インド(カルカッタ)


はじめに

私が海外旅行に出かけるようになってから、すなわち四年程前からずっと行きたかったインドを旅行してきました。期間は、1994年12月24日(土)[東京−カルカッタ(AI309)]から、30日(金)[カルカッタ−東京(AI306)]という短い間でしたが、色々な体験ができました。


<12月1日(木)〜12月23日(金)> − 準備 −

「今年の年末もどこか海外にでも行きたいなぁ」と思ったのが始まりである。いつものことだが、計画するのが遅い。

師走に入ってから、海外への格安航空券を手配してもらうために、いつも利用している旅行会社に電話をかけた。値段が安い会社なら他にもあるが、いつも丁寧に予約の状況を調べてくれたり、直前でも予約を取ってくれたりするので、私は好んで利用している。私はサラリーマンであり、仕事が忙しくなければ休暇は取れるのだが、仕事の予定が立てにくいので、いつもぎりぎりの申し込みになってしまう。今回もどうにか12月26日〜29日の4日間休みが取れた。これに土日と冬休みと合わせて海外旅行に行くことにした。

直前まで飛行機の予約のキャンセル待ちをしていたため、旅行会社に頼んでおいた航空券とインドのビザが私の手元に届いたのは、なんと12月23日、出発の前日であった。12月23日は祝日であり私もこれには焦った。

私がインド旅行に出かけることを友人たちに告げると、「生水は絶対に飲むな」と忠告された。生水をなめただけで2週間下痢が続きその間一歩も外出できず、げっそりとやせ細った人(友人の友人、私の友人でもある)がいたなどと随分と脅かされた。旅行中、生水は絶対に飲むまいと誓う。

参考までに、日程は次の通り。ちなみに私は、兵庫県に住んでいる。

12月24日(土) 大阪(伊丹)JL152 8:30         東京(成田) 9:35         東京(成田)AI309 12:30         カルカッタ 19:30 12月30日(金) カルカッタ AI306 19:50         東京(成田) 翌8:00 12月31日(土) 東京(羽田)JL105 16:30         大阪(伊丹) 17:30


<12月24日(土)> − 出発 −

成田空港にて、エアーインディアの飛行機搭乗時に全員のボディチェック、手荷物検査があった。私のリュックサックも開けられ、念入りに検査された。機内に入るとは、サリー姿のスチュワーデスに迎えられ、異国の雰囲気が漂っていた。
機内食はベジタリアン(菜食主義者)とノンベジタリアン(菜食主義者でない)用の2種類が用意されており、選択できるようになっている。ノンベジの料理には、チキンが使われていた。この飛行機はバンコク経由であり、バンコクでは1時間程留まり、カルカッタに向けて出発した。
またまた、食事の時間のようだ。成田−バンコクまでに昼食と軽食、バンコク−カルカッタで夕食と、こちらはただ座席に腰かけているだけなのに、3回目の食事とは..それでも、すべて残さずに食べた。お酒に関しては有料となっている。

今回、私の旅のキーワードは、マザーテレサ、ヨーガ、クリスマス、聖人であった。飛行中は時間がたっぷりとあったので、ちょっと遅いが、今夜の宿と、今日カルカッタに到着してからの予定と、旅行の大まかな計画を練りながら、期待と不安を胸に抱きカルカッタへの到着を待っていた。

− 到着 −

やっとカルカッタに到着。入国手続きはすんなりと済んだ。海外旅行し始めの慣れないうちは、入国審査で英語で質問されると焦ってしまうことがあったので、ホッとした。それにしても、工事中ということもあってか、この空港はみすぼらしい。

早速、両替のために行列の最後尾に並んでいた。あるインド人が、外国人は別の専用窓口があると言うので半信半疑で行ってみた。確かに彼の言う通りだった。知らない土地においては、私はなかなか人を信じられない。まあ、その方が人を信じすぎるよりもましだと思っているのだが。結局、この銀行では、US$60をRs1800程に両替した。

