文鳥問題.

《卵の管理

 先頃『文鳥様と私』という文鳥愛好者には著名なマンガを、遅ればせに読んだ私は(といっても3巻までですが)、その中で、さほどためらう様子も無く近親交配したヒナが生まれているのに、大げさに言えば愕然としました。兄妹婚で生まれた文鳥とその兄妹の父がカップルになり、その卵が孵化するという、私の感覚では断じて許せない事態を予告してその3巻が終わっているのです。
 兄妹婚だけでも十分に超近親(2親等)で危険ですが、さらに祖父と孫という超近親婚(2親等)まで重なってしまっては、その子供に途方もなく高い確率で問題が生じます。いったいなぜ、そのような危険過ぎる交配を行なうのか、そのマンガを仔細に読むと、恋愛が自由な環境である(昼間放し飼い)上に、『作品中の飼い主』が卵を生き物としてとらえているため、それを管理すると言う発想がまったく欠落しているのが原因と見なせるように思えました。
 私としては、「卵は生き物だから殺せない」などと言う、実に他愛のない飼い主の人間としての主観的な感傷によって、一体どれだけかわいそうな命を生み出すことになるのか、この点で憤慨を禁じえませんが、この『文鳥様と私』に登場する飼い主同様に、「文鳥の自由な恋愛は仕方がない」し「卵は殺せない」として、「自然に生まれるものは仕方がない」と単純に結論してしまう人も多いかもしれません。そして、実行するかどうかは別として、その考えが正しいと信じ、疑う事すらないかもしれません。そこで以下では、その考え方がどれほど完全な思い違いであるか、くどくどとご説明します。【2005年2月】


自然の摂理と二者択一

 有精卵は客観的にも、確かに生きています。小さな小さな血の塊である心臓が脈打つ様子を、抱卵数日の卵を割って目撃した事のある私は、生き物に魂があるのなら、それの宿る場所は脳ではなく心臓だろうと確信するくらいに感動したものです(魂は脳みそにあると考える方が科学的です)。そのような有精卵を飼い主が管理して処分するのは、実に気のとがめる事には違いありません。生まれるはずの命をその手で絶つのはつらいでしょう。しかし、私はそれが飼い主の義務であり、それをやらない方が、自然摂理への罪となるとまで思いつめています。
 自然摂理への罪とは穏やかではありません。そのように聞けば、キリスト教原理主義の人がいまだに妊娠の中絶など認めないように、生命の前駆体ともいえるものの『命』を奪う事のほうが、神の意思、ひいては自然の摂理に反するのではないかと、感情的に反論したくなる人もいるかもしれません
(ただし実際のキリスト教では人間以外の動物は問題とされないのが普通です)。しかし、その人間の人間による人間のための宗教の中でさえ、近親婚を薦めることは少ないですし、そもそも宗教を意識せずとも、道徳的に近親婚を禁忌と思うのは、人間として普通の感覚である点は認めてもらえると思います。
 つまり、近親婚も堕胎も人間としては、しないほうが良い行為に相違ないのです
(ただし私は中絶反対論者ではないので、念のため)。どちらも禁忌なら、問題はどちらを優先して避けねばならないかと言う点にあります。

