インドの思想


ヴェーダ

ヴェーダとは「知る」という意味のサンスクリット語に由来して、宗教的知識を意味し、さらには、その知識を集大成した聖典の総称となっている。「リグ・ヴェーダ」「サーマ・ヴェーダ」「ヤジュル・ヴェーダ」が古来、三ヴェーダと呼ばれ、その後、呪法に関する記載を載せる「アタルヴァ・ヴェーダ」が加えられて、第四番目のヴェーダに数えられた。

「リグ・ヴェーダ」は、その成立が西暦1000年頃まで遡り、ばらもん教における最高の権威ある文献として尊宗されてきている。賛歌の内容は、戦勝・戦利品の獲得、妻の取得、子孫の繁栄、家畜の増殖、降雨と豊かな収穫、健康増進、長寿、息災安穏などと多岐にわたる。登場する神々の多くは、自然界の構成要素やその諸現象、あるいはその背後に存在していると考えられる神秘的な力を神格化して崇拝の対象とした自然神である。しばしば登場するインドラ神は、元来、いかずちの神であり、雨を降らし水を与える、暴虐であるとともに自然の恵みを授ける神であった。彼は、赤い髪と髭を持ち、二頭の赤い馬が牽引する戦車に乗る。武器は稲妻の光を放つ金剛杵である。ヴァルナ神は、自然界や人間界ばかりでなく、神々の行動をも律する天則を保持するものである。

ヴェーダ時代に人は、自分の願望の達成成就を求めて、目指す主宰の神を賛美し、それに望まれる供え物を捧げ、その見返りとして相当の果報を期待した。ヴェーダ文献全体が多種多様な祭式行事を前提とし、その誤りない執行という至上目的をもち、その必要の上に立って編纂されている。


ウパニシャッド

「ウパニシャッド」は、秘密の教えを意味し、世界の神秘を説き明かすばらもん教の一群の聖典の名称である。「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」、「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」など主なものだけでも十三ある。個々のウパニシャッドは、すべてが、いずれかのヴェーダに属する解説である。その基本思想とは、きわめて多様で限りなく変化をし続けるこの現象世界には、唯一の不変な実体(ブラフマン:梵)がその本質として存在し、そしてそれが、そしてそれが人間の固体の本質(アートマン:我)と同一であるということである。いわゆる「梵我一如」である。


六師外道

紀元前五世紀頃には、これまでのばらもん教の伝統に囚われないで、自由な思索を行おうとする思想家・修行者が現れた。このうちブッダに先行する者たちを、六師外道と呼ぶ。


1.プーラナ・カッサパの無道徳論

善行、祭祀などによる善い果報はなく、殺生、盗みなどによる悪い果報もないという。あらゆる因果応報を否定して、善悪の別は人間が定めたことでああり、真の意味では存在しないことを主張した。


2.パクダ・カッチャーヤナの要素集合説

人間の体は、地・水・火・風・の四元素と苦・楽・霊魂という七つの集合要素から構成されている。


3.マッカリ・ゴーサーラのアージーヴィカ教(運命決定論)

一切の生き物の運命については決定論・宿命説の立場をとり、一切の生き物が輪廻の生存を続けているが、それは無因無縁である。生き物それぞれには苦楽の量があらかじめ定まっていて、非常に長い期間を賢者も愚者もただ流転を続けるのであり、この帰還を短くすることも、修行によって中途で解脱することもできない。


4.アジタ・ケーサカムバリン(快楽主義)

死後の霊魂は存在せず、従って現世も来世も存在せず、善業による善果も悪業による悪果も存在しない。


5.サンジャヤ・ベーラティップッタの懐疑論

形而上学的難問に踏み込むことの意義に疑問を投げかける判断中止の態度表明をした。
毒矢のたとえ・・・証明不可能に関わり続けることは無意味であり、それよりも今しなければならないことをしなさい。毒矢に射られた人に対して、この毒は何かと尋ねる前に矢を抜いてあげなさい。