次に、帰りの飛行機のリコンファーム(予約の再確認)をするために、エアーインディアのカウンターに向かった。どの航空会社のカウンターにも誰も居らず、ひっそりと静まり返っていた。もう営業時間は終了したのだろうか。ダメでもしょうがないと思い尋ねてみた。ダメだと思っても思い切って聞くのがよい。案外うまく行くことがあるものだ。一人の人が、部屋の中に入れと言う。男はリコンファームを快く引き受けてくれた。日本では古い部類に入るようなコンピュータ端末に向かい、なにやら操作している。しかし、男は不慣れならしく、しきりに女に尋ねている。女は見かねてやって来て手伝う。リコンファームは終了したと言われた。本当か、と聞き返した。やはり不安だったからだ。すると、女は、私の飛行ルートについて尋ねて確認を求めてきたのでそれで安心した。後に人から聞いた話だが、リコンファームを終えたときはそれを証明するハンコを押してもらえば、ダブルブッキングなどの場合などにも有利だと言うことである。

彼らは親切そうに思えたので、ついでに、市内行きのバス乗り場を尋ねた。男は空港の外まで案内してくれて、ここは国際線発着用ビルで、バスは隣の国内線発着用ビルの前あたりから出ていると教えてくれた。そこまで歩いて行く途中、タクシーの客引きにしつこく付きまとわれた。そこには、バスを待っているような人も見あたらない。時間も夜9時過ぎだし、最終バスは出てしまったのかと思った。それで、そのタクシーの客引きが声をかけたオーストラリアから来た夫婦と一緒に乗り合わせて、カルカッタの宿が集まっているサダルストリートに行くことにした。タクシー料金は1人50Rsずつで3人、少し高いとは思ったがそれに従った。

− 宿泊 −

30〜40分して、そのタクシーは無事にサダルストリートに着いたので一安心した。いつもそうだが、夜に到着すると、最初に移動するのが非常に不安である。特に空港などの客引きの多い所では特に安心できない。知らない土地では方向も、距離も分からないのでどこかに連れて行かれないとも限らないからである。一緒にタクシーに乗り合わせたオーストラリア人夫婦はアストリアホテル(Astoria Hotel)に入って行った。私は、他に探してみようと思って歩き始めた。夜だというのに、道端で毛布にくるまって寝ている人がいた。この人たちは、ここで夜を明かすのだろうか、かわいそうだ。

しばらく歩いているといろんな人、例えば、リキシャー(人力車)やタクシーの運転手、宿の客引き、店の店員、路上での物売りなどが声をかけてきた。それで、ある客引きと交渉して、安い宿(100ルピー以下)を探してもらうことにした。クリスマスの時期は宿が混んでいるらしく何軒か回ったが満室だった。彼は、日本人の友達がたくさんいると言って、日本人に書いてもらったらしい簡単な日本語の文を見せにきた。こんな奴は怪しいから気を付けようと思って警戒していた。結局よい宿は見つからず、彼は素直に退散した。やけにあっさりと引き下がったので気持ち悪い位だった。私の方は、チップでも要求されるのかと思って心構えをしていたが拍子抜けした。彼には、この旅行中に今回を含めて3度会うことになる。

また一人になり歩いていると、別の客引きがやって来て、今度はすぐに宿が見つかった。そこは後から分かったのだが日本人には有名なホテル パラゴン(Hotel Paragon)というドミトリーであった。そのときは、そういうことも知らずに安くてよさそうな所だなあと思いそこに決めた。

ドミトリーの部屋に案内されるとそこは6人部屋であり、一人が日本人であった。その晩、その日本人と情報交換してから寝た。夜も更けてくるとだんだんと冷えてきた。他の人は皆シュラフ(寝袋)に入っているか、薄いシーツをかけて寝ていた。私は、インドには暑いというイメージがあったので、そのような用意は全くしておらず一晩寒い思いをした。日本を出発する前にはできるだけ荷物にならないようにと無理して薄着にしてきたというのに、まさかインドで、しかもカルカッタで寒い思いをするなどというのは想像もしていなかった。これは誤算であった。この日は私にとって非常に長い一日であった。朝5時45分に日本の家を出てから今は午後11時30分、しかも時差が日本とカルカッタでは3時間30分もあるのだ。


<12月25日(日)> − 散歩 −

カルカッタの夜は冷えて、夜中に何回か目を覚ました。もっと防寒具を用意してくればよかったと後悔した。朝、目が覚めると寒くはない程度の気温に感じられた。夜中の寒さを除けばこの宿は静かだし快適である。トイレは紙などは使わず、左手を使って水で洗う方式だが、以前、東南アジアの方へ旅行したときと同じなのでそれほど抵抗なくできた。身支度を済ませて、この宿をチェックアウトし、リュックサックを担いだままで町に出かけて行った。私はほとんど荷物を持たない方なので比較的身軽であり、たいがいはリュックサックを背負い、すべての荷物とともに行動を共にする。