 人間の場合はいろいろ議論もあるでしょうが、もし文鳥の超近親交配(いちおう文鳥では2親等以内と考えておく)で産まれた卵を孵化させるか、その『命』を奪うのか、二者択一をせまられた時、むしろ『文鳥様と私』の飼い主のように、両親が超近親関係にある事に目をつぶった方が、何となく『自然』に感じる人が多いかもしれません。何しろ、超近親である事実など、飼い主が目をつぶれば済むように思えるからです。しかし、その選択は、どちらがより自然の摂理に沿ったものか、深く考えた上でのものでしょうか?
 とりあえず人間であると言う立場から一歩下がって考えれば、近親交配を避ける事は生物種が保存され繁栄するために必須な自然摂理なのがわかります。近親交配を繰り返すと血が濃くなり、虚弱な個体が多く発生しますが、厳しい自然の中で暮らす生物たちにとって、このような『近交弱勢』現象が起こることは、その種族の繁栄に明らかにマイナスとなります
(私は十姉妹の野生化を聞かない原因は、この点にあると考えている。彼らは親兄弟でも仲良く暮らし繁殖してしまう特異な形質を持っており、そのことが自然繁殖の妨げになるのではないだろうか)また難しく言えば、近親交配によってDNAの情報が似通ったものとなり、多様性の進化が滞り、その生物種の発展(=自然の摂理)を阻害する懸念も一面においてあります。
 つまり、その生物が多くの子孫を後の世に長らえさせるために、近親交配は大変に危険な行為なのは明らかなのです。従って、動物は無意識のうちに近親交配を避けるシステムを持っています。それは、親と同居中は発情しない身体構造であったり、成長すると親の縄張りを離れるといったものです。この点で人間は、子供に噛み付いて遠くに追い出すわけにもいかないので、近親関係をお互いに認識させ、さらに道徳や法律で縛るようにしていると言えるでしょう。ようするに、倫理があるから近親婚がいけないのではなく、近親交配が自然の摂理に反するので、倫理的な規制をしているわけです。
 一方で、動物たちは「『命』を奪う」ことを避けているでしょうか。この場合、捕食の意味ではなく自分の子供についての話です。確かに、ひ弱な小鳥でも外敵が迫れば、親は子供を守ろうと懸命に行動するでしょう。しかし、両親が死んでしまったら子供は助かりません。従って、親鳥自身の命が本当に危うくなったら、親鳥は卵なりヒナなりを見捨てて逃げていくのが、虚飾のない現実です
(まれに片親が犠牲になるくらいのことはあるかもしれない)。また、自分が食べるものさえ事欠くような事態になれば、親はエサを求めて巣を離れ、育てていた子供を置き去りにするのが普通です。共倒れになるよりも、自分が生き残ればまた子供を産むことが出来るのですから、これは当たり前とも言えます。自然界はロマンチストには厳しいあくまでもリアルな世界なのです。
 つまり、先の問いは、そもそも二者択一では有り得ないと見なせます。近親交配による子孫を避ける事は生物にとって至上命題であるのに対し、結果的に子供の「『命』を奪う」方は、倫理など存在せず罪悪感などとは無縁に生きている動物の社会では、生存上ごく普通に行なわれる話に過ぎないのです。両者の重要性は、本来比べ物にならないと言えるでしょう。超近親交配となることを避けることこそが、何にも増して自然の摂理なのです。

 このように考えれば、卵・ヒナの放棄と近親交配による子孫の誕生、この両者を同一レベルで考えたり、優先順位を逆にしてしまうのは、あくまで現代人である飼い主側の感傷に過ぎないことは明らかではないでしょうか。しかもその感傷の根元にある倫理観とは、人間の人間による人間のためのものに過ぎません。それを文鳥に当然のように適用するのは、たんに文鳥を擬人化している事から起きる錯覚に過ぎないと言わざるを得ません。
 自然の摂理に反する超近親交配が、ペット動物である文鳥に起こってしまうのは、文鳥たちの倫理が欠如しているためではなく、飼い主である人間が用意した環境が不自然なのが原因です。本来ひとりエサの後、親鳥の縄張りを追われていくのを、結果的に妨げたのが飼い主である以上、まったく不自然な存在である超近親間の交配による子供の出現は、文鳥同士の自由恋愛の結果ではなく、飼い主がそのように強制してしまった結果と考える以外に仕方のないところなのです。
 超近親間の不倫をしているように人間には見えても、超近親である自覚のない文鳥に罪は何一つありません。彼らは、目の前の異性に惹かれて恋をし、産卵し、子育てしているだけです。それは実に自然な行動です。すべての責任は、お互いが超近親である事を自覚しながらその接近を許し、生まれる子供に遺伝的危険があるのを十分理解できる立場にありながら、その卵の孵化を見逃した飼い主だけに存在するのです。責任ある飼い主であれば、この点を誤解せず、しっかりと認識する必要があるでしょう。
 超近親交配の子供を生まないのが自然の摂理であるのに対して、人間が鳥の卵を奪う事など、朝食の目玉焼きを見なくても誰でも知っているありふれた話です。この両者を何となく引き比べて、文鳥ではない人間である飼い主が、後者の方に罪の意識を感じるのは、まったくの幻想、妄想、目先の感傷以外の何物でもないではありませんか。

 