6.ニガンタ・ナープッタのジャイナ教

ニガンタ・ナープッタはジャイナ教の開祖である。紀元前五世紀頃のことである。
ジャイナ教の宇宙論・世界観によれば、霊魂、物質、運動の条件、静止の条件、虚空の五種の実在体が世界を構成する根本的要素である。
人間が、身体的および精神的活動を行うと、その業によって微細な物質が霊魂を囲んで付着する。このために霊魂は束縛され本来の上昇性が阻害されてしまい、迷界に輪廻して苦しみの生存を繰り返すことになる。この輪廻の生存を脱するために、人は苦行を行って、過去の業を滅ぼしかつ新しい業の形成を防止して、霊魂を浄化しなければならない。業という微細な物質が霊魂を離れるとき、霊魂は本来の上昇性を発揮し、人は生きながらにして解脱の境地(涅槃)に到達する。
物事の判断において、絶対的・一方的になることを排除しようとした。すべては相対的にしか表現できないし、相対的な解釈しか成り立たない。

生きとし生けるものの生命を尊重し、他のあり方・生き方をしているものを傷つけないことは、規範のうちでも最も基本的かつ普遍的なものである。ジャイナ教の修行者は、道を歩いて路上の小虫や小動物を踏みつぶさないようにと道を掃く払子(ほっす)を携帯した。空中に飛ぶ羽虫を吸い込むことを恐れて、口鼻をマスクで覆った。また飲み水の中の小虫を飲み込まないようにとこれを濾過する。蚊・蠅・毒虫を殺すことは許されてなかった。しばしば断食を行い、死に至るまでの断食が称賛された無所有をいうことも徹底して実行し、一糸もまとわずに裸で修行していた。我々の肉体がすでに霊魂を覆う束縛となっている。その上に、衣服を漬けるのは、さらに霊魂の正常な本姓を二重に覆うことになると考えた。


ゴーダマ・ブッダの仏教

仏教は、紀元前5世紀から4世紀頃、ゴータマ・シッダールタによって説かれた教えが起源である。
ゴータマ・シッダールタは、釈迦族の族長である父シュッドーダナと母マーヤーの長子として生まれた。釈迦族は、今日のネパール領内にあった。彼は、20歳で結婚し、一子をもうけた。このとき彼は、できるだけ人生の苦しい現実を見ないで歓楽の中に過ごせるようにし向けられていた。あるとき、彼は、城外に過ごす人々の苦を見た。そして、この世ははかないものであり、この世には何一つ永続的なものはないことを実感した。彼は聖者になぜ苦行するかと問うと、聖者は、この世の苦から脱却し至福の境地を得るためだと答えた。ここで、29歳にして、彼は出家した。そして、数年間にわたる苦行を続けたが、悟りを得ることができず、その後、瞑想することによって悟りを開くことができ(成道)、ゴータマ・ブッダとなった。

ゴータマ・シーダールタは十二縁起を思惟観察することによってブッダとなった。事物の発生には、必ず一つの因と多くの縁がなければならないという関係がある。ブッダは、苦は無明が原因で起こるのであって、無明を滅すれば苦も滅するということを、12の縁起で表した。
また、ブッダは、中道、八正道、四諦を説いた。四諦のうち第一諦の苦諦は、人生における苦の現実についての真実であり、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことなど(四苦八苦)、人生のすべてが苦であると述べている。第二諦の集諦は、苦の原因は現象に対する愛着としての渇欲にあると述べている。第三諦の滅諦は、苦の消滅した状態を述べている。すなわち、悟った状態である。悟りとは、真実に目覚めることである。第四諦の道諦は、悟りに至る道である中道を述べている。すなわち、愛欲快楽を追い求めたり、肉体的な疲労消耗を追い求めたりすることの両極端に近づかないことである。これは、八正道という8つの項目からなる。正しい見解、正しい思考、正しい言葉、正しい行為、正しい暮らしぶり、正しい努力、正しい心くばり、正しい精神統一である。 仏教の根本的な特徴として四法印がある。これは、すべての現象界は常に生滅し変化する(諸行無常)、すべてのものに実体本体を見ない(諸法無我)、すべての現象は苦と感じられる(一切皆苦)、煩悩が吹き消されて生活が苦悩のない浄福の状態(涅槃寂静)を述べたものである。
仏教を一言で表すと、この世を苦とし、苦からの救済について述べている。