通りを歩いていると、何人かが入れ替わり声をかけてくる。彼らには日本人の友達がいるとか、日本のことを知っているとかなどいろいろと話しかけてくる。そして結局最後には、自分の店に来て買い物を勧めるのだ。だから私はすぐに散歩しているだけと言って逃げる。旅行慣れしたツーリストたちならばもっとうまく彼らに接している人も見かける。物事をスムーズに運び、お互いの利益のある所で話をまとめるようだ。最初っからすぐに拒否してしまうことの多い私も見習うべき所がたくさんあると感じている。

数時間あちこち歩き回って疲れた。それにお腹も減った。持参してきたクッキーも食べたのだが、もうお昼の時間が来ている。食堂を探すが、ない所にはないものである。屋台ならばあるのだが、ちょっと店を構えているという所は見あたらない。まだあまり町を知らないし、今日は日曜日だからよけいに見つからないのかも知れない。いままで旅行した他の国では、屋台で食事を取ることにあまり抵抗は感じなかったが、インドは衛生的に少し気が重くなった。それで、屋台よりも清潔と感じられるようなレストランを探した。そこは、南インド料理と北インド料理の両方が食べられるレストランだった。私は内容も全く分からないが、マサラ ドサ(Masala Dosa)というものを注文した。これは南インド料理でカレーと、薄いクレープのようなものの組み合わせだった。そのクレープのようなものを手でちぎって、カレーを付けて食べた。この料理は量も少なくあまりお腹いっぱいにはならなかった。

午後、キリスト教会 セント・ポール寺院(St. Paul's Cathedral)へ行った。中ではクリスマスの賛美歌を合唱していた。その人々の中に、赤、黄、緑、青などの鮮やかな色のサりーを着た女性もいたのが、私の目には風変わりな光景に映った。それと、教会のステンドグラスが綺麗だった。

それから、すぐ近くにあるカルカッタ公園(Calcutta Maidan)へ行った。そこでは、イギリス発祥のスポーツであるクリケット遊びをしている子どもが多かった。かつて、インドがイギリスの植民地であったことを思い出した。

公園近くで、同じ飛行機でカルカッタに着いた日本人に出会いあいさつをかわした。彼は、絵を描きながら40日間インドを旅すると言っていた。絵を見せてもらったが淡い色でヴィクトリア記念堂(Victoria Memorial)を描いていた。インドに来ている旅行者の多くが長期旅行者だ。私にはうらやましい限りである。

先程、伺っていた劇の開場時間に近づいたので、美術アカデミー(Academy of Fine Arts)へ行った。チケットを買って中に入った。すべて指定席となっており、案内人に誘導され着席した。最初は少ないと思っていた観客が、開演になると1、2階席ともほぼ満員となっていた。劇が始まる前には、アナウンスがあり、皆が一斉に立ち上がり、黙とうを捧げた。私は驚いたが、「郷にいれば郷に従え」と言う諺通り皆と同じように振る舞った。劇は、英語でなかったのでさっぱり分からず、皆が大声で笑っているときでも私にはよく理解できなかった。喜劇のようなものだろうか、多くの笑いがあった。

劇が終了しその帰り、夕方になっていたので、交通渋滞がますますひどくなってきていた。カルカッタには信号がほとんどなく、あっても電気がついていることはめったになく、あまりにも交通量の多い所では人が交通整理をやっている。私は交通量の多い道路を横断するのにものすごく神経を使うので本当に疲れる。道路の横断待ちをしている所に一人の男性がさりげなく声をかけてきた。

− 詐欺師? −

 男 「ひどい渋滞ですね。向こう側の道路を横断した方がよさそうですね。」
 こう言って、男はさりげなく声をかけてきた。
 私 「いつもこんなに渋滞しているのですか?」
 男 「今日はクリスマスだから特別だよ。」
と、こういう感じである。普通の客引きのパターンならば、「おまえはどこから来た?」「日本人か?」「これからどこへ行く?」といった質問から始まる。しかし、彼の場合は違った。また彼の英語の発音や言葉遣いもきれいだったし、身なりも整っていた。私は彼を信用して、彼と一緒に歩き始めた。

