なぜ共有なのか?

〜ゴミと汚染を減らす生活は社会的に重要な利益をもたらす〜

1998年、ケロッグ社は新製品を発表した。その新製品「ブレックファースト・メイト(朝食仲間)」は、一人前のシリアル、使い捨て皿、小箱のミルク、プラスチック製スプーンがひとまとめにして包装されている。これを子どもに渡すだけで、朝食の用意が終る。ケロッグ社代表のアンソニー・ヘブロンはニューヨークタイムズ社のレポーターにこう語った。「これは今日の忙しい家族向けの商品です。朝食の準備も後片づけも要りません。」もちろん、消費者にとっては後片づけは要らないが、消費者の住む地域にとってはそうではない。もしアメリカ人全員がこのような朝食を一年間食べたとすれば、560万トンの包装ゴミが発生する計算になり、この数値は現在、市から出される包装ゴミの8%に相当する。

また消費者には価格として跳ね返っている。その1.39ドルという価格は、従来の朝食(母/父がキャビネットからシリアル、冷蔵庫からミルク、引き出しからスプーンを取り出す)に比べて約5倍の値段である。それ以外にも社会的代価は恐ろしい。ブレックファースト・メイトのテレビCMは、子どもが一人でテレビを見ながら朝食を食べている間、親は眠っていてもよいと、親に信じこませている。家族がいろんな面でぼろぼろになっている社会では、従来の家族の生活(家族一緒に料理したり食事したりすることがかつては家族の日常的な決まり事であった)はなくなってしまったかのようだ。

この新たな朝食のような考え方が経済全体に拡がっていくことを想像すれば、プライベート向け個別商品やサービスの強化、私的財政支出、社会的結束、環境など問題のあるグローバル化の流れに説明がつく。これは世界中の共同体で起こっていることだが、家族や共同体がこれ以上弱体化することに耐えられないし、これ以上の汚染やゴミを吸収することも、森をパルプに変えることについても限界にきている。しかし、自然が衰退し、社会の分散が加速するにつれて、さらに猛烈にプライベートで個別的な解決方法で訴えている人々は多いようだ。例を挙げると、公共水道水を信用せずに水のボトルを買う。公共ゲートでは安全に思えないのでプライベート・ゲート(私的な門)のあるコミュニティに移住する。これらは数十年前に始まったシフトの最近の動きである。都市居住者はアパートを離れて郊外の一戸建てに移り住み、公共バスやトロリーに乗るのを止めて自動車に乗る。便利さや、個人所有のためだが、それは疑わしい。例えば、自動車が交通渋滞を引き起こすことになるならば、それはプライベートで移動するときに便利と言えるのか。もし朝食が家族生活を貧しくし孤独や疎外を育むことになるならば、それは贅沢な朝食と言えるのか。

もしプライベート製品の強烈な追求により公共の幸福が侵されることが多いならば、その逆もまた正しいことを多くの実験で明らかにされている。つまり私的レベルで共有製品やサービスを強化することは、家族やコミュニティの生活に対して、また生活を依存している環境に対しても、もっと豊かになれることの証しになる。図書館の本から公園のオープンな空間についてはすでに共有しているコミュニティは多い。しかし、人々が強く望むプライバシーを尊重しつつ、共有は家具から交通システムのすべてにまで拡張していくことが可能となるだろう。この好機を認めるコミュニティは驚くべき恩恵が得られている。

共有:人類の長い伝統

共有には人類の歴史において深いルーツがある。種として人類が生活してきたほとんどの期間(何十万年も我々は狩猟者や捕獲者として生活した)ほとんど全ての物を共有していた。昔の人々は、衣服、運搬具、武器以外の私有財産はほとんどなかった。農耕の発明以前は、土地から土地へ移動し、季節ごとに熟した植物や移動する動物の群れを追いかけて巡回する社会を営んでいた。そのような生活では、物はすぐに負担となるので、所有物を蓄えることは無縁であった。

もし実際に「財産」が少しでも意味を持っていたら、空気や水を天然資源とみなす理由はほとんどなかった。川や森は、神以外の誰も所有できない天の一部とみなされていた。だから、食料探しや遊びや祈りまで、生活の多くが共同体中心であった。私有財産はこの場合全く不必要であったが、実際には財産を共同体から分けることができた。

約一万年前、かつて人間が農耕を始め、食物供給が信頼できるようになったとき定住が可能になった。そのときから財産の所有が一般的に行われるようになった。所有に伴い、自分や家族が財産を独占して使用するために、個人個人が誘惑された。その誘惑は、後の文明において、分裂を起こさせる原動力となった。それでもまだ、大きなコミュニティの利権は保護されると確信させる社会もたくさんある。例えば、ローマ帝国は税を集め水路に支払い、中世のヨーロッパは公共の牧草地を設立した。

