韓国(初めての海外旅行)

日程:1991年4月28日〜1991年5月7日

交通手段:下関−釜山(往復)関釜フェリー


関釜フェリー

日本から韓国へは、関釜フェリーを使って往復した。
日本を出発するとき、大勢の人が、確か、バナナと電気釜をお土産にしていたが、これらは、韓国人にとっては今でも高級品なのであろうか?
フェリーでの真夜中、ふと目を覚ますと、誰かが、他人の鞄を物色しているようだった。私は恐かったので寝たふりをしていたが、物騒だと思った。その時以来、宿以外で眠るとき、貴重品は必ず身に付けておくように決めている。

釜山

韓国に到着して最初の印象は、日本とそっくりということだった。ただし、町中に溢れるハングル語を除けばの話しであるが。こんなことはあり得ないことだろうけれども、万が一、私が、日本語を理解できなくなったら、日本の町もこういう風に感じられるのだろうと変なことを考えていた。
釜山港に着くとすぐ、日本語を話す韓国人が話しかけてきて、近所を案内してくれた。その後、食堂に入り食事をおごらされてしまった。そこは、大衆食堂だったので安くて旨かった。多分、日本人相手に、いつもただ飯を食っている人だったのだろう。
5月だというのに、韓国は予想以上に寒くて、着いたその日に長袖シャツを購入して重ね着した。

慶州

レンタル自転車でサイクリングをした。自転車を借りるときにパスポートと引き換えだったのには驚いた。韓国では自転車は高級品なのだろうか。もちろん、自転車を返すとパスポートも返却されたのだが。
石窟庵は韓国人の観光客が多かった。

扶余

田舎ののんびりとした町というのが印象に残っている。

独立記念館

日本人兵士が韓国人を殺害している場面などの人形が展示されていた。ここは日本人にとっては居心地の悪い場所であったが、ぜひとも、多くの日本人に見学してもらい過去に日本人が行ったことを知って欲しいと思った。

ソウル

大都会である。
夜、公園で、若いカップルに声をかけられたのがきっかけで、一緒に屋台に飲みに行った。その晩はホテルに泊まったが、次の晩からはその韓国人の家に2泊させてもらった。またご飯もごちそうになった。屋台に行った次の日は焼酎(真露)による2日酔いで、景福宮の見学はしんどかった。
ソウル最後の日、駅近くで、ものすごい目の痛みを覚えた。後になって知ったのだが、あれは前日の催涙弾の影響ということだった。事件に巻き込まれなくて本当によかった。

韓国料理

唐辛子が辛くて私には合わず、お腹を完全に壊してしまった。韓国料理は、日本料理の醤油と同じで、何を食べても唐辛子味だった。私が食べた中での例外は、パンとカレーであった。

食堂では陳列棚などのメニューのない所がほとんどなので、また、私は韓国語がほとんど喋れないので、茶碗を左手に持ち、箸を使って右手で白飯を食べるジェスチャー 食べるジェスチャー でご飯を注文するか、または、他人の食べている食事を指差すかのどちらかであった。その場合、たいていは韓国の定食となった。白飯とキムチ、唐辛子味のおかず類であり、辛くないものはなかった。韓国の定食は、白飯と10品目以上の皿が並べられ、いくら食べても同じ料金であり、また、お皿に盛られたおかずがなくなりかけると、新たにおかずが追加された。絶対に残さなくてはならないシステムになっているようだった。私の取り残した料理は、次の人に出されたのだろう。
時には、初めて食堂で出会った韓国人と同じ皿のおかずをつついて食べたこともあった。

韓国のテーブルマナーは日本とはちょっと違っている。
白飯の入っている茶碗は決してテーブルより持ち上げてはならず、スプーンを使って食べる。金属性の箸はおかずを食べるときに使うのである。日本では、行儀の悪いとすることが、韓国では良いいマナーであるというのだから、マナーとは一体何なのかと考えされられた。
とにかく、一番、おいしかった料理は、肉を野菜とキムチで包んで食べる焼肉だった。

宿

宿は、日本の温泉マーク 温泉マーク かハングルの旅人宿(リョニンジュク) 旅人宿(ハングル語) で探した。そこでまたジェスチャー 眠るジェスチャー を使った。顔を傾けて、その下に合わせた両手を枕のようにした。
夜は寒かったので、宿のオンドルと言う床暖房は快適だった。ただ、風呂は水シャワーのみで、寒い季節にはつらかった。

感想

初めての海外旅行で、お互いの国の言葉が話せないもの同士が、英語という言葉を通じて理解しあえたのは、素晴らしいことだと感じた。
今まで何年間も英語を学んできて、初めて役立った。これからは、コミュニケーションのための英語を学びたいと思った。

韓国人は、非常に親切だった。例えば、バスを待っていた学生たちにバスの行き先をたずねると、チケットまでくれたこともあった。
私が、日本で困っている人を見掛けたらここまでできるだろうか。いや、するのが当然なのだろうと思った。

昔、日本が侵略していたのを根に持っている人もいて、日本語が解っていても決して話さない老婆や、生まれて初めて日本人と日本語を話したと言って感動してくれた老人、また、日本語を使いたくて積極的に話しかけてくる若者など様々だった。しかし、過去に日本人が韓国人に日本語教育を強制的に行った事実は忘れてはならないと思った。
戦争に関して言えば、豊臣秀吉の時代、第二次世界対戦の時代に日本が韓国に侵略したことなど、日本の教育ではそれほど学ばなかった。しかし、被害国である韓国においては、記念館や記念碑が所々に見受けられ、その認識の強さに大きな違いを感じた。日本でも、歴史の時間に、戦争のことをもっと教育すべきだと思う。
そのことに関して、韓国人に、時に、ぶしつけな質問をしたりしたことを少し後悔している。

同じアジアのしかも隣の国であるのに、こんなにも違いがあるのかと驚いた。食文化、マナーなどが予想以上に違っていた。また、人々は、外国人である私に対しても親切にしてくれた。旅では、様々な新しいもの、文化、人との出会いがあった。これが、私を、海外旅行の虜にしたのだった。

旅で出会った旅の達人たちに憧れ、自分もそうなりたいと思って旅を重ねて現在(1995年11月)に至っているが、最近は自分もほんの少しだけその仲間入りができてきたかなぁと感じ始めている。

初めての海外旅行であったので、自分では十分と思うほど準備をした。私は、4月から1ヶ月間NHKラジオとNHKテレビでハングル語を猛勉強し、

を覚えた。言葉の壁は不安だったが、ジェスチャーを交えて何とか相手に通じた。
何か話しかけるときはアンニョンハセヨで始まり、あとはジェスチャー、もしくは、筆記、最後にはカムサハムニダと言えばよいのだ。物を買うときは、オルマエヨで値段を教えてくれるので、よく聞いてから買う。買ったら、カムサハムニダと言う。これだけでよいのだ。
自分の意志を伝えるのに、言葉は必ずしも必要ではなかった。


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