しばらく歩いて行って、彼は、今、開催されているロシアサーカスは是非一見する価値があると言うので、私はその場所を教えてもらうために彼について行った。彼はクリスチャンであり、マザーテレサのもとで両親のいない子どもたちの学校の先生をしていると言う。今も教会からの帰りだと言う。歩いている途中に教会があったので、私たちはその中に入って行ったが閉まっていた。
彼はきれいな英語で話す。明日は彼の娘の誕生日であり、娘の友達を始め約40人が集まってインド料理を囲み、さらにインド舞踊がくりひろげられる。その誕生日会に私を招待してくれると言う。それで、私たちは明晩の待ち合わせ場所を決めた。しかし、私は、こんなおいしい話はあるはずがない、果たして本当だろうかと気にかかっていた。しばらくして、私たちはレストランに入り、飲み物と食事を注文した。そのときでも彼はメニューについて丁寧に私に説明をしてくれた。

注文を終えると彼は手帳を取り出して、ここに私の日本の住所、氏名、それとこれがくせものだがマザーテレサの施設への寄付金を書いてくれるようにと言う。そうすることで、マザーテレサから私の日本の住所に手紙が届くらしい。その差し出された手帳を見ると何人かの外国人らしき名前が書かれていた。私は怪しいと感じたので、住所、氏名は書いたが、金額を書くのは断った。彼はお金を払う必要はないからとにかく金額を書いて欲しいと言う。しかし私はきっぱりと断った。
次に、間を置いてから、彼の娘の趣味はコイン収集なので日本のコインを見せて欲しいと言って来た。私はすぐに金の話を持ち出してくる人は大嫌いである。外国では日本人は金持ちと思われているので、何か下心があるに違いないと思われるからだ。私は、娘さんの誕生日プレゼントとして明日渡しますからと言って、今見せるのを断った。だんだんと、彼が信じられなくなってきた。私があまりにも断るためか、2人の間の会話が途絶えてしまった。彼は、機嫌をそこねたのか、私が食事中にもかかわらず、先に帰った。私は、一人そのレストランで食事を終えた。でも、このレストランの食事は大変おいしかった。

考えれば考えるほど彼の行動が不審に思えてきたので、私は、明晩、あの男との待ち合わせ場所に行くのをやめることにした。しかし、万が一、本当だったら彼に失礼なことをしたことになるのだが。

− 客引き −

ようやくサダルストリートまで戻ってきて宿に入った。受付の近くに、たいそう親しげに話しかけてきたインド人がいた。よく見ると、彼は昨夜の客引きであった。日本人の私の目にはインド人は皆同じような顔に見えるので、誰だか区別が付きにくい。
彼は、彼の友達と2人で私の部屋を訪問してきて、彼もやはり他のおみやげ屋の客引き同様に、絹製品の購入を勧めてきた。彼の言う店は免税店であり、絹製品を買うと後から発送することで、自分で持ち帰る場合に比べると税金をかなり安くあげられると言う。誰がそんな話を信じるか、お金だけ払って品物を送ってくれるという保証などあるものかと私は言ったが、彼らも、引き下がらなかった。結局、物別れに終わった。


<12月26日(月)> − カーリー寺院 −

ヒンズー教の聖なる寺であるカーリー寺院に行った。パークストリートからカーリーハットまで地下鉄を使って移動した。地下鉄の運賃は、おそらくバスより少し高いのだろう。乗客は中流以上の人々が多く利用しているようだし、混雑していない。地下鉄のホームで若者と知り合いになったので、以前より疑問に思っていたことを尋ねた。インド人女性が付けている眉間の印は宗教あるいは文化的なものであり、また、既婚者は髪の毛を左右に分けている分け目に赤色などの筋を付けていると言う。こういう理由が分かればますます人々に興味を持てるようになる。

地下鉄を降りて、カーリー寺院の手前あたりにやって来ると、やたらと案内をしたがる奴がいる。自分はガイドではなく、寺の者だと言い張る。寺院の建物の中へはヒンズー教徒でないと入れないらしく(しかし次の日には入れたのだが)、彼が建物の周りを案内した。貧しい人々に食事を配っている様子や、羊のいけにえを捧げる所があった。そして、ガートへ連れて行かれて寄付を要求された。いくらでもよいと言われたが断って帰った。