三世紀前、啓蒙運動(フランスの哲学者デカルトの象徴的な言明「我思う、故に我あり。」)から生まれた個人個人の賛美をもって、私有財産は現代的、市場性経済の基礎となった。今日、財産権は自由市場経済の広がりとともに拡大し続けている。ただ単に、不動産が多くなっただけでなく、私的なものとしてかつては考えられなかった領域にまで及んでいる。水はコミュニティ管理下にある泉から引き込んでくるものだが、ビンに詰められて売られることが多くなり、事業家が私的な利益を得ている。さらに国家間で輸送船により取引されている。数学の公式は1998年に、ワシントンにあるアメリカ巡回控訴院で特許可能になると定められた。それは、数式は私有できることを許可するものであり、アインシュタインの式 E=mc2を適用した市場を窮地に陥れるのではないかと論評された。生命そのものでさえ所有物となる。アメリカ政府はパナマやソロモン諸島の土着人から採取して特許の取得できる遺伝物質を探している。実際パプアニューギニアに住む男性の人間細胞列の特許取得に成功した。(その特許は後に「否認」された。)

私有がより広く受け入れられるようになり、公共分野が多くの社会で影響力を失うにつれて、世界の富の多くは個人の手中に入る。それを裏返せば、共有されている世界の富は少なくなっているとも言える。なぜなら私的な富は私用のためにしまい込まれる傾向にあるからである。世界の20%の富裕者が20%の貧困者の60倍も裕福であり、1960年代半ばの2倍の格差であるという結論が出された。これは不平等性について考えてきた人々にとっては落胆する結果となったが、止められない傾向のように思える。

富の分配が悪化するとともに、環境が不健康になっている。消費者指向の経済が物質やエネルギーをさらに猛烈に使うように働きかけているのである。この猛烈な使用はプライベートな個別消費のパターンによってさらに悪化するかもしれない。プライベートな個別消費は、共有するよりも大量の物質やエネルギーを必要とする場合が多い。ケロッグ社の朝食について当てはまることは、木材、土地が家を建てるために使われること、また鉄、プラスチック、コンクリート、土地が交通システムを建設するために使われることについても当てはまるだろう。

ドイツにあるウッパータル・インスティチュート(ウッパータル大学)、フランスにあるファクター10インスティチュート(ファクター10大学)などの研究者達は、消費が世界の限界を越えることを解析し、安定した経済を達成するためには、全世界は物質消費量を現在の半分にまで減少させなければならないと推測している。最も削減されなければばならない国は、消費量が多い工業国である。生活の質を大きく下げずに、現在の水準のわずか10%に物質使用量が削減できると信じる解析者もいる。研究者達はこの大きな目標を達成するために創造的な戦略を提案してきた。紙や金属のような基本物質のリサイクル、製品の再設計、低廃棄型の処理への代替(例えば、自動車通勤から遠隔通信へ)などがある。

プライベート化が進む時代において、あまり親しまれていない戦略として、地域的な共有という古い手段を復活させることがある。共有の主な目的は社会に関するものかもしれないが、実際に環境上の恩恵が得られる。さらにこれらの恩恵は単に理論的なだけではなく、人間の主要な三つの活動領域である自動車、居住空間、ボランティア活動において十分な恩恵が示されてきた。次章以降では、これら三分野のそれぞれについて、共有という戦略が実際どのように機能してきたかを述べる。

自動車

1990年代初め、オランダ交通省は、オランダの自家用車の台数が急激に増加しているという警告を記した。自動車の所有者は1970年代の200万人から600万人以上の約3倍になり、2010年までには800万人に到達する見込みである。オランダは、メキシコシティーやバンコクを飲み込んだ悪夢のような渋滞と汚染を恐れ、自家用車の増加を鈍らせる方法を探し、駐車場の制限、バスや自転車の利用推進、その他にも自動車の利用を減らす対策をとった。またカーシェアリングという、ヨーロッパ中に急速に拡がっている新しいアイデアを支援した。

例えばアムステルダムでは、住人は、250ドルの敷金を払えば、オートデレン・カーシェアリング・プログラム(オートデレン自動車共有プログラム)に契約できる。プログラムを解約するときは、その敷金の95%が払い戻しされる。業者は、カーシェアリングのために予約された市周辺にある特別駐車場に駐車する。会員は、事前の予約によって、また空きがあればその場でも自動車を借りられる。そして大抵、駐車場は数ブロック内にあるので、そこまでは徒歩か自転車で来る。そして電子カードを使ってキーボックスを開ける。そこには自動車のキーの他にカーステレオが入っていることが多い。月末には、固定料金と使用時間や運転距離に応じた従量料金による請求書が送られてくる。

カーシェアリングは自動車を主な交通手段としている人向けに計画されたのものではない。他の交通手段がなく毎日自動車通勤している郊外の住人にとっては値段が高くなり過ぎる。しかし年間1万マイル以下しか運転せず、公共交通機関や自転車や徒歩に依存できる人にとっては、カーシェアリングは柔軟性に富み経済的な交通手段が加わることになり機動性を増す。これは自動車の所有をとどまらせることになるかもしれない。