初期仏教の世界観・存在論


人間を含めて世界に存在するものダルマ(法)のあり方については、仏教では多元論的な説明を与える。

五蘊

これらが集まって、現実の世界に存在するすべてのものが構成される。

五蘊
色、形をもったもの。物質。感覚・認識の対象となるもの。
心の内に印象を受け取り、感情を生む働き。
心の内にイメージを構成する働き。
心の能動的な意志活動の働き。潜在的形成力。
対象をそれぞれ区別して、認識し、判断する心の働き。

十二処

現実の存在を構成するものは、我々の認識や行動の成立する意識主体側の領域として六根と、それに対応する対象側の領域として六境の合わせて十二処である。六根と六境はそれぞれが対応し合って、それぞれに対応する六識が生ずる。六根と六境と六識を合わせて十八界と称する。

十二処、十八界
六根六境六識
眼(視覚機能)色(いろ、かたち)眼識
耳(聴覚機能)声(音声)耳識
鼻(嗅覚機能)香(におい)鼻識
舌(味覚機能)味(あじ)舌識
身(触覚機能)触(触られて判ること・もの)身識
意(認識・思考機能)法(考えられるもの・概念・範疇)意識


アショカ王の理想

アショカ王は、紀元前三世紀頃、戦いで多くの罪なき民衆や獣畜を殺傷したことを深く反省し、すべての人々がいかなる時代においても守るべき永遠の普遍的な理法があることを確信するに至った。そして、仏教や、諸宗教を保護し援助した。

インドでは古来、人が何のために生きるのかと聞かれたとき、実利(アルタ)、愛欲(カーマ)、法(ダルマ)、解脱(モークシャ)の充足を「人生の四大目的」として挙げる。

人生の四大目的
アルタ物質的な利益・財富 カウティリヤ「実利論」
カーマ性愛に代表される享楽や欲望 ヴァーツヤーヤナ「カーマ・スートラ」
ダルマインドに生きる人々の守るべき義務・価値基準 「マヌ法典」
モークシャ解脱、理想の達成された極みの境地 ヴェーダ聖典、ウパニシャッド、各教派の経

典型的なインド人のライフスタイルに「アーシュラマ(四住期)」説があり、一人の人生に四つの経過時期を設定している。

アーシュラマ(四住期)
学生、梵行者 アーリア人の子は、一定の年齢(8−12才)に達すると、ばらもん教のグル(師匠)に就く儀式を経て、その集団の正規の一員である再生族としての自覚と確認がなされる。その後、グルの家に住み込んで、ヴェーダ聖典を暗記研鑽し、祭りの仕方を学び、精進潔斎し、禁欲的な修行を行う。この期間は12−8年間とされる。
家住者 上の学習期間を果たした青年は、生家に帰り、直ちに結婚して、家庭を作らなければならない。生業に就いて、それから得た利益で家族を養い、またこれを神に捧げ、他に施し、また他の住期にある人たちの生活を援助するために用いる。祖霊のための祭りを行い、跡継ぎの子供を設け、育てる。
林棲者 家長として社会への義務を果たし、後継者が順調に育って、後顧の憂いなしとなったとき、子に後事を託して森に隠棲することが許される。妻を伴って森に入ることもあるが、雨露をしのぐだけの庵に住んで、ぼろや樹皮を身にまとい、草根果実を食として、もっぱら禁欲・苦行の生活を送り、肉体的・精神的修行に専心する。
遊行・遁世者 人生の最終期においては、煩悩を離れ、世俗からはまったく縁を絶ち、庵を構えることもせず、居所を定めもつこともなく、遍歴・托鉢の生活を送る。禅定・瞑想の時をもち、ただ沈黙を守り、ひたすら解脱に達すべく精進・遊行に時を過ごす。生への執着を持たないことはもちろん、ことさらに死を望むこともなく、ただただ風に舞う木の葉のごとく、あるいは空をゆく流れ雲のごとく身を任せる。

