自転車遍路(四国八十八ヶ所巡り)


日程:1996年8月24日〜1996年8月28日

青春18切符が余っていたので、四国ツーリングを思い立ったのが始まりである。
目的は、お遍路さんになり、八十八ヶ所のお寺を参拝することにした。そして、巡礼中の移動は、自転車と徒歩に限ることにした。さらに、その期間中は禁酒する決意をした。

8月24日(土)

霊山寺の写真板東駅で降り、輪行してきた自転車を組み立てた。第一番である霊山寺に行った。本堂の横の部屋では巡礼道具一式を販売していた。

 

そこで、お遍路さんに必要なものを教えてもらい、 私は、

を買った。合計5900円。服装は変えなかったので、周りの人には私が単なるツーリストであり、お遍路さんとして巡礼する様には全く見えなかったであろう。また、私はそうであることを望んでいた。お遍路さんになることに恥ずかしいという抵抗感を持っていた。

もう一度、門から入り直して、今度はお遍路さんを実行することにした。

この中で、お経を口に出して唱えることが恥ずかしくて、黙読した。周りでは、白装束に身を包んだお遍路さん達が、声を大にしてお経を唱えていた。

私は、これから後、参拝するお寺では、納経所で300円を渡して、納経帳に印をもらい、御影を頂くことにした。
この日は、1〜3番まで打った。

8月25日(日)

10番で、一人の歩きお遍路さんに出会った。彼は、徒歩と公共の交通機関で行動していた。こういうお遍路さんも割合多かった。巡礼は、完全に歩くと約40〜60日、自転車だと18〜20日、車だと7〜10日要するらしい。

山中の自転車の写真11番の藤井寺から12番の焼山寺に至る道は、八十八ヶ所中の四大難所の一つである。へんろ道が山越えするように続いている。大体6〜8時間要するらしい。自動車用の他のルートがあるが、それも40キロ余りと遠い。
私は、無謀にも、自転車をかついで登り切ろうと考えた。途中、いくらかは自転車に乗れる道もあるだろうと楽観視していた。ところが、自転車を押し上げるには道が悪過ぎ、また、かついでいくには道が狭過ぎたので、かなり苦労した。結局、50分過ぎた所でやむなく引き返してきた。ここで、体力を使い果たし、時間を浪費してしまった。そして、自動車道から行くことにした。

午後4時半を過ぎても、今夜の宿も決まらないまま、鮎喰川を遡って自転車を走らせていた。そこに、「..善根宿..」なる標識、それに一人の男性が目に留まった。結局、そこの無料の宿に泊めてもらった。彼は、見ず知らずの私に大変親切にしてくれたので、この場でお礼を言いたい。どうもありがとうございました。
この日は、4番〜11番まで打った。

 

8月26日(月)

私の写真標高約700mにある焼山寺は、田中食堂を過ぎた所から急な登りになり、そこからずっと自転車を押して、丈杉庵にたどり着いた。ふもとの神山温泉あたりからここまで、約1時間。ここに自転車を置き、ここからは、へんろ道を歩いて行った。他の自転車遍路も途中で、自転車を放棄して、へんろ道を歩いていた。約30分で焼山寺に着いた。この頃になると、お経も少しはスムーズに声に出して唱えられるようになったと、自分では思っている。帰りは、丈杉庵の脇から、愛車マウンテンバイクで、へんろ道を降りることにした。私の腕にはちょうどよい山道であり、ずっと自転車に乗ったまま降りられ思う存分楽しめた。

月曜日になると、参拝者が少ない。また、一回出会った人に、二回三回と違うお寺で出会う機会が出てきた。同じお遍路さんという意識からか友好的な人が多く、また、みんなで旅をしているような不思議な感じを受けた。
この日は、12番〜18番を打った。

8月27日(火)

この日は、四大難所の二つ鶴林寺と大龍寺を回る。鶴林寺は、ふもとから、ほとんど自転車を押しっぱなし。残り900mというへんろ道の脇道があったので、そこから歩いた。自転車遍路は、登りに関しては、自転車を押すので、歩き遍路よりもずっと疲れる。ただし、これも下りで楽をするためである。トータルでどっちが得かを考えて、自転車を置いて歩くか、自転車を押し上げるかを判断するのである。

自転車の写真次の大龍寺へは、那珂川の方へ行く道から降り、水井橋からへんろ道を自転車で登った この坂道は急でなかったのでずいぶんと奥まで進めた。途中から、階段が出現した。ここからは、自転車に乗れない。ここで、私は考えた。このまま、自転車をかつぎ上げて、反対側の道へ降りれば、次の22番が近くなるだろう。自転車と荷物を背負い、山道を登っていった。約1.5kmの道のりだが、重さと自転車の持ちにくさから、ものすごく疲れる。何度も何度も休憩し、ようやく反対側の道との分岐点についた。ここからは、歩いて、大龍寺へ行った。水筒のお茶は、二つの難所により、すでに飲み尽くされていたので、余計にきつかった。


 

標識の写真「へんろみち」について説明すると、お遍路さんが昔から歩いている道に、道案内の標識が設けられている。
この日は、19番〜23番を打った。「発心の道場」(徳島)を終わった所で、お遍路は一時中断。


 

8月28日(水)

この日、「南無大師遍照金剛、同行二人」の白衣と、写経セットを次の旅に備えて買った。この巡礼旅の続きをするために、また、ここに来ることを決意した。しかも、今度は、白装束に身を包んで、自転車に乗ろうと思っている。

感想

お遍路さんの何が楽しいか?