その考え方はわずか10年程前に初めて勢いづいた。1988年、カルステンとマルクス・ペテルセンのドイツ人の兄弟二人が、ベルリンでの交通渋滞と高い運転コストにより公共フラストレーションが増していることに気づいた。そして、二人はその一年前にスイスで出現した構想を捉えた。市民に対して非常に高価な交通製品を売るよりも交通サービスを売ればよいのでは?彼らは、スタットオート・オブ・ベルリン社を、二台のオペルと予約を受けるための留守番電話から始めた。その会社は、56ヶ所の乗り物ステーションに駐車している300台の自動車にまで拡大し、5500人の会員にサービスしている。会社が成長するにつれて、ヨーロッパ中の渋滞している市や町にそのアイデアは拡がった。今日、ドイツ、スイス、オランダ、オーストリア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、アイルランドの300の町や市に住んでいる7万人が、カーシェアリンググループの会員である。ごく最近では、そのアイデアは北アメリカ大陸で足がかりを築いた。カナダでは6つの市がカーシェアリングを開始もしくは計画している。ポートランドでは運営システムがあり、シアトルは開始したばかりだ。

ピーターソン兄弟は、捕らわれることなく長い間逃走してきた社会を捕まえた。それは自家用車の使用であり、便利である反面かなり効率が悪い。ほとんどの時間を駐車に費やされている自動車は多く、スペースを取り、人々を行きたい場所へ運んでいない。つまり製品としての目的を果たしていない。例えばオランダの平均的な自動車は一日のうち1時間12分使われ、残り約23時間は使われていない。この計算によれば、寿命のうち95%は無駄になっている。このような真相の非効率的性を考えるために、1/20の印刷機しか運転していない印刷会社を想像してみる。その会社はすぐに倒産することになるだろう。自動車については、無駄な保管は駐車場をたくさん作らなければならず、都市空間をさらに締め上げることを意味する。たとえ道路で実際に使用される自動車の数が変わらないとしてもである。カーシェアリングはこの非効率性に注目している。イギリスやアイルランドで共有された自動車は平均して30%の時間使われた。それはオランダでの平均的な自動車の使用率の6倍に相当する。

現実には、効率性は駐車場を減らす以上に効果をもたらす。なぜなら、カーシェアリングは自動車の数を減らすからである。効率性の恩恵は製造される自動車の数を大きく減らさないが(6倍の時間使われる自動車は約6倍早く新しい自動車に交換しなければならないだろう)、共有は自動車に依存している人口を減らすので、製造される自動車の数を減らすことができる。実際、自動車を共有している人のほとんどが、主な移動手段を公共交通機関、自転車、徒歩に移している。スイス・エネルギー省、ドイツ交通省では、自動車を共有している人は、共有する前に比べて一年間当たり2万8千キロ運転距離が減ると算出している。それは自動車を使いたいときに自動車が手に入らないからではなくて、習慣や優先順位が変化することによる。過去に自動車を所有していなかった人でも運転距離は少し減少した。オランダの研究によると過去に借りたり、レンタルしたり、タクシーを使ったりしたときの総マイル数から29%減少していると記されている。共有された自動車は一台当たり、平均して4台の自家用車を削減すると見積もっている。それは複数台の自動車の所有者がそのうちの何台かを売ったり、自動車の購入を考えていた人が購入を止めたりするからである。

自動車は物質を大量に必要とする製品であるため、国レベルで自動車の数を縮小すれば、膨大な物質的節約をもたらすことができる。例えば、アメリカの自動車産業は、毎年、国内で生産される鉄の2/3、ゴムの半分、アルミニウムの1/5を消費している。この多大なる資源の消費は大きな環境コストを強いる。環境コストは、採鉱現場の汚染から始まり、物質処理や運搬のために化石燃料を燃焼する結果生じる地球温室効果ガスの範囲に至るまで及ぶ。ドイツの研究では、ヨーロッパにおけるカーシェアリングの可能性について、個人的な移動に制限を設けることなく少なくとも600万台の自家用車が容易に削減できると見積もっている。自動車1台当たりでは1.5トンの物質が節約されるが、この量は1997年のEUにおける鉄の総消費量の3%以上に相当する5トンの鉄を含み、合計900万トンの節約になる。

もちろん移動性の疑問は重要である。なぜなら自家用車はその便利さゆえに大事にされているからである。カーシェアリングに関して特別な施策を巡らせることによって、それがもたらす効率の飛躍的な向上に対して便利さを少し減らすことになるだけである。例えば、ドイツのカーシェア・プログラムの研究では、会員は欲しいときに欲しい自動車を手に入れた場合が90%以上、会員は違った自動車や違った時間へ便宜を図られた場合が8%、会員が全くサービスを受けられなかったのがわずか1.3%である。(1.3%は、持ち主が自家用車を使用できない割合より少ないかもしれない。なぜなら、自動車を修理に出していたり、家族の誰かが使用中で、持ち主が使用できないこともあるだろう。)

共有自動車に移行することによる不便さは大きくないように思える。スイスのカーシェア・グループの研究では、会員の69%が最寄りの自動車から10分以内の場所に住んでいることが明らかにされた。ちょうどバスの路線や地下鉄の駅へ行く不便さはそれを利用するメリットに比べて小さいことが多いように、自動車にアクセスする場合の自動車の駐車場まで歩いて行く不便さは、一般的にかなり小さいと見なせる。