別の案内人が私の後を付けてきて、近くに川があるから行こうと誘った。彼は、この川をカーリーハットと呼ぶのだと言っていた。彼の後をついて行くとすぐに川にたどり着いた。川は浅くてドブの臭いにおいがした。しかも驚いたことに、その汚い川で食器を洗っている人がいたのである。なんと気持ち悪いと思った。インドは相当に不衛生であるというのを改めて感じた。案内人の話によると、今、水深は浅いが一日に2回深くなりきれいになるそうだ。理由を聞いてみたが、彼には私の話は通じなかった。私が思うには、多分下流でせき止めているのだろう。

また、ここの近くにマザーテレサの「死を待つ人の家」があると言うので案内してもらった。中に入ってみた。簡易ベッドが数十ほどあり、弱々しい老人たちが横たわっていた。そこでボランティアの人々が5人程度きびきびと働いていた。しかし、私が想像していたよりずっと清潔であり、また悲壮感も感じられなかった。これだけの施設をつくり、それを維持しているマザーテレサを始め多くのボランティアの方々には脱帽の思いである。この光景を見て、私は日本に帰ったら是非ともマザーテレサに寄付をしたいという気持ちに駆られた。

その家を出ても、しつこく案内人は付いてきた。あまりにも寄付してくれと、しつこく私に付きまとってくるし、これだけいろんな所を案内してもらったお礼の意味を込めて、Rs10を寄付した。彼は最低でも Rs20は必要だとダメと言っていたが無視して帰った。ここに出てくる、カーリーハットの案内人はガイドブックに出てくる説明と全く同様であり、汚い手口で商売をしているようだ。

その晩はカーリーハットに宿をとることをに決めた。まず最初に宿をいろんな人に聞いて教えてもらい、そこが満室と言われると他の宿を紹介してもらって5軒以上の宿は歩いてまわった。やっと見つかったのは、Rs400の所だった。私がインド初日の晩に泊まった宿がRs40なのでちょうど10倍である。値段の高いホテルだっが、お湯が出て、テレビ付きの個室だった。また、このように中級ホテルのフロントになると、良い返事(Yes Sir)を返してくれる。本当に返事だけは立派だ。次の日の朝早く、私は再びカーリー寺院に向かった。


<12月27日(火)> − カーリー寺院(その2) −

カーリー寺院の手前あたりにやって来ると、やたらと案内をしたがる奴がいる。自分はガイドではなく、寺の者だと言い張る。ここまでは全く昨日と同じパターンだったが、ここから少し違った。昨日は入れないと言われたが、今日は、寺院の建物の中へは靴を脱げば入れると言われた。ただし、脱いだ靴は鞄の中に入れて持ち歩いてはいけないようだった。しかたなく、そこに靴を脱ぎ捨てた。建物の中は非常に混雑していてゆっくり見ている余裕などなかったが、黒い石のようなものに三つ目が描かれているカーリー神の姿を見ることができた。

ヒンズー教の神様で有名なのは生命の創造者のブラフマー神、維持・保護のヴィシュヌ神、破壊のシヴァ神である。そのシヴァ神の妻がカーリー神である。インドの神様はどれも恐ろしく異様に見えるが、カーリー神もやはり恐ろしい形相をしていた。その後、昨日と同じように寺の案内人が建物の周りを案内した。貧しい人々に食事を配るという場所や、羊のいけにえを捧げる所、また、子どもを授かりたい人が参る神様があり、そこでお賽銭を投げ入れるように要求された。また、私の眉間に柿色の印を付けられた。また花をもらいそこに投げ入れた。私はほんの少しの賽銭を捧げたのに、彼は納得しないようだったが、それ以上は断った。しばらくしてカーリー寺院を出た。

また昨日と同じように、川へ行ってみようとしたが、道を間違えたらしく、貧しそうな人々の家々の敷地内に迷いこんだようだった。そこで、5歳くらいの男の子とその妹が現れ、こちらが何も言わないのに川まで案内してくれた。その子どもたちは英語が話せず、私も子どもたちの話す言葉が分からないので非常に歯がゆい思いをした。川の水深は昨日より深かったが、汚さはさほど変わってはいなかった。ヒンズー教のおまじないだろうか、川の水に右手を浸けてその水を自分の頭の上から振りかけるようにと言っているらしいことが、子どもたちのジェスチャーで分かったので、ちょっと汚そうな水だったがやってみた。私が汚いと思っても、すぐ隣では何人かが沐浴している。

