文鳥学講座


最終回 ー文鳥との別れー

「あなただけではありません」

 さて、これまで五回にわたって文鳥を飼う初心者を意識して、偉そうに講釈してまいりました。その内容は、一回目に飼育の仕方に絶対的な方法がないこと、二回目に手引書は当てにしすぎてはいけないこと、三回目にペットショップを過信できないこと、四回目に文鳥の能力をいろいろ観察出来る楽しさ、五回目に繁殖の興味深さ、といったものでした。この中で、私は文鳥に限らずペットを飼うのは飼主である個人の責任の上で行われるもので、そこからの楽しみも自分で見つけ出したり考えたり出来る自由なものだと指摘したかったのです。

 文鳥との付き合い方は自由であって良いのです。というより、自由でしかないのです。なぜなら誰も絶対的な方法を提示することは出来はしないのです。

 我が子も同然の小鳥の生命を他人にどうして全面的に任せられるでしょうか。このホームページも、他のホームページも、飼育書も、獣医さんすら無謬(むびゅう)ではないのです。
※ 獣医さんについては触れなかったので、少し指摘しておきます。
 獣医さんも人間のお医者さんと一緒で、名医もいれば怪しい人もいるのは当然のところですが、人間と異なり保険制度がないために治療方法も料金設定も一定しておらず、同業者との過当競争の中で顧客確保のため過剰医療が日常化しており、告発本も出され、いざこざが絶えないのが現実です。本質的には、彼らは治療従事者という職業で患者という名の客に対するだけで、慈善活動をしてくれているわけではありません。さらに誤解の多い点ですが、彼らは動物医療の専門家ではあっても、動物学の学者でも栄養学の学者でも何でもありません。それどころか飼育経験すら薄弱かもしれない存在なのです。したがって彼らは飼育者として見れば、我々一般人と何ら変わらず無知な存在なはずで、医学知識と治療経験から飼育についてアドバイスするくらいしか出来ません。決して特別な何者かではないのです。
 したがって、彼らの責任は彼ら自身が施した治療行為が適切か否か程度のものでしかなく、それも今のところ人間の医療行為以上に責任追及すら困難なあやふやなものでしかないのです。つまり、すべての獣医さんがペットの事を何でも知っていて、善意に満ちた人間であるなどというのは妄想なのです。

 毎日手に乗せて遊ぶような文鳥でしたら、我が子も同然の感覚になるのは自然なことです。そして我が子の幸福や健康な生活を保障するのは『親』である飼主以外にはいないわけです。他人に責任をもってもらう事は出来ないのです。食事や生活スタイルや獣医さんの選択、その治療方針の検討までも、文鳥をめぐる環境のすべては飼主である人間個々が考えて判断していくより仕方がないのです。何しろ当の文鳥はいつまでたっても物を言うことはありません。
 カゴの中の鳥に対する全責任は飼主個人にあるわけです。人倫に背くような虐待以外であれば飼主がどのような飼い方をしても自由であるという場合の、自由は、この
厳しい自己責任を背景にしてはじめて存在するものなのです。

 さて、文鳥を愛する者の責任を最も痛感させられるのは、その愛するものの死と直面した時だと思います。飼主はその死を自分の飼い方に問題があったと思い、自らを責めることになるのです。どのように大切に健康に慎重に接していても、必ず別れの時がくれば、多かれ少なかれ飼主は後悔の念にかられるものなのです。
 
「もっとしっかり世話してやれば、もっともっと長生きしたはずなのに」
 しかし、しっかりしていれば長生きしていたか、健康管理が十分なら必ず長生きするものか、さらには長生きすることだけが幸福の基準であるか、それも本当は誰にもわからないのではないでしょうか。文鳥の一生は長くて10年です。普通はせいぜい7、8年で逝ってしまいます。そのことを念頭において、必ずやってくるその時に、「自由」の中で選んできた自分の飼育方法で納得することが出来れば、それで問題ないと言う他ないのです。

 元も子もない言い方をすれば、いかなる飼育方法をとろうとも、それは飼主の自己満足でしかないのです。そして、その中でペットとしてしか生きられない文鳥たちは十分幸福であると考えるしかありません。
 愛するものが死ねば、誰でも悲しいものです。しかしペットである文鳥の死を見とれるのは飼主以外にはありません。それも自由や自己満足の中での飼主の責任なのです。したがって、全否定をしなければならなくなるような飼い方は始めからしないように、心のどこかで常に気をつけておくべきだと私は思います。
「もし文鳥に生まれるなら我が家の文鳥になりたい」と思えるような飼い方が出来れば、それで良いのではないでしょうか。
※ このように言うと人間側の身勝手のみで、ペット動物の意思を無視しているように思われるかもしれませんが、キレイ事を抜きにして、はっきり言ってしまえば、彼らに自由意思はありません。もし「自然に戻りたいはずだ」と考える人がいれば、それは単純過ぎる妄想といわざるをえません。なぜなら、ペットは自然を知らず、人間抜きには存在しえない動物なのです。日本人にはかわいそうだから外に放すと言う発想が強いですが、それはペット動物には一番酷な仕打ちです。それは人間を一人裸でジャングルに取り残すようなものです。結果は明白なのです。
 それ自体良いか悪いか別にして、ペット動物の幸福は人間とともにしかないのです。そして彼らが知る環境は、個々の飼主が、良かれと思って用意したものでしかなく、それ以上ではないことを認識しなければならないと思います。人間もすで人為的な手の加わった家畜もペット動物も、一面では十分に不自然な存在なのです。