けれどもおそらく大多数の人にとって最大の魅力は、カーシェアリングがもたらすお金の節約である。年間走行距離が1万6千キロメートル(1万マイル)以下のドライバーにとって、カーシェアリングは経済的な意義を持つ。これは郊外から自動車通勤や、通勤電車やバスにアクセスする人にとっては該当しないかもしれないが、都市化傾向にある現代では、増加している都市近郊および都市居住者を含むことになる。ワシントン州シアトル市にある交通機関のキング・カントリー・メトロは、自家用車、タクシー、レンタルとコスト比較をしてカーシェアリングの金銭的利点を示している。このデータによると、4回のショッピング、4回の外出、1回の市外へのドライブによる一ヶ月の予算は、116ドルになる。一方、アメリカ自動車協会は、1998年アメリカで毎月新車を維持するためには575ドルかかると見積もっている。値段は公共交通機関の利用を促すのに十分である。

カーシェアリングによる環境や金銭に対する恩恵は多いが、さらに、共有する関心を育成することによるコミュニティの繋がりを強くすることができる。例えば、共有者は自動車を清潔にしておくことに義務を感じる。なぜならどの自動車についてもユーザーのコミュニティはかなり小さい(ユーザーを記録することで最後に自動車を使った人が知れるから)。

カーシェアリングは、すべての市で実行できるわけではない。例えば、今日のロサンゼルスでは、必要条件である公共交通の便がよくないため、カーシェアリングは難しい。カーシェアリングを行う地域は、渋滞の緩和により単に自家用車が増えることのないように、道路や駐車場を整備するべきである。また、カーシェアリングはガソリン駆動によるエンジンを排除したり単独ドライバーに占有された個人的な移動システムへの依存を劇的に削減する、というような一掃する目標の代用にはなることは決してない。けれども、うまく運用すれば、カーシェアリングは、都会の交通機関の中で自動車をさらに大きく位置づけることになる。アメリカやヨーロッパの市において個人の自動車による移動のうち80〜90%も縮小する。

住居

社会学者デイビット・リースマンは、1950年代に、都市やその近郊に住む人達は「孤独な群衆」であると語った。私達は数百メートル先に住んでいる人の名前も人生も知らずに暮らしている。このことについて、都市に住むほとんどの人達は、プライバシーが保護されていることを感謝しているが、それと同時に、人とのつながりが損なわれていることを嘆いているという相反する感情を抱いている。例えば公共の住居を利用したり、人とのつながりを取り戻そうとする代替の生活方法があるが、逆にバランスを反対方向に傾け過ぎて、住人が自立とプライバシーを放棄している強過ぎる社会的つながりのある生活になることもよくある。家庭のプライバシーと共同体の生活との間でバランスを保つことは、現代の社会では難しい。

1970年台初め、デンマークで社会的開拓者のグループは、コハウジングとして知られている共同体(コミュニティ)の実験を始めた。コハウジングは現代的な村であり、現在もいくつかの国でしっかりとした基盤がある。住人達が設計し、コミュニティの強い結束を作ることを意図したこの村は10〜40の家屋から構成されている。それぞれの家屋は自分が所有する一軒家かアパートである。プライバシーについては価値が認められて尊重されているが、またコミュニティの設計と文化についても、近所間のつき合いと共有を奨励している。大抵は、会議、レクリエーション、定例食事会のための「コモンハウス」が共有されるが、作業場、庭などの空間が共有されることもある。コミュニティは自営し、それによってつき合いを深め、コミュニティ内の決定事項は合意に基づいて作られる。つまり、コハウジングは、多くの人々が望む社会的結束を供給しているが、各家庭が関わりの度合いを自由に決められるようである。

コハウジングは人々の心を捉えている。デンマークでは、200以上もの村が運営されていて、さらに新築の家の10%はコハウジングである。コハウジングはカーシェアリング以上にたやすく北アメリカに広がってきている。約55のコハウジングのコミュニティが現在アメリカとカナダで成功している。それらはすべて1980年代終わりから建設されたものであり、さらに150以上もの村が計画段階である。住人の数はまだ少なく、アメリカとカナダの人口を合わせた3億人中の3千人である。しかし、開拓中のコミュニティの関心や動向から察すると、今後拡大することを示している。

コハウジングのコミュニティを歩いて通れば、従来の郊外の家屋とは大きく違ったものに出会うことになる。家は、密集して建てられており、隣家と壁を共有しているところが多く、中庭や歩道の周囲に群がっている。自動車はコミュニティの財産の周囲に限られているのが普通であり、コミュニティの空間を占領することは許されない。住居は小さいが、なぜか住みやすそうに見える。最も印象に残るのは、近所同士がよく知り合っているということだろう。コロラド州のグレイロック・コモンズと呼ばれる村は、相乗り自動車が子ども達をサマースクールに送迎している。コミュニティの庭はボランティアがよく手入れしている。コモンハウスのテーブルは次回開かれるコミュニティの夕食会のために準備されている。従来の郊外居住者は、これらのコミュニティの特徴と共に、また馴染みのある要素も発見するだろう。例えば、ほとんどのコハウジングでは、家は個人の所有物であり、普通の町の家と間違えやすいという要素がある。