これは、現在も多くのインド人が、理想の生き方として掲げていることに意義がある。


マハーバーラタ

世界最大の叙事詩である。数百年簡に徐々に詩人たちによって語り継がれ、四世紀頃、現在の形に編纂されたと考えられている。

あらすじ
現在のディリー地方を中心としたクル王国は、バラタ王が統治していた。後継者に盲目の長兄ドリタラーシュトラと弟のパーンドゥの異母兄弟があった。兄の家系をカウラヴァ家と呼び、ドゥルヨーダナをはじめとする百王子が生まれた。弟の家系をパーンダヴァ家と呼び、ユディシュティラ・アルジュナ・ビーマ・ナクラ・サハデーヴァの五王子が生まれた。弟パーンドゥが夭折したため、兄が弟の子供たち五王子を引き取って自分の子と一緒に育てる。悲劇は、ドリタラーシュトラ王が、その五王子の年長ユディシュティラの武勇を愛して、王位継承者と定めたことから始まる。実子たちが怒り、五王子を害しようとする。五王子たちは難を逃れて南方に一時身を隠す放浪の旅に出る。パンチャーラ国では王女ドラウパディーのスヴァヤンヴァラ(婿選び)の競技が開催されている。五王子の一人アルジュナは弓の名手であり、諸王侯に混じってこれに参加して、強弓を引いて首尾よく的を射抜き、王女を獲得し、五王子共通の妻として迎える。アルジュナは旅の途中で後の軍師となるクリシュナと知り合う機会を得る。
ドゥルヨーダナの新宮殿に招待されたパーンダヴァ家のユディシュティラは、好きな賭博に引き込まれて、全財産・王国・兄弟・妻まで賭けて負けてしまい、以後十三年間五王子は国を追われ、名を隠して苦行者として流浪の旅を余儀なくされる。五王子の無聊を慰めるために、森の仙人たちが種々の物語を語り聴かせる。
五王子がマツヤ国王の教師・召使・馬番・牛飼・料理人として奉仕しているところに、カウラヴァ家の百王子が王国に侵入してきて暴虐を働く。十三年間の亡命期間が終わって、五王子は素性を明かし、喜んだマツヤ国王はアルジュナに王女を与えて、同盟を結び、ここにカウラヴァ家との戦闘の日が近づく。
二河に挟まれたクルの野に全国各地から雲霞のごとく同盟軍が駆けつけて、布陣する。いよいよ決戦の火ぶたが切られる。アルジュナは敵陣に叔父。従兄弟がそろい、またかつて同じ宮廷で過ごした友達や、教えを受けた師匠の姿をみとめて、骨肉あい喰む同族の戦いを躊躇し、戦意を失う。御者として戦車に乗る軍師クリシュナは、このとき秘説をアルジュナに説き明かし、このクリシュナの教えを聴いて、アルジュナのためらいは一掃され、勇躍して戦場に赴く。(「バガヴァッド・ギーター」
ものすごい死闘が開始された。戦車・騎馬隊・象軍が激突し、武士たちが弓矢・槍・剣・こん棒をもって奮闘した。両陣から名高い英雄が名乗りを上げて一騎打ちを行った。戦いは一進一退であった。すさまじい戦闘が続いた。軍師クリシュナの指揮のもとにパーンダヴァ軍が優勢を占めて、ついに第18日目になってカウラヴァ軍は敗北し壊滅した。カウラヴァ軍の総帥ドゥルヨーダナ王も瀕死の重傷を負った。全滅のカウラヴァ軍の陣からはただ三人の武士だけがかろうじて生きて近くの森に逃げのびることができた。そのうちの一人は、夜中に大きなみみずくが一羽飛んできて、森の木々の枝に止まって眠っている鳥の群を一羽また一羽とそっと食べつくしてゆくのを見た。この武士の頭に一つの妙案がひらめいた。仲間の落武者を目覚め起こさせると、パーンドゥ軍陣地にひそかに侵入して、勝利に酔って熟睡している敵陣の軍師たちを一人一人こっそりと殺してまわった。そして、ついに五王子とクリシュナと御者を除く、パーンドゥ軍を皆殺しにしてしまった。
激しかった戦いが幕を降ろして、戦死者の葬儀が執行された。愛児を亡くした老齢盲目のドリタラーシュトラ王と、パーンドゥ五王子のあいだに和議が成立した。この大戦で多くの親族朋友兵士たちを殺したことを後悔したパーンドゥ王は、その罪を浄めようとして、ヴィヤーサ仙の勧めで盛大なアシュヴァメーダ(馬祀祭)を開催する。その後、パーンドゥ家の一族は諸国を従えて、国内も安泰に治まり、世は泰平を謳歌した。
クリシュナは、息子たちが死に絶えた悲しみのカウラヴァ王妃ガーンダーリーの呪いを受けた。クリシュナ一族の勇士たちは、酒に浸り、たがいに憎しみ、殺し合って滅んだ。クリシュナ自身も森と鹿と誤認されて、彼の唯一の弱点である足の裏を猟師に矢で射られて死んだ。
パーンドゥ家の五王子たちも森に隠棲していたが、やがてヴィヤーサ仙の勧めに従って神々の住むヒマーラヤ山塊の奥の霊山メールへの巡礼に出た。その途上において相次いで没し、天界に赴いた。