日程:1996年9月14日〜1996年9月18日

仕事を終えたその足で出発した。大阪南港−20時40分発、徳島−翌0時10分着のフェリーで四国へ渡った。

 

9月14日(土)

その夜は、徳島の公園で始発電車の時刻まで待った。電車で日和佐まで行き、そこで、真新しい白衣に着替えた。そして、前回の旅の最終寺であった23番薬王寺から出発した。
室戸岬に近づくにつれて、人家も自動車も少なくなり、自然の中をのんびりと海を見ながら走れて気持ちよかった。この日は、24番を打った。
そして、この最御崎寺に泊まった。宿泊客が多かったために、私は、もう一人のお遍路さんと相部屋になることを承諾した。彼は、「南無大師遍照金剛」を「無無大地返上今後」とか、自然破壊について「サンカ」ら日本にいる民族に詫びなければならないとか、他にも奇妙なことを色々と話した。また、岩穴や大木の下では大地の息吹が感じられるらしく、そういった所で野宿してお遍路を続けていると言っていた。

9月15日(日)

26番金剛頂寺では、登りは自転車を押した。下りは、へんろ道を、約7割は乗って降りられた。
27番神峰寺では、ふもとに自転車を置いて歩いて登った。お寺の前では、自転車で登ってきた人に出会った。すごい人もいるものだ。下りは、夫婦の歩き遍路と一緒になった。彼らは、何回かに分割して八十八ヶ所をすべて歩くと言っていた。途中、金剛杖のコツコツという地面をたたく音が途絶えたと思ったら、そこは小さな橋であった。そういえば、弘法大師が橋の下で野宿をしたことがあるため、橋の上では金剛杖をつかないという話を本で読んだことがある。私も、手に持っていた杖代わりの棒を、すぐさま持ち上げた。
この日は、25番〜28番を打った。

9月16日(月)

白衣の写真振替休日ということで、この日のお寺は、朝早くから混んでいた。団体のお遍路さんがいて、納経所で掛け軸、納経帳、白衣をそれぞれ20〜30個にサインと印をもらっていた。これじゃ、お寺も大変だなぁと思った。また、待たされる私達も大変ではあった。
私の隣でお祈りしていた人が金の納札を持っていた。それをもらおうと、お遍路さん達が群がってきた。納札は、巡礼の回数により、色分けされており、私ら1回目は白札、金札は50回〜99回である。たいしたものと感心させられた。前に、ある遍路宿で、二百数十回目のときの錦札が飾られていたのには驚いたことがある。
この日は29番〜36番を打った。

 

私の写真天気はあいにく曇りや雨がちであったが、宿とした国民宿舎土佐は部屋からの眺め、料理のうまさと量、風呂の広さ、ホテルの人の親切さなどがよかった。


 

9月17日(火)

途中、一人の黒っぽい服を着た若いお坊さんが歩いているのとすれ違った。私の方を見て、拝んでせりふを言ったみたいだったが、私には聞き取れなかった。私はあいさつを返した。出会った場所からして、おそらく修行中のお坊さんなのだろうと思った。
今回の旅は37番を打ち、終わりにした。この寺が経営するユースホステルに宿をとった。宿坊もユースホステルも料理や、部屋は同じ(他にユースの人がいれば相部屋になる)であった。ユースは値段が少し安かった。この日に泊まっていた一人のお遍路さんが自転車で回っていたため、その晩は二人で盛り上がった。定年を迎えてはいるが、私よりも元気のある人であった。

9月18日(水)

朝、別の自転車のお遍路さんがいて、彼とも、自転車の話などして話し込んだ。彼は、マウンテンバイクのタイヤをツーリング用に交換していた。こうすることで、路面との摩擦抵抗が減るため、楽に自転車が進む。私も、今度試してみようと思う。
窪川駅から、高知駅へ輪行した。高知では、桂浜で時を過ごした。以下、私の考えた詩を三つ掲げる。

 我が行くべき道は、我の魂のみぞ知る
 故に、我問う、我が魂に

 君は見たか!
 龍馬も見た
 夢というものを

 我願う
 この波の如く
 強くありたい

この晩、高知−21時20分発、大阪南港−翌6時30分着のフェリーに乗った。朝そのまま会社へ向かった。


日程:1996年10月9日〜1996年10月13日

仕事を終えたその足で出発した。大阪南港−21時20分発、高知−翌6時30分着のフェリーで四国へ渡った。

この旅のために、二つのことを準備してきた。一つ目は、テントを持ってきたこと。これは、テントを持っていれば宿の心配は不要で、体力の限界、または日が暮れるまで、走れる所まで走るため、距離が稼げると考えたからだ。二つ目は、マウンテンバイクのタイヤをゴツゴツの太いものから溝の浅いツーリング用の細いタイヤに替えたこと。これも舗装路の道を走るには最適だと考えたからだ。