住人も十分に親しみやすいように見える。1970年代にコミューンを形成した異文化グループのようではなく、住人は、もっと社会的満足ができるように、環境にやさしいように望んでいるが、世間の文化とはあまり鋭い亀裂を示さない。アメリカのコハウジングに住むほとんどの人は専門家であり、半数が大学卒業者であり、家庭を持っているのが普通である。彼らはプライバシーを尊重するが、従来の郊外居住者より社交性に富み、環境に配慮し、四方の壁を越えた世界に携わることに興味を持っているように見える。チャールズ・デュレットは妻のカティ・マクカマントと共に、1988年アメリカでコハウジングの動きが進出するのを助けたが、コハウジングは柔軟な選択肢の一つであると記している。「コハウジングでは、人はプライバシーとコミュニティの間で選択できると感じる。従来の住宅では、プライバシーとプライバシーの間で選択しなければならないのが普通である。だから私はコハウジングがきっと成功すると思った。アメリカ人は選択するのが好きだから。」

コハウジングはアメリカではまだ幼いが、環境的利点やコミュニティの建物の利点は、オーストラリア人の研究者グラハム・メルツァーがすでに記述している。1996年、メルツァーはアメリカの18のコミュニティを訪れ、主に、カリフォルニア州、コロラド州、マサチューセッツ州、ワシントン州であるが、コハウジングがどのように彼らの生活を変えたのかを調査した。その結果、住人の多くは、自分達が生活の質を全体的により向上させるために喜んで重要な駆け引きを行ったことが明かになった。

おそらく、コハウジングの住人が払った最大の犠牲は、空間を明け渡したことである。研究によると、あるコミュニティの一軒当たりの平均的な居住空間は、平均的な共同空間の共有を含めて、約1400平方フィートであった。これは1996年にアメリカで新築された平均的な家の2/3の大きさである。しかし、空間の利口な共有によって小さい住宅での暮らしが助けられる。共有されたメカニカルサービスのための地下室、隣の住居との共同の入り口は、住みやすさが犠牲にされることはほとんどなくても住居の体積を減らせる。密集した建物は、庭の空間が共有できる。庭はプライバシーの大きな損失を払わなくても容易に共有できる空間である。メルツァーの研究では、これらの特徴の結果、平均的なコハウジングのコミュニティは、アメリカでの従来の開発に比べて、一軒当たり半分の土地しか使っていない。

住人はまた、スムーズな運営を保証するために、コミュニティの自営に自由時間を費やす。平均的に会員は、一つの委員会で奉仕している。運営委員会、景観委員会、合同食事会コーディネートグループがあり、毎月または二週間に一度の頻度でコミュニティ活動を運営する。

けれどもこれらの時間の投資に対する恩恵には価値がある。ほんの数分が大きな違いを生み出す場合もある。コロラド・グレイロック・コモンの住人は、店に出かける予定がある場合、玄関の側にカラーの旗を立て、近所の人の買い物リストを喜んで受けるという印にした。水の漏れている蛇口の修理や新しいソフトウェアのインストールなどの簡単な支援は、コミュニティ内では頻繁に行われている。かつては拡大した家庭で供給されたお世話はコミュニティで与えられていることもどきどき見受けられる。例えばマサチューセッツ州アムハーストのパイオニア・バレーのコミュニティにいる女性は出産後二ヶ月間も料理を作らなかったと報告されている。

コハウジングの中央施設には、食事の共有などの恩恵がいくつかある。メルツァーの研究では、ほとんどのコミュニティは、週二回以上の合同食事会があり、平均して58%の住人が普通またはいつも参加している。もちろん食事は、近所の人との社交のために定期的な機会となる。また、時間の節約になることは重要である。慢性的な時間不足に対するケロッグ社の回答に比較して、(個人用の朝食パック)、コハウジングの住人は食事の準備や後片づけを共有する努力に変えている。その結果、毎月何時間もの自由時間が得られる。コロラド州のノマド・コハウジング・コミュニティは、週二回の合同食事会があるが、住人は5〜6週間に一度料理と後片づけを手伝えば済む。その見返りに、彼らは同時に準備された幾種類もの料理を見せて楽しめる。ゼブ・パイスのコミュニティの会員によれば、料理や後片づけの当番のときは、2.5〜3時間の仕事になる。もし家庭で同等な食事を用意し皿洗いをするために、毎日一時間を必要とするならば、ノマドで要求される以上の6週間で約9時間以上の仕事をしなければならない。コミュニティが大きければ参加する住人にとって時間の節約は大きくなる。