「マハーバーラタ」は戦いの叙情詩であり、そのかぎりでは死を恐れない武士の姿、信義を重んじて約束を違えずに、弱者を憐れむ武士の道徳が強調されている。しかし、全編を覆うのは、死のムードであり、人間存在の空しさを切々と訴える寂静感である。自らに課せられた過酷な運命に耐えながら、強い意志をもって自らの義務(スヴァダルマ)を遂行し、定めに専心する登場人物の一人一人の影には、表現を超えた寂莫とした思いが漂う。

バガヴァッド・ギーターはマハーバーラタ第六巻の一部を構成する小篇である。ここでは、解脱に至る道として次の三種が説かれている。

解脱に至る道
ジュニャーナ・マールガ知識の道 正しい知識を学び、正しい認識を行う。
カルマ・マールガ行為の道 祖先に対する祭祀を実行し、正しい日常生活を送り、正しいヨーガの実践・修習によって、身心を清らかに保つ。
バクティ・マールガ信愛の道 最高神への絶対的な帰投・帰依を行い、神の恩寵に俗する。


ラーマーヤナ

マハーバーラタとほぼ同時代に成立した叙事詩である。その後、増広・修正を経て、四世紀頃、現在の形に落ち着いたと考えられている。

あらすじ
コーサラ国のダシャラタ王は権勢並びない大王であったが、後継者がいないことがたった一つの悩みであった。男子を得るために天に祈願のアシュヴァメーダ(馬祀祭)を盛大に催す。天界でこの供養を受けた最高神ヴィシュヌは、地上にダシャラタ王の王子として生まれ変わり、当時神々をも苦しめていた十頭の大悪魔ラーヴァナを退治しようと決意する。祭りが終わると王の三人の妻に四人の王子が誕生する。第一王妃にはヴィシュヌ神の勢力の半分を受けたラーマ王子が、第二王妃には神の勢力の四分の一を継いだバラタ王子が、そして第三王妃には神の勢力の各八分の一を継承したラクシュマナとシャトルグナの双生児が誕生し、そろって仲良く成長する。
ヴィデーハ国のジャナカ王にはシーター姫という美しい王女があった。王は自分の秘蔵の強い弓を曲げることのできる勇士に王女を嫁がせたいとスヴァヤンヴァラ(婿選び)競技の開催を布告する。参加したラーマ王子は剛力を示して、シーター姫を我がものとして、幸せな数年を過ごす。
老いの迫ったのを感じたダシャラタ王は、ラーマ王子を後継の王位につけようとする。これを知った第二王妃は自分の子のバラタ王子を王にと画策し、かつてダシャラタ王が病気のとき王妃が看病にあたった際の約束を楯にして、ラーマ王子の十四年間の追放とバラタ立太子の履行を王に迫る。ラーマ王子は、国王が言葉を違えることのないようにと、みずから退いて森に身を隠す。父王は悲しみに悶死する。
森でラーマ王子は魔女の誘惑を受けるが、これを退け、魔女の軍勢と戦って撃破する。魔女は、ランカー島に飛び帰り、兄の大魔王ラーヴァナに復讐を依頼し、かさねてシーター姫の美貌を伝えて兄の欲情をそそる。
