスのさえずりを録音で聞ければ、実はいろいろ系統が分かるかもしれず、ワクワクする面もある。ただしこういう人間はかなり特殊かもしれない・・・)
 何よりも、誰もがホームページを持ってしまえば、ホームページの管理人が
「特別に文鳥について詳しい人」などという誤解をしなくなるのではないかといった期待もしている。この手の誤解は起こりがちだが、はっきり言って閲覧者も管理人も何の違いもない。せいぜい、能書きを言っている管理人の方が、少しは知識や経験がある可能性がありそうな気もする程度で、祭り上げる程のものは何にもない。すべては偶像であり、虚像である。

 例えば獣医さんは医療の専門家であっても、飼育の専門家ではない。禽舎で大量に飼育する人が、カゴで手乗り文鳥を飼う場合のことを十分に理解しているとは限らない。長い飼育経験を誇ろうとも、普通の飼育環境とはまったく違う可能性もある。

 もし文鳥のホームページを立ち上げようと決意したら、具体的にまず参考にすべきはHP『ピンクのクチバシ』ではないかと個人的には思う。健康的でアットホームなホームページ作りの非常に良い見本となるのではなかろうか(私もマネしたかったが、不徳のため出来ずに違う方向に流れてしまった)。後はいろいろ常識の範囲内で、先行ホームページのマネをしてしまえば良いだろう。
 同じ動物を飼っているのだから、体験などが似てしまうのは当たり前なので、似たような体験を記載したホームページがすでにあっても、その体験を捏造したのでもなければ気にすることはない。まさか「同じ体験するなんて!」と見当はずれに怒る人もいないだろう
(たぶん、いたとしても一時の気の迷い)。もっとも、そうした内容や企画が似てしまったと自分でも気づいているようなら、メールで一礼しておけば気が楽になるとは思う。

 HP『文鳥団地の生活』の作成過程については、以前掲載したこともあったが(記録喪失しました・・・)、Windowsの添付ソフト『frontpageexpress』で作ってしまっていたわけで、ようするに安易である。内容は明確にマネする意図はなかったが、初めの頃は『ピンクのクチバシ』『文鳥チコのホームページ』『文鳥と愉快な仲間たち』『JapaneseRicebird』などの先行ホームページを大いに参考にさせて頂いた。
 といっても、はじめは画質の荒い写真(スキャナでとりこんだアルバムの写真)と、備忘録としていたワープロの文章記録をパソコンに移植したものに過ぎなかった。
『ピンクのクチバシ』をみて「写真を貼るといいんだな」、『文鳥チコのホームページ』をみて「文鳥の購入経過などの文章も使える」といった安易な発想でつくったわけだ。やがて、『文鳥と愉快な仲間たち』をみて「文鳥の紹介ページも必要だ」、『JapaneseRicebird』をみて「違った角度で考えられないだろうか」、といったようにして内容が膨らみつつ、現在に至るのである。

 ただ、ホームページの開設について自戒を含めて気をつけたいのは、ホームページで書いてしまったことを変えないといった自縄自縛に落ちいることだ。ホームページを作って、少しばかり飼育法に触れたことを書いたので、閲覧者の手前変更が出来ない、などということになったら不幸としか言いようがない。より良い方法を常に考えていくゆとりは持つべきで、10年20年、それ以上飼育経験があってもその点は同じはずだと思う。
 またメールで質問をする人が出てきたり、掲示板に書き込みをしてくれるからといって、その人たちをまるで
自分の弟子か家臣のように扱う気持ちになってはならない。日本が自由民主主義の国である以上は、個人個人がいろいろな考えかたをすれば良いし、いろいろな飼育の仕方をすれば良い(ただしホームページで他人に何か薦めるなら、繰り返しとなるが、閲覧者が自分で検証出来る程度の情報を公開するのが良識だと思う)。自分の考え方だけを押しつけ、従わなければ無視するようになったら、勘違いの極致で、「お山の大将」と見なされても仕方がない。
 ホームページなど上辺だけ、必要な情報部分だけを読む人が多いものであり、隅から隅まで読んで、管理人の思想信条、文鳥の場合はその飼育方針に徹底的に敬服して同調する閲覧者など、本来あるはずもなく
(以前、メールである管理人さんに質問したら、一々ご自分のホームページにある細かな語句を引用されてビックリした事があった。とりあえず拝読してはいたのだが、そらんじる程ではなかった・・・)、あるべきでもない。また、それを求めてしまっては、すでに文鳥についての情報を公開するホームページではなく、一種の宗教団体に姿を変えてしまいたがっている自分に気づくべきではなかろうか。