コハウジングにおける他の社会的利点として、安全で簡単に整えられた託児が挙げられる。必要性が起こったときでさえ、お互いを知り、信用のある隣人が近くにいることから託児を促すことになる。共同の場所がかなり安全で近所の人の目が届く範囲にいることが分かっているために、両親は安心して、子どもを家の外で遊ばせることができる。これらのコミュニティの結束は、今日、多くの親が直面していて最も挑むべき問題につき進むことを助ける。

住人は、子どもが、若者から老人までの遊び友達をたくさん持っているという容易な社交性を喜んでいるようである。小家族の時代では、コハウジング・コミュニティの利点は20人の子どもを持ち、子どもに兄弟姉妹に近い関係を与えることができることである。コミュニティでなければ決してこのような関係を持つことはできないであろう。子ども達は遊び時間を味わっていると伝えられている。テレビを見ることよりも遊びが好きなこともよくある。メルツァーの研究では、「コハウジングに引っ越ししたとき、家庭でテレビを見る習慣はなくなる」と報告している。子ども達もまた、大人達のように持ち物を共有する。あるコミュニティでは、自転車が共有場所に置かれ、どの子どももそこに置かれている好きな自転車に自由に乗れる。

メルツァーの研究ではコハウジングは社会的強さを越えて、さらに環境を配慮した生活様式を取り入れていると提案している。調査では、会員はコハウジングに引っ越してきてからは少しだが「緑の人」になることが分かった。引っ越し前よりも、もっとリサイクルするようになり、エネルギーを節約し、水の無駄使いをしなくなった。最も驚くべきかつ勇気づけられる発見は、会員は自動車の運転が減ったことである。住人の多くは中高密度の地域から、自動車の使用が増加すると予測されるであろう低密度の地域に引っ越してきた。しかし、会員は、新しいコミュニティに引っ越してきた後、自動車の運転が減ったと報告した。そして、調査では、自家用車の数が4%も減少していることが分かった。

これらの利益を信用できるか、またはコハウジングが確信できないかのどちらかである。会員の多くは引っ越し前は従来の家に住んではいなかった。従ってメルツァーのデータからはこれらの2つの家を明確に比較することはできない。一方、もしコハウジングがその利益の原因だとしたら、これらの利益は研究結果よりも実際の方が大きいかもしれない。住人の多くは、コハウジングに来る以前から緑の実践を行っている環境主義者を宣言していた。緑の生活を養うコハウジングの設計と活動力を拡張して、もし住人の多くが緑の実践が標準でない従来の郊外から引っ越してきたとすれば、環境的節約はさらに大きいだろう。

メルツァーが研究したコミュニティ内では、共有の実践は建物や土地を越えてよく拡がる。コミュニティ・ワークショップやほかの設備を構築するおかげで、18のコミュニティの住人は、過去に家庭で使用していた数と比べ、冷凍庫、洗濯機、乾燥機の数を25%削減し、芝刈り機は75%削減することを達成した。例えばカリフォルニア州エメリービルにあるドイル・ストリートのコミュニティ・ワークショップでは、電気ベルトサンダー、ピクニック用クーラー、カヤックが収納されていて、これらはすべて住人が使用できる。ニューメキシコ州のコモンズ・オブ・アラメダは異なる手法を取っており、特定の家庭から借りられるかもしれない用品リストを投函して、家庭用品を非公式に交換することを進めている。住人の住所の多くは、群がった家はコンポストのような環境的な実践による協力を促すことを見出している。

もちろんコハウジング・コミュニティは、ユートピアではない。コミュニティを構成する密接な相互関係は対立も生み出す。例えば安全で容易な託児所の機会は、コハウジングの大きな恩恵であることに加えて、子どもが他の大人の影響を受ける社交性について心配するような大きな負担をも引き起こす。同時に、アメリカの開拓コミュニティの多くは、人種的、経済的多様性が足りないことを嘆いている。これは一部が建築計画、許可、建設の立ち上げ費用として、会員が引っ越すかなり前から出費が要求されるからである。ワシントン州のあるコミュニティでは一軒当たり2万8千ドルと見積もられた。低所得者で家を探している人はそんな現金を持っていない。住宅援助制度は一般的に家賃支払いのためであり、家の設計や建築のためではない。このような問題はコハウジング特有の問題ではないけれども、開発者達がコハウジング建設で先導するときに(先見ある住人は先頭に立って多くの努力をしてきた)、金銭やコーディネートの問題はもっと簡単になるべきである。

個人の時間と技術

たとえもし私達が、自動車や家、道具やおもちゃなど、実際に身の周りにあるすべての物を共有したとしても、まだ大きな個人的資源として個人の時間がある。しかし、時間も物の所有のように、共有することができる。一般的には家庭教師やコーチや他にもボランティアなどがある。品物の共有のように、時間を奉仕することは、コミュニティを作ることになり、川岸のゴミ掃除や油の流出により危険にさらされた鳥を救うようなボランティアのように、環境的な健康を支持することができる。しかし、両親が予め包装されたシリアルをテーブルに持ってくることがほとんどない世界では、ボランティアをする時間がたくさんあるのだろうか?

