母の時間(とき)
詩とエッセイ 2


呼びかけ
遠い日の居間で
あなたの口から
初めて出た
私への
ちいさな
呼びかけ
「ママ」「あーたん」
あの日から 幾千回も
あなたが呼んだ
「ママ」「おかあさん」
呼ばれるたびに
私は
世界中で たった一人の
あなたの
「お母さん」に
なっていく


呼ばれる

「お母さん」「ママ」「お母ちゃん」……どれも温かくなつかしい響きです。
「お母さん、わたしのノート知らない?」
「ママ、ごはんまだ?」
「お母さん、ぼくが作ったの。見て」
子どもは日に何度となくお母さんを呼びます。
雨の日も陽の輝く日も「お母さん」という言葉は子どもの暮しの基調音。呼びかけてもらえる小さな幸せをふり返る一日があります。呼びかけてくれる子どもがいてこその「お母さん」なのですから。
私も、今はすっかり大人になった子どもたちから「お母さん」という呼びかけがたくさんあった日々を過ごした時期があります。
今、街角や通りで「お母さぁーん」と呼ぶどこかの小さな子の声を聞くと、思わずそちらのほうを振り向いています。そして、ふっと胸が熱くなるのです。
今日も、団地の幾つも並んだ窓のひとつへ向けて「お母さぁーん」と芝生に立って呼んでいる子を見ました。
どっさりの窓の、そのどれかの中に、たった一人の、その子のお母さんがいるのです。
育児に疲れて泣きたくなったとき
「私をお母さんと呼ぶのは世界中で、この子だけ」と言葉に出して言ってみると、疲れた心をふっと包んでいくものかあります。
人は、つい忘れてしまうのです。あまりにも当り前になってしまった、当り前にしてはいけない「驚き」を。自分のことを「お母さん」と呼ぶ小さな命。まぎれもなく私の身体の中で十ヵ月と少しの期間を過し、まぎれもなく私が産んだ子でありながら私には子どもを眺めていると「あなたは、どこから来たの」と尋ねたくなる瞬間がたくさんありました。どこからやってきたのかは誰にも分からないひとつの命。その「驚き」を忘れずに見つめると、当り前の日常の風景が限りない神秘の塊と感じられてきます。たくさんの「お母さん」の中から、この私を「自分のお母さん」と決めてきた子の不思議。そして当り前のように「お母さん、お母さん」と呼びかけてくる子の不思議。
母子(おやこ)の出会いの不思議を思うと、子どもと幕す平凡な日常が決して平凡ではない日常に変わっていきます。当り前のように手をつなぎ、当り前のように向き合って食事をし、当り前のように喧嘩をしたり仲直りをする同士。偶然の出会いの母子。結婚相手や友人を選ぶようには互いの趣味や好みといった意志を介在させずに選ばれて、そして今此処にある関係、母子。性別も顔立ちも性格もなにもかも人間の意志を超えたところから訪れる一つの命が、私には不思議で不思議でなりません。
積木をしている子どもの背や、私の作るご飯を一心に口元に連ぶ子どもを見ながら、私は心の中でよく「どこから来たの?」という問いかけをしてきました。
娘が三歳になったばかりの頃、泥んこ遊びのお団子を私に見せたくて団地の階段をハアハアと息をきらして駆け上がって来たことがありました。娘が両手にくるんだお団子は見事なほどのまんまるで、それは素晴らしい出来ばえでした。額にも鼻の頭にも小さな汗の粒を浮かべ、五階まで駆け上がって来る娘の、私に見せたいという一心がいとおしくて、まじまじと娘を見つめてしまいました。<この子は、私が独身の頃、どこに隠れていたのだろう。どこからやって来たのだろう>それが思わず声になりました。
「ねえ、どこから来たの?」
尋ねる私に娘は泥んこの指で、今靴を脱いできた方を指して「玄関から!」と答えました。

「仕事と家庭は両立する?」などと話しかけてくるほど大人になった娘に、私は今でも時折り<どこから来たの?>とつぶやいています。私のことを永遠に「母」と呼ぷ子どもとの、この偶然でしかも密接なつながりは、いったいどこに用意されていたのかしらと私にはそれが今でも不思議で仕方がないのです。


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