魔王ラーヴァナの策略で放った金色の子鹿に気をとられて、森に深くラーマ王子が迷いこんでいるすきに、ラーヴァナはシーター姫を誘拐して、ランカー島に連行し、羅刹女の監視をつけて洞窟に幽閉する。森から戻ってシーター姫のすがたが消えていて、ラーヴァナの策略に気づいたラーマ王子は、驚きと悲しみにこころ動転して、シーター姫を求めて旅に出る。
探索の旅の途上で猿王スグリーヴァに加勢して王位に復する助力をした結果、猿軍との同盟が結ばれ、猿王の家臣で、風神の子である神猿ハヌマンが味方となる。ハヌマンは空中を飛んでランカー島に渡り、魔王ラーヴァナの城内の様子をさぐる。偵察の報告を受けて、ラーマ王子と猿軍のランカー島総進撃が開始される。猿たちは岩や貴を運んできてランカー島への橋をかける。
戦闘の火ぶたが切られ、両軍の勇士たちの合戦が続く。最後にはラーマ王子と大魔王ラーヴァナの猛烈な死闘が始まる。十の頭を持つ魔王ラーヴァナは一つの首を切り落としても、他の頭と戦う間にすぐに新しく生えてきてしまい、なかなか殺すことができない。神々が加勢に駆けつける。インドラ神が戦車を動かし、ブラフマー神が造った武器でようやくラーマ王子はラーヴァナの心臓を突き刺すことに成功する。このようにしてついにラーマ王子と猿軍に凱歌があがり、幽閉されていたシーター姫の奪還をめでたく果たす。
ラーマ王子は、シーター姫と自軍、それにハヌマンと猿軍を伴って、故郷に凱旋する。民衆の歓呼の声の中で即位式を挙行し、以後に善政を布き、黄金時代を現出する。ラーマ王はその後シーター王妃との別離の運命を味わうことになる後日談も付されており、ラーマにとっての運命は終始苛酷なものであった。

ラーマ王子には、子として、王族として、勇士として、夫として、帝王として、人間として考えられるかぎりの完全無欠な理想像が投影されている。シーター姫には、インド婦人としての理想のすがたが表現されている。

アヴァターラ

アヴァターラとは、悪魔などに苦しめられている生類を救済するために、神が仮に人間や動物の姿をとって地上に降臨すること、あるいはその仮の姿(化身、権化)のことである。ヴィシュヌ神には、次の十種がある。

ヴィシュヌ神のアヴァターラ
ヴァラーハ(野猪)
ナラシンハ(人獅子)頭がライオンで身体が人間
クールマ(亀)
ヴァーマナ(朱儒(しゅじゅ))親指ほどの小人
マツヤ(魚)
ラーマ
パラシュ・ラーマ(斧をもったラーマ)
クリシュナ
ブッダ(仏陀)
10カルキ末世に生まれる


正統ばらもん教

インドの学問およそすべてに共通する特徴は、それが輪廻からの解脱という究極目的を持っており、宗教的色彩を色濃く持っていることである。固有の思想体系を伝承する哲学学派も、宗教の宗派とほとんど区別できない外見を持ち、活動を行っている。ヴェーダ聖典の権威を受け入れ、またブラフーマナ(ばらもん司祭)階級の社会的階層の優位を容認する諸学派が、「正統ばらもん教」として認められた。正統ばらもん教の哲学学派には六系統があって、日本では「六派哲学」の呼称で知られている。