その川の周辺を歩いていると、ヒンズー教の神様らしきものが所々に祭られていた。これらは赤い絵の具のようなものでベタベタに塗られていた。ある神様の所で右手の人差し指でそれに触れると、べっとりと赤い絵の具のようなものが指についた。子どもたちの勧めで、私はその指で眉間に印を付けた。なんか、ヒンズー教徒になったような感じがした。

私が帰ろうとすると彼らは私の後をついてきてしきりに何か言っている、が私には通じない。先程からずっと同じことを言っているのだが、私にはその単語の意味が分からない。私たちがおみやげ物屋の前へ来たとき、彼らの言っていたものが分かった。なんと、おもちゃだったのである。バクシーシも要求するがおもちゃが一番欲しいなんて、やはり子どもなんだなと、少しホッとした。あんまり観光客相手に、銭銭と追っかけ回す子どもは、子どもらしくないので私は嫌いである。持っていたボールペンと少しのお金を子どもたちにあげた後、別れた。

− インド人の結婚 −

ある公園で少年たちが空手の練習をしていた。ときどき町中で空手のポスターを見かけてはいたが、実際にインドで空手を見るのは初めてだった。私自身、昨年から週一回の空手教室に通っており興味があったので、近づいて練習の様子を見ていた。しばらくして彼らの練習が終わると、先生が話しかけてきた。日本人ならば誰でも空手をやっていると思っているのか、日本人か、どこの空手の流派かなどと質問をされた。

それから、今回の旅行で体験したかったヨガスクールに向かった。途中で道を尋ねた人が大変親切に付き添って案内してくれた。着いたのは WORLDYOGA SOCIETY というインドで有名なヨガスクールらしい。我々はそこの受付に入って話を聞いた。ヨガを体験したいと頼んだが、2、3日ではヨガは教えられないとの返事だった。最低でも数カ月はかかると言うことだった。しかし、私を案内してくれたそのインド人はまだ色々と質問をしていた。インドなまりの英語は早口で話されると聞き取れない。とにかく、今日の昼からヨガのデモがあるのでそれなら見られると言うことだった。私を案内してくれたインド人も、ちょうど健康のためにヨガを習いにいこうと考えていたらしい。

2人でヨガのデモの時間まで食事をして待つことになり、食事に行った。彼はベジタリアンであり、私はどうかと尋ねてきたので、私はノンベジだが食事はベジタリアン食でもよいと答えた。インド人は殺生が嫌いなので、宗教とかに関係なくベジタリアンが多いと言う。彼の行きつけの食堂に行ったがそこは閉まっていたので、屋台で食事をすることにした。彼は、私にノンベジ食の屋台で食べるように勧めたが、私は彼と一緒に行った。もしかすると、ベジタリアンはノンベジと一緒に食事をするのを好まないのかも知れない。食事は、葉っぱの上に焼いた丸いパンと、カレーが載せられた。それを右手で食べた。彼はその後、さらに焼きめしを注文していた。それに、屋台に置いてあった生水のポットからコップを使わずに直接に口を付けて飲んでいたが、私にはそんなことができないので、自分の水筒の水を飲んだ。

その後、公園に散歩に出かけた。ここは日本山妙法寺近くにある大きくて静かな池付きの公園である。そこのベンチに腰かけて話をした。彼の家は裕福であり、両親は大邸宅に住んでいる。家族は姉3人、弟1人いる。そして彼は仕事のために、最近ここに引っ越してきたばかりであり、今、寮で一人暮らしをしている。姉たちは銀行やデパートの経営者と結婚しており、彼自身は政府関係の仕事をしている上流階級に入る家である。彼は独身であり、来年結婚すると言っていた。インドではカーストが現在もあり、違うカーストの人とは結婚できないと言う。もし結婚したら社会からつまはじきされると言う。また、結婚相手は親が決めるものであり、本人同士は結婚式当日まで会うことはないだろうと言っていた。

カーストは昔に決められたものであるが、現在も引き続いており、就職などではカーストの上の方から決まるらしい。現在は、カーストによりその人の職業が決まるということはないので、違うカーストの職業に就いている人もいるが、たとえそうだとしても家のカーストで身分が決まると言う。彼自身はカースト制度についてはあまり快く思っていないがどうしようもないということだった。ただ、結婚について語るときはあまり楽しそうではなかったのが私の心に残った。