もっとたくさんの質問が起こるかもしれない。どのようにして我々はボランティアしている時間の恩恵をうまく利用できるのか。タイム・ダラー・インスティチュート・オブ・ワシントンのエドガー・カーンが考えた一つの方法は、「サービス・クレジット」として知られる道具を利用することである。彼らは次のように働く。法律、病院、料理、近所の家で、特別な人のボランティアの単位時間を仮定し、電子データベースに1サービス・クレジットとして記録する。そのボランティアは、固定給の老人で、浴室を塗装してほしいと求めている人と仮定する。その老人をビクターと呼ぶとしよう。ビクターは塗装ができないが、誇りが高いため、手伝いを頼むことができない。しかしビクターは、サービス・クレジットを持っているので、躊躇することなく、このクレジットを使って他のボランティアに塗装を依頼できる。この簡単な例では、サービスクレジットはボランティアサービス「市場」の2倍の大きさになる。ビクターがコミュニティに貢献している仕事時間の代わりに、彼の時間と塗装している人の時間の加算が貢献される。さらに広く多様な能力を身につけたボランティアが参加するにつれて、ボランティアの市場は拡大する。サービスクレジットはどのコミュニティにおいても人々の時間とエネルギーという豊かさの潜在的な資源の切り口になる。

サービスクレジット制度は、アメリカの150以上のコミュニティで運用されており、現在は、日本やイギリスでも使用されている。ニューヨーク市のウーマン・シェア制度の例では、100人の会員が、「時間ドル」というサービスクレジットを使用していて、様々な仕事でお互いを助け合っている。大工、料理、マッサージ、洋服や資料の整理、結婚式のプランが、一番要求されているサービスである。社会的結束はサービス関係だけではなく、会員の1/3〜1/2が出席する毎月の食事会で強化されている。実際に、コミュニティの建設でウーマン・シェアが成功したことにより喜ばしいジレンマが生まれた。女性達が親友になり、サービスに対してクレジットを受け取りにくくなる。サービスクレジット制度が解きほぐされることで、他にもっと価値のあるものをそこにもたらす。コミュニティがより密着するにつれて、「理想は時間ドルが自己破壊すること」と創始者ダイアナ・マクコートは考えている。

サービスクレジットは社会的結合の崩壊によって破壊されてきた家庭、近所、コミュニティサービスの非公式の経済を回復するのを助ける。片親(または日中留守にしている)の家庭は多く、親戚は遠く離れて散り散りで、近所は他人のことが多い。この崩壊の結果、子ども達はあまりにも監督されず、老人は無視され、公共生活は死んでいるコミュニティは多い。公式の経済からこれらの問題を遡れば、民間あるいは政府の制度においても、手が出ないほどに高価であることが多く、慢性的に効果がない。しかし、人々を相互に援助する関係に動かせば社会の網をもう一度編み直し始めるのに役立つ。

サービスクレジットは、様々な形で使用される。ミズーリ州セントルイスではグレース・ヒル・ネイバーフッド・サービス(グレース・ヒル隣人サービス)は、低所得者の10個の近所同士において、自己援助制度を刺激する手段として時間ドルを使用している。1997年には広範囲のサービスにおいて3000人以上のボランティアがクレジットで75000時間稼いだ。例えばあるプロジェクトでは、112人のボランティアが、ミシシッピ川のレクリエーション道を清掃し、トラック7台分のゴミを集めた。他の近所は「時間ドル店」を設立し、衣服、おもちゃ、衛生商品、寄付された商品を運びこんだ。これらはフードスタンプでは購入できない。時間ドルがその店での標準的な支払い方法である。

事業はコストを支払うためにサービスクレジットを使用することがある。一方、年輩の市民に、彼らはボランティアの時間があることが多いが、プロのサービスや商品に接する機会を与える。ニューヨーク市の健康維持組織であるエルダー・プラン(高齢者計画)は、老人の買い物や医者までの乗り物のような日常的な生活活動を援助するためにボランティアを使用している。この援助は老人の患者に意欲を向上させることが多く、彼らが高価な老人ホームに入るのを止めさせることがときどきある。エルダー・プランのボランティアはほとんどが健康で、クレジットを蓄えているか、またはエルダー・プランの医療以外のオプションでクレジットを使っている。クレジットは、例えば、家の修復や昼食の付き添いがある。昼食の付き添いは、ボランティアにとっては人気のあるオプションであるが、年輩で一人暮らしの多く、一緒に食事をする社交性の価値を認めている人が使用する。HMOは最近健康製品店を開店したが、そこではボランティアがサービスクレジットと足のマッサージ、血圧測定や矯正枕と交換できる。

一方、サービスクレジットは通貨のような機能を表すかもしれないが、それらは重要な点で違っている。参加者の多くは自分自身を賃金が得られる労働者ではなく主にボランティアとして認識している。カーンと共著ジョナサン・ローは「時間ドル」という本の中で、「サービスクレジットは単にお金の代用ではなく、むしろ、動機と思考の違った波長を送るように見える。つまり、助けたいという欲や必要とされたい要求があるが、これらは市場賃金によって無視されるか拒絶されている。クレジットは単にその価値の象徴にすぎない。」つまり、クレジットは、一種の影の通貨を使用した素朴なサービスで気取らない市場を設立する。クレジットは効率的な通貨の利点を持っていて、稼いだ恩恵の尊厳を申し出るが、よりよいコミュニティを築こうとするボランティア精神によって補給される。