1.サーンキヤ学派の二元論

根本聖典は「サーンキヤ・カーリカー」である。唯一者に代わって、精神原理としてのプルシャ(純粋精神)と、プラクリティ(根本原質)の二つの究極的実体原理を世界の根源に想定している。プルシャは、プラクリティを観照することによって物質と結合し、物質に限定づけられることによって、本来の純粋清浄性を発揮できずに、苦を経験し、輪廻に囚われた存在となる。輪廻から解脱するためには、プルシャを汚れから清めて本来の純粋清浄性を現出させるようにしなくてはならない。そのためには、人は「二十五の原理」の知識を明確に正しく獲得し、ヨーガの修行を行わなければならない。


2.ヴァイシェーシカ学派の原子論

根本聖典は「ヴァイシェーシカ・スートラ」である。世界が複数の構成要素(原子)の集合から形成されているという多元論的世界観である。実体(地、水、火、風、虚空、時間、方角、アートマン(我)、マナス(意))・属性・運動・普遍・特殊・内属の六種によって、現象界の諸事物がどのようにして形成されているかを、分析解明しようとする。


3.ニヤーヤ学派の論理学

根本聖典は「ニヤーヤ・スートラ」である。論証方法の検討において、その主眼点は、正しい認識とはいかにあるべきかという、認識方法の手続きの確立にあった。
次の四種の認識方法を主張する。

認識方法
直接知覚
推論
類比
信頼できる人の教示、証言


4.ミーマーンサー学派の祭事哲学

根本聖典は「ミーマーンサー・スートラ」である。ヴェーダ聖典に規定されている祭式・儀礼を実行する目的意義の考察およびその実行方法についての詳細な考究を行い、統一的解釈を確立するという、祭事に関する解釈学的をしている。


5.ヨーガ学派

根本経典は「ヨーガ・スートラ」であり、二〜四世紀頃パタンジャリによって書かれたものである。日常生活的な心の働きや、感官の作用を制御して、動揺を静め、散乱を防ぎ、一点への注意力の集中を行うことを徹して、心の統一を図り、さらには全人格的思惟統一を達成することを目的とする。

古典ヨーガは、実践方法として次の八階梯を説く。

古典ヨーガの八階梯
1  ヤマ 制戒 不殺生、真実語、不盗、不淫、無所有の五戒を遵守する。
2  ニヤマ 内制 身体を清潔に保ち、こころから不浄な考えを除去して、飲食・衣服などへの欲望の力を弱め、かつ慈悲を念じる必要がある。
3  アーサナ 坐法 安定して快適な坐り方をしなければならない。
4  プラーナーヤーマ 調息 呼吸の調整を行う。
5  プラティアーハーラ 制感 外界の事物の支配から感覚を引き離し、対象と感覚を絶縁させる。こころがそのものの本質において、直接にそのものを掴み出す。
6  ダーラナー 凝念
(ぎょうねん)
こころを一点に集中させる。
7  ディヤーナ 静慮
(じょうりょ)
一点への思いの固定を、時間的に引き延ばす。
8  サマーディ 三昧
(さんまい)
三昧の境地とは、生きながらにして、解放された状態にあることをいう。


6.ヴェーダンタ学派の一元論

根本聖典は「ブラフマ・スートラ」である。世界の唯一絶対の究極原因としてのブラフマン(梵)の探求を学問研究の第一の目的とした、一元論の哲学を展開している。

アートマンの四状態
覚醒時 五感覚器官と意が機能している。
夢眠時 感覚器官は機能を停止して、意のみが機能している。
熟睡時 意も機能を停止している。
第四時 限定をまったく受けないアートマンは部分をもたず、属性をもたず、純粋清浄である。
この状態のアートマンこそ本来のアートマンであり、ブラフマンに他ならない。

シャンカラの不二一元論

人生の目的は解脱にある。解脱とは、我々の個我が絶対者ブラフマンと合一することによって達成される。我々の経験する現実の世界において個別的な多数の個我が現出しているのは、無明の力の働きによる。無明が働いて、我々を迷わせて自分という中心主体が存在すると妄想させている。個我が実は最高の実在者ブラフマンと同一であり、現象界が実在しない幻に他ならないことを覚知する明知によって、無明は滅ぼされる。このとき個我の形に縛られていた我々は解脱し解放されて、一切の苦悩から解放される。


参考文献
 川崎信定 著、「インドの思想」、放送大学教材 '93

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