彼の話は私が本で読んだ知識とよく一致していた(「生活の世界歴史5 インドの歴史」 辛島昇・奈良康明著 河出書房新社)。しかし、現実にこういう世界があるという話を実際にその世界にいるインド人から聞いて、驚きを増した。それから、その公園の近くにある彼の寮まで行って、しばらく横になって仮眠した。その後ヨガを見るために2人でヨガスクールに出かけた。

− ヨガ −

会場には100人程度の観客がいただろうか。舞台には次のような垂れ幕がぶら下がっていた。

 YOGA JUN AWARD ALL INDIA UNI YOGA COMPETITION  CHAMPION OF CHAMPIONS TROPHY Organized by WORLD YOGA SOCIETY 
一度に10人ほどが登場して、一人ずつ順番にヨガの演技を披露し、全員が演技を終了すると次のグループが出てくるというやり方だった。ヨガといったら私は人間離れした技を見せてくれるものだと期待していたのだが、誰一人として神秘的なヨガのポーズはなく、柔軟体操のようであった。また、多くの人が決められたポーズをするので退屈してきた。もっと、もっとヨガを極めた人ならば空中に浮いたり、地中に頭を埋めて何日も過ごすなどというような飛び抜けた技はないかも知れないが、それに近いようなものが期待できるのだろうかと思った。

 

− 食堂の経営者 −

ヨガの帰り、今日一日行動を共にしたインド人と別れてから、夕食をとるためにある食堂に入った。そこでは話好きのウエイターに出会った。彼は料理のことをこと細かく説明してくれた。この食堂では北インド料理と南インド料理のメニューがあり、私が食べたのは南インド料理である。このお好み焼きのような料理( Mixed Utthapam ) は、お米をすりつぶしたものを材料としていると言うことである。一般に南インド料理は、外見では判断できにくいが、ほとんどすべてがお米を材料に用いていると言うことだった。彼と話をしていくうち、彼がウエイターでなくそこのお店の経営者であることが分かった。どうりで英語が上手なはずである。彼はカルカッタ大学の英語科でマスターの資格を持っていると言うことだった。彼は、将来、外国で特に日本において自分が経営者となりビジネスをするのが夢だと語った。彼は日本で勉強したいし、日本で彼のビジネスを助ける人が欲しいと願っていた。彼は今、それを実現する手段を探しているということだった。私は次のようにアドバイスをしてあげた。

まず日本に進出している企業に就職して、そこで働きながら日本のビジネスを勉強し、同時に日本のビジネスマンとのつき合いを始める所からスタートしてみてはどうだろうかと。要約すると大体このような話の内容であった。その店はとっくに閉店になり、従業員たちの後かたづけも終わってしまったような時間になっていた。私は、宿に帰ることにした。彼は、「またこの店に来てください、好きなだけご馳走しますから」と言っていた。宿に着いてから、さっきの食事代を支払っていないのに気づき彼に感謝した。

今日は朝カーリー寺院に行ってから後ずっと眉間に赤い印を付けたまま過ごしていた。それをシャワーで洗い落として、この日は終わった。


<12月28日(水)> − インド博物館、インディアンダンス −

昨夜は非常に蚊に悩まされた。寝不足ぎみである。今日は、インドでもっとも古いと言われるインド博物館を見学した。私が一番期待していたのは、仏教やヒンズー教など宗教関係のものだったが、説明が少なくて展示品を見てもよく分からなかった。たまたま来ていたツアーのガイドさんの話を近くで聞いていた。

それから、たまには豪華なレストランで食事しようと、ホテルのレストランに入った。なかは西洋風で綺麗にしていたが、注文した料理(タンドリーチキン)は全然おいしくなかった。言うまでもないことだが、高いからおいしいということは全く当てはまらなかった。この日、私は非常に疲れており、早々と宿に入り休んだ。昨日までのスケジュールがだんだんとこたえてきたのだろう。

夕方になり、インドの踊りを見るため、カルカッタで一番豪華なホテル ( Oberoi Grand ) へ行った。ここでは毎晩ショーが開かれている。ホテルの玄関ですぐに案内に付き添われて会場まで行った。ショーはインドのいろんな地方の踊りをインドの楽器に合わせて披露してくれるものであったが、観客が10人ほどと少なく、いまひとつ盛り上がりにかけた。ショーが終わり、暗くなった誰もいないプールサイドに横になった。ここは静かだった。ホテルの外は、自動車、人であふれかえっているのだが、まるで別世界のようだった。その夜、宿に帰ると、私がインドに到着した初日の晩に知り合った日本人がまだ泊まっていた。