 また、文鳥との別れは、老衰や病気だけとは限りません。悲惨な別れとなってしまうことも多々あります。窓から逃げる程度ならまだしも、飼主自身が足で踏んでしまったり、ドアにはさんだり、洗濯機でまわしてしまったり、掃除機に吸い込んでしまったり、なべの中に落ちてしまったり、飼主が加害者と言えそうな事故による突然の別れも現実に起きていることなのです。
 そうした悲劇がおこした時、飼主は自責の思いに心が引き裂かれるはずです。それは第三者がなぐさめられると言ったものではないと思います。大いに泣くしかないのです。しかし冷たいようですが、自分を責めたところで生きかえってはくれません。起きてしまった事をいつまでも後悔しても仕方がないのです。
 確かに文鳥をカゴから出しておいて、家事をしたり足元に注意しないのは明らかに不注意なように思えますが、本当は
あくまでも事故は事故なのです。運、不運の問題といった面もあるのです。なぜなら、同じ事をしても事故に至らない可能性も大いに存在するではありませんか。こうした場合はかなり無理してでも自分を加害者と責めたてるべきではないし、他人が責められる行為ではないのです。まるで自己弁護のための詭弁のようですが、たまたま文鳥にあたってしまったものが飼主の足だったに過ぎないのです。足で踏むなどの悲劇はいつでも誰にでも起こる事態で、実際起きるものであり、非常に珍しいということでもないのです。長年飼っている人は、少なくとも間一髪の経験の一つや二つあるものだと思います。どんなに注意していても起こりうるのです。悲嘆に暮れるのはもっともですが、いつまでも自分を責めるべきものではないのです。

 しかし、つらく悲しいことのあった時、人はえてしてその事を忘れようとします。愛する文鳥の死を経験した時、特に悲劇的な時など、飼主はその経験を忘れ、その文鳥を飼っていたことすら忘れようとする事があるようです。しかし、また、あえてはっきり言えば、私はその態度こそ情けないと思います。生物には必ずやってくる死という悲しさに心奪われて、楽しかったはずの文鳥との日常を忘れてしまって良いものかを、悲しみに浸りながらも考えて欲しいのです。その文鳥が与えてくれた経験を消し去って良いものでしょうか。それでは一体何のためにその文鳥は存在していたのでしょう。
 私は生命は取り替えがきかないから尊いものだと信じます。最近はやりの機械人形や、モニター画面のプログラムなどのマスコットで、一体生命そのものの何がわかると言うのでしょう。そのやり直し(リセット)の出来る『終了』が刻印のように人間の心に残り、しめつけ、悲しみを与えるでしょうか。
 生き物の、ペットの、文鳥の死そのものには、それだけにすら意味があり、飼主に大きな物を残してくれているのです。そしてそれは彼らが生きてこの世にあったことの証でもあるはずです。カゴの中の鳥の生命の証、つまりは思い出を、
飼主以外の誰が受け止める事が出来るでしょう。悲しいからと言って忘れてしまうのは、一個の生命として彼らが存在したことすらもこの世から消し去ってしまう、究極的に残酷な行為だと私には思えてならないのです。
 家族のような愛するものが逝ってしまえば誰もが悲しいはずです。しかし親兄弟の死を受けて、その思い出を消し去ろうと考える人が、どれほどいるでしょうか。文鳥を擬似的にせよ
人間である自分と同等の存在と考えるのなら、簡単に「忘れる」ことなど出来ないはずです。家族の死を通じて、必ずやってくる自らの死をも自然と見つめるように、家族同然の文鳥の死も何かを飼主に教えてくれるはずなのです。それから目を背けてどうするのでしょう。

 私も、これまで数多の文鳥の死を見てきました。すでに思い出すらもおぼろげになってしまったものもいます。しかし私が存在する限り彼らはある意味生きていると感じます。宗教的な話ではありません。彼らが生きていたこと、そして死んでしまったことは、必ず飼主である私と言う人間に影響を与え、今現在の行動の基盤となってくれていると意識しているのです。そして今生きている我が家の文鳥たちに、例え血縁関係がなくとも、はっきりと生き継がれていると思えるのです。

 愛するものの死は悲しくつらいものです。しかしそれは誰もが同じことなのです。そして避けることは出来ずやってきてしまうものでもあるのです。一方、教訓や思い出も必ず残されます。それを生かすも殺すも飼主である人間次第だと思います。
 せめて後悔が少なくなるように、いろいろ考え悩みつつ『自己流』を作り上げながら、あなたが個性豊かで楽しい文鳥との生活を満喫される事を祈りしつつ、この講義風の話を終わります。 

 

長らくの御静聴感謝致します。


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