 こうした点は、閲覧者の側も自覚しなければならない。まともな個人なら、好き好んで信者になる必要はないのだ。まず文鳥の情報に、もったい付けるほどのものなどないことを普通に考えるべきで、そんなにえらい人というのはまず有り得ないことも客観的に悟るべきだろう。たかが文鳥の話(されど文鳥だが、愛好者でない一般人から見れば小鳥は小鳥に過ぎない。客観性を失うと世間一般では非常識となってしまう)なのである。たまたま閲覧したホームページが絶対的に正しいなどと信じるのは勝手だが、それは新興宗教やキャッチセールスに、たまたま引っかかるのと変わらない不用意さを示しているに過ぎないのだ。

 病気や体調不良についての質問をメールでされる人がいるが、そういった問題をメールで断定ができるのは神様だけで、さらに私などは当然症状を実際に目の当たりにしたところで素人診断以上のものは出来ない(資格もないのにお金を取って治療をしたら違法行為となる)。それは、ほとんどのホームページの管理人さんも同じである。同好の士に相談されて出来ることは、仕方がなく参考までに自分の意見をメールするだけである。そこには義務もなければ責任もない。一般的な相談と金銭を取る医療行為とは、まったく次元の違う話なのだ。
 例えば、人間の赤ん坊が夜泣きでお母さんが寝不足の時に、近所のオバさんが「普通のことよ、大丈夫よ、お母さんも昼寝をしなさいよ」と励ましたり助言したりするのは、経験者の言葉として正しいとしか思えない。しかし、その赤ん坊が何か病気にかかっているケースもないとはいえない。それなら、すぐに病院に行くべきだったということになる。しかし、夜泣きのたびに病院に連れて行くのが良いのだろうか。そんな事をしていたら、母親の方が先に病院のお世話になりそうだ。第一、小児科の先生もうんざりするに相違ない。
 「夜泣き」は一般的でも、汗をかいているとか、むくみがあるといった異常が伴えば、病院にすぐに連れて行くべきなのだ。それを見落とせば親の怠慢といわれてしまうだけで、
誰のせいにも出来ない。それは文鳥とその飼い主の関係でも同じで、他人からの情報と自分の観察によって、自分のとるべき行動を判断できるようにしなければならないのだ。まったく他人事ではないことを自覚しなければならない。

※ところでリンク(他のホームページを紹介し、そこと連結すること)はどんどん張っていけば良く、中身は文鳥関係である限り何でも良いと思っている。しかし『文鳥団地』はいろいろ書いてしまっているので、笑って許してくれない人も、まれには存在してしまう。したがって、こちらからリンク依頼はしないことにしている。私は「考え方が違うからリンクしない!」といった事は口がさけても言わないし、判断は閲覧した人が決めることなのでホームページの内容を審査して取捨選択する気も全くない。リンクを依頼されれば相互リンクにするのが礼儀とも考えている。

 たんなる独り言になってしまったが、そんな所だろうか。まあ、文鳥系のネットサーフィンでは「いろいろと気楽に味見をして、注文の多い料理屋には入らない」が正しい態度というのが、経験上の個人的な見解とお考え頂きたい。これは簡単に思われるだろうが、うっかり入店すると結構キツイものがあったりする。具体的に興味があれば・・・、後悔すると思うけれど、ご自身でネット上をさ迷ってご体験願いたい・・・。

 


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