<12月29日(木)> − カルカッタ大学、ナコーダモスク −

ほんのわずかだが喉が痛い。朝から大事をとって、昼過ぎまでベッドに横になっていた。それから、半乾きのズボンをはいて日本人の学生と一緒に宿を出た。ズボンは今朝、洗濯して外に干しておいたのである。

めざすはカルカッタ大学である。近くまで来られたので、ここかなと思ったので中に入って行った。しかし何か様子が違う。そこを通り抜けると、病院であることが分かった。伝染病かなにかの病院でなければよいのだが、少し不安になった。今現在、私が発病していないので多分大丈夫だと思うが、安易に入ってしまったことを後悔した。それから、きちんと道を尋ねた。カルカッタ大学は、建物はお世辞にも綺麗とはいえないが、静かで勉強するには良い環境だ。構内に見知らぬ日本人が入っていても誰も気にとめない。普通の道路なら、客引きなどがしきりに声をかけてくるのだが、こういうことが全くない。校舎の中をの覗いてみた。さすがに、教室を覗くと学生たちが振り返る。日本の大学でもおそらくこのような反応だろう。逆に寂しいくらいだ。

この後、イスラム教の寺院であるナコーダモスク ( Nakhoda Mosque ) に行った。モスク周辺はやはりイスラムの雰囲気が漂っていた。モスク入り口で戸惑っていると、ある人が、靴を脱いで中に入りなさいと言ってくれたので、我々は中にはいることができた。人は以外と少なかった。池が2つほどあり、そこで、身を清めている人が数人いた。礼拝の時間になると多分人々で埋め尽くされるのだろう。

その晩、宿に泊まっていた日本人がネパールやプーリーに向けて出発するというので、見送りに行った後、別の日本人と旅の話をした。この宿は本当に日本人が多い。人が集まるだけあり、確かに過ごしやすい宿である。


<12月30日(金)> − ハウラー駅 −

インド旅行の最後の日である。見たいと思っていたハウラー駅とその周辺のスラムに行った。サダルストリートの宿から河まで歩いて行き、そこから船で河を渡ると駅はすぐ近くにあった。しばらくインドに滞在していたためか、あるいは昔より生活水準が向上したのだろうか、あまり驚きはなかった。「初めてインドに入るときカルカッタだとカルチャーショックが大きい」という話をよく耳にしていたが私の場合はあまりこたえなかった。ただ単に鈍感なだけなのかも知れない。しかし、インドの汚さは好きになれない。インドは衛生的によくない。

汚い話だが、男なら平気で道ばたで小便をたれている。それが変わったことに、しゃがんでいる。日本では、男性が小便をするのにしゃがむということはほとんどないと思うが、インドでは、道ばたで小便をしている人を見る限りにおいては、むしろしゃがんでいる人の方が多い。私には理由は分からない。駅周辺をうろうろしてから、ハウラー橋を歩いて渡った。

飛行機の出発まではまだまだ時間があったが、空港でゆっくりするため早めに空港に行った。しかし空港内には時間をつぶせるような所はなく、ゆっくり休んでいた。

この空港では、出国手続き、荷物検査のときには職員にわいろを要求された。私は当然断った。他の乗客にも同じようにわいろを要求しているのだろうか。飛行機については、これから乗る飛行機の到着が遅れたため、出発が3時間ほど遅れた。このように遅れることはよくあることらしい。旅の最後までインドらしさが体験できた。


<12月30日(金)> − 帰国 −

そして、成田に到着したのも、3時間ほど遅れていた。この後、私は大阪(伊丹)空港に行く予約を入れていたのだが、充分すぎるほどのゆとりがあったため間にあった。今日は12月31日大晦日である。乗り遅れると大変だっただろう。予定通り、大阪に到着し、そのまま、和歌山の実家へと帰省した。これでインドの旅は終わった。


− 感想 −

カルカッタは衛生的に汚い町だった。一番印象に残ったのは、スラムと言われる所に生活している人々であった。彼らは、道端で寝て、食べて、生活していた。道路の脇が、彼らの生活の場であった。私には、このような生活を送っている彼らが信じられなかった。人間のたくましさというものを知った。


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