10月9日(水)

電車で窪川まで行き、そこで、白衣に着替えた。そして、前回の旅の最終寺であった37番岩本寺でお経を上げてから出発した。

食料は、すだち、カンパン、カエリ(干した小魚)、カロリーメイト、アクエリアスを揃えた。荷物が多いので、大部分は後ろのキャリアに搭載したが、一部はザックで背負わなければならなかった。

走れる所まで走った。タイヤを替えたおかげで、路面との走行抵抗が少なくなり楽に走れた。ただ、荷物を背負うと体、特に腕に負担がかかって疲れた。

この日は、足摺岬の先端から約五キロ手前(道を間違えたので岬の西側)の所に公園があったので、そこにテントを張って泊まった。公園だと水道や便所があり便利だった。

10月10日(木)

40番近くでは、「南レク御荘公園」という広くて立派で綺麗な公園があった。管理人さんは、テントを張るのを快く承諾してくれた。そして、管理人さんに教えてもらった公園前の赤い屋根の平屋建ての店で夕食にした所、量が多く満足した。
この日は38番〜40番を打った。

10月11日(金)

橋の写真大州では、弘法大師が橋の下で野宿して一夜を明かした十夜(とよ)ヶ橋があった。橋の下には、弘法大師が横になっている像があった。頼めば、ここで野宿の修行ができるそうだ。
この日は41番〜43番を打った。


 

10月12日(土)

美川村の方から回って、45番から44番へと逆打ちした。このルートの方が、上り坂が少なく、早く楽に回れた。45番岩屋寺では、本堂が岩に囲まれるように建っていた。また、洞窟の中に不動明王がいた。また、少し離れた行場「せり割禅定」という所があったり、遍路さん達が山の中で般若心経を上げていたり、お坊さんが修行で歩いていたりするなど、強く霊的な感じを受けたお寺である。

44番へ行く途中から雨が降り出した。44番で宿坊が運営していれば泊まろうと思ったが、あいにく休みであり、代わりに46番前の「長珍屋」という遍路宿を紹介してもらった。三坂峠を越える頃から雨は激しさを増し、豪雨となった。下り坂が非常に非常に長く感じられた。以前に、私は、聞いていたので、途中にあるバス停「塩ヶ森」横の細い道の入口を見過ごさないように、最大限に注意を払っていた。分かりにくい分岐点である。下り坂にあるため、スピードを出し過ぎていると見過ごしてしまいそうだ。

46番浄瑠璃寺には、4時半前に到着した。雨は、降り続いていた。ここの納経所で、納経料300円は要らないという接待を受けた。初めて受けた接待であり、しかも、お寺の人から受けたので、非常にうれしかった。カッパ姿に同情してくれたのか?

この後、長珍屋に泊まった。予約なしで、5時前にチェックインできた。そして、なんと6時にはもう食事ができたのだ。ここは、大きなお遍路宿で、100〜150人は泊まっていただろうか?お風呂は泡風呂と水風呂とサウナがあった。食堂もお膳が100以上は並べられていた。食事時間になると、15〜25人のお遍路の各団体が添乗員とともに食事をはじめる様子を、眺めていた。ほとんどが50歳以上の年輩の方であった。

この日は45番、44番、46番を打った。
ようやく、八十八ヶ所の半分を打ち終えた。非常に長かったなぁ。

10月13日(日)

朝6時前頃、浄瑠璃寺に朝のお勤めがあればと思って出かけたのだが、この日はなかったか、終わった後だったようだ。
朝食は6時からであり、私は7時に食堂に行くと、ほとんど全員が出かけた後だった。お遍路の朝は非常に早い。

47番前で早生みかんを一袋100円という良心市(無人販売)で買った。田舎では、安く新鮮な野菜が手に入るのが有り難い。他の所でも、一袋100円でキュウリを買っており、生でかじって食料にしている。

51番石手寺は、町中にある大きなお寺であった。マントラ洞窟なるものに入った。山頂に見える大きな弘法大師や、苦行中の釈迦のがりがりに痩せた像、八十八ヶ所の山巡りなど、ここは色んな仏像がたくさんある妙なお寺だった。また、参道には多くの店が建ち並んでいた。日曜日ということと、町中ということで、大変賑わっていた。門前で草餅を買って食べた。

53番を打ち、この旅の終わりにした。
この日は47番〜53番を打った。

この後、道後温泉に向かった。「神の湯、二階」に入った。神の湯では、「坊ちゃん、湯の中で泳ぐべからず」という夏目漱石の「坊ちゃん」で有名な看板が残っていた。湯上がりは、二階で浴衣に、お茶、菓子のもてなしがあった。
この後、松山観光港−20時35分発、神戸−翌5時30分着のフェリーで帰った。


ホームにもどる