卵管理は飼い主の義務

 以上は、わざと大げさにしてみた議論です。普通は「近親交配で生まれる子は病弱になりやすい」というごくありふれた知識一つを理解してさえいれば、自ずと飼い主として必要な行動はとるはずだと思います。
 病弱のヒナを避けるなどの必要上、やむなく卵を処分する事で、「命を奪った!」と文鳥を擬人化した妄想の中で罪悪感に苦しむとしても、それは飼い主だけが勝手に苦しめば済みます。しかし、超近親関係にある両親の卵をそのまま孵化させ、万一障害を持っていたら、まず生まれたヒナ自身が苦しみます。そしてそのヒナを育てる親鳥も飼い主も苦しみます。もし他にも文鳥がいれば、その超近親の病弱なヒナに飼い主の注意が集中し、結果、他の文鳥たちも苦しむ事になるかもしれません。また、運良くその超近親のヒナが丈夫そうに見えるので里子に出してしまえば
(卵を管理出来なければ、当然どんどん増えるので、自分だけでは飼いきれなくなる)後発性の遺伝病や不妊症のために、里親さんの家が苦しむ事になっても何ら不思議ではありません。そうした不幸な可能性が、普通の繁殖に比べて格段に高いのが近親交配であり、両者の血縁関係が近ければ近いほど、そして世代ごとに繰り返せば繰り返すほど、その可能性は止まることなく高まっていくのです。
 それでも、苦しみあえぎながらも生きている姿を見れば、その必死の姿に感動し、やはり孵化させて良かったと思い込みたいところです。しかし、もしそのヒナが生まれていなければ、代わりに丈夫なヒナが生まれ育っていた可能性のほうがよほど大きいと、客観的には指摘せざるを得ません。何しろ自然の世界では、病弱なヒナは生きられず、その分丈夫なヒナが育つことで、子孫が残っていくのが当たり前なのです。そもそも一度に何個も卵を産み、駄目ならすぐにまた産み始める事が出来るという文鳥の繁殖形態そのものが、問題卵や病弱ヒナの淘汰を前提としたシステムであるとさえ言えるでしょう。この点、人間とはまったく違っているにもかかわらず、飼い主があくまでも人間的な感傷から、病弱なヒナにこだわるのは、飼い主が人間である以上避け難いところですが、それは一面で、自然なら有り得た次の丈夫なヒナが生まれる機会を奪う事でもあると、少しは認識しておいた方が良いかもしれません。

 普段の私は、文鳥の事を十分に擬人化して見ていますが、それでも文鳥と言う生き物が、一度に6個程度産卵し、孵化しなければ蹴散らすなり放り捨て、次の産卵を始める存在であることも熟知しています。とても十月十日もかけて一人しか産めない二足歩行の動物と同一視する事は出来ないので、卵に対して人間の赤ん坊並みに擬人化するような事はありません。
 そもそも私は、近親交配のヒナの誕生を避ける目的でなくとも、卵をどんどん処分しています。我が家の文鳥世界の管理人である私が、もし感傷に浸りそれを実行しなければ、一年で数十羽増え、あっという間にその世界が崩壊するのは火を見るより明らかだからです。
 このリアルな状態の中で卵を管理するのは、私の主観に立てばまさに義務以外ではありません。これから生まれる命がどうしようが、それに魂があろうがなかろうが、すでに現実に生きて私とともに生活している文鳥たちを守るため、飼い主として成すべき事を成すだけです。
 家庭内で、文鳥の卵を盗んだり食べたりする天敵が存在しない以上、飼い主がこの役割を演じるのも致し方がないと言えます。しかし、いちいち卵に命があると考えていると、人間として苦痛なので、次のように割り切る事にしています。

・卵は「生まれる」のではなく「産まれる」もので、生き物ではなくナマモノだ。

・・・なぜなら、はじめから命の宿る事のない無精卵もある。
    従って、いちいち気に病むのは無意味だ。

・産まれた卵は例え有精卵であっても、やはり生き物ではなくナマモノだ。 ・・・なぜなら、そのままでも中止卵になる可能性がある。
    従って、いちいち気に病む必要はない。
・生まれても(孵化しても)、親鳥から引き継ぐまでは「自然物」だ。 ・・・なぜなら、育雛放棄も一種の自然現象として起こりえる。
    従って、親が育てないヒナを代わりに育てる必要はない。 

 文鳥は個性的で、その行動には不思議なくらい「人間くさい」面があり、それも魅力の一つですから、擬人化するのも当然だと思います。むしろ擬人化して観察した方がその気持ちを察し異常などにも早く気づくようにも思います。しかし、身体構造や生態は人間とはまるで違う生き物なので、まったく擬人化してしまうと、時に近親交配の諾否のような問題点を見失う基にもなってしまいます。
 「自由恋愛の結果だから」「卵も命だから」、と、本来、親子兄弟が離れ離れになるべき存在であるという大前提に気づかず、人間の胎児と文鳥の未孵化卵を混同した思い込みをし、結果として自然の摂理に反した不幸な子を量産するようでは、飼い主として重大な過失ありと指摘されても仕方がないでしょう。

 私はこれからも、近親交配を防ぐのは飼い主の義務である点を認識しつつ、『文鳥と私』の飼い主同様に、文鳥たちの「人間くさい」行動を楽しんでいきたいと思います。

【追記】
 その後4巻を読んだところ、『文鳥様と私』の飼い主も手製の擬卵を使い卵管理をするようになっていた。たんに増えすぎて飼えなくなるからですが、それが現実です。飼い主として繁殖を行なう場合、将来の事を十分に考える必要が出てくる点を、私などの経験を他山の石としていただければと思います。


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