個人の時間やエネルギーが豊かさの重要な資源であるという現実は、腐敗するコミュニティと潜在的かつ画期的に密接な関係を持っている。一旦、人々の時間が統治する手段に利用されれば、コミュニティ開発のいくつもの「真実」が疑わしくなる。もはやコミュニティの健康は富める市民、自治体、政府(これらは重要だけれども)の資本による決定に完全に依存している。一方、サービスクレジットはコミュニティが自分達の問題に立ち向かう機会を提供する。さらに、各人の能力がどんなに制限されていても、サービスクレジット制度の下では価値あるものとなる。帰国する人々は、町中の他の帰国する人々が健康であることを確かめるための電話代にクレジットを稼ぐことができる。なぜならすべての仕事は等しく価値があるからである。スープを配ろうが、法律のアドバイスをしようが1時間1クレジットである。サービスクレジットはコミュニティの会員のすべてに威厳の感覚を回復することができる。貧しいコミュニティについて、これらの従来の知識に対する挑戦は、例えばワシントンにある市中心部近郊の低所得者の地域シャウで表面化した。地域の遊び場を刷新し、麻薬の家を取り除いた隣人は、託児、家庭教師、老人の世話、近所の清掃で、1996年に1000時間以上のサービスクレジットを稼いだ。やがて、ある地方の会社は専門の法律の仕事で、住人が目標を達成するための手助けをするためにコミュニティの振る舞いについて1300時間以上稼いだ。サービスクレジットのデータベースは住人と法律会社を一つにした。住人にとって法律的なサービスを235000ドルの価値があるものとした。

カーンはサービスクレジットについて、広く様々な可能性のある用途を見ている。すでにサービスクレジットは緊急の備蓄、隣人犯罪監視パトロール、鍵っ子のための活動などの制度に適用されている。カーンはボランティア作業によるクレジットは賃金雇用を見つけられない人々が豊かさの恩恵を拡げるための正当な理由として使われるべきと提案している。さらにサービスクレジットが借金を促す一つの手段になると考えている。ドルと称する借金は時間ドルに変換され、それが時間外労働をなくすことになるだろう。

個人的な時間とエネルギーの共有は、コミュニティを活性化するために大きな潜在力をもたらす。しかしそれはまた、社会が低所得者への義務を放棄することの弁解として利用されるリスクを伴う。サービスクレジットは金銭的にコミュニティを運営するために必要とされる能力を提供する政府の責任の代わりになるものではない。そして二層の経済制度の基盤ともなるべきではない。しかし、サービスクレジットは、非公式で貨幣のない経済の中で、大きく重要な未開発の資源を制定することになる。

絆の再発見

公共、民間部門ともに、特に工業国においては、、共有を組織化すれば、持続可能なコミュニティが築けることを理解し始めている。カリフォルニア州にあるタコマパーク市、メリーランド市、バークレー市は住人が数々の動力や手道具を貸し出す道具図書館を運営している。ちょうど本を貸し出す要領である。コペンハーゲンでは公共の自転車を供給していて自由に利用できる。これは速くて汚染のない町を横断する交通手段としての支援である。ドイツの会社はドライバーと自動車に乗せてもらいたい人をマッチさせる支援、家を空ける計画のあるアパートの住人と短期間の家を探している人をマッチさせる支援を行っている。これらの共有の形式は物質的効率性を増す。そして環境的な衝撃を減らすとともに、社会的な結合を強化している。

もちろん共有は個人個人や隣人によって導かれるされる。市民はどのくらい自分の所有物を使用しているか、どのくらい喜んでそれらを共有するかを査定することによって主導権を取ることができる。すべての家庭が自家用芝刈り機を所有しなければならないのか?旅行かばんセットは?キャンプ用品やスキー用品はどうだろうか?もし、住人がアラメダ・コハウジング・コミュニティのように、隣人に貸してもよいものリストを投函したらどのように近所が再生するかを想像してみなさい。インターネットや、近所でホームページの使用が拡がるにつれて、このような共有は今までよりもやりやすくなるかもしれない。

このような共有はもっともっとという個人主義と私的財産を強調する現代社会においては他人事のように見えるかもしれない。しかし、これらの社会にとっては勝勝の戦略であるかもしれない。それは、分断されたコミュニティの勝利、開拓された環境の勝利。つまり、個人主義の現代社会の幕開けとなったデカルトの言明「我思う、故に我あり。」は、南アフリカのホサ民族の知恵と同居させる必要がある。私はいる、それは私達がいるからだ。一旦、個人としての私達が、私達のコミュニティにおけるルーツに再感謝したならば、共有は思想のように、必ず第二の性質になることだろう。

Why Share? by Gary Gardner
World Watch Vol.12,No.4 July/August 1999
World Watch Institute


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