日程:1992年12月20日〜1992年12月29日
車が多かった。人も1千万人以上いるらしい。あまりにも都会的であり、私の想像と違っていたので驚いた。バンコクの渋滞は有名である。
私は、バンコクのバス路線が載った地図を購入した。それを見て町のあちこちをバスで移動しながら観光した。地図さえあれば、大体はバスを乗りこなせるようにまでなった。
いくつかの寺院巡りをした。
ワット・プラケオ(寺院)は、きらびやかで日本の寺とは全く反対の印象を受けた。もっとも、日本の大乗仏教とタイの小乗仏教という違いはあるのだが。
ワット・ポーの建物の中にはリクライニング・ブッダ(仏陀)がありその大きさに圧倒された。いくつものオワンの中に、小銭をチャリン、チャリンと気持ち良い音を立てて入れて歩いた。
ワット・アルン(暁の寺)は上まで登ったが、急な石づくりの階段のため降りるとき怖い思いをした。
タイの格闘ムエタイを見に行った。観客が興奮していてうるさかった。試合は売れないキックボクサー同士の闘いという感じだった。
大きなフードセンターでは、いろんな国の料理があり、食事は大満足だった。
町中を歩いて、日本人旅行者の溜り場と言われる July Hotel や楽宮旅社も外から眺めた。
ホアランポーン駅前では、夜になると、ござを敷いただけの一杯飲み屋がたくさん開店する。そのうちの一つで、少女が店を構えていたからそこに座った。すると、彼女の母親がでしゃばってきて、日本人と見るとあれこれと薦められ、ゆっくり落ち着きもしなかった。
バスの中で、タイ人が日本語で話しかけてきた。最初はそう見えたが、実は日本人だった。家が金持ちで彼はタイ国内を旅行中ということだった。一緒にパッポン通りに飲みに行こうと誘われ、私は、彼のホテルに一緒に付いて行った。中の上くらいのホテルだった。それから、飲みに出かけた。
若い女性が舞台の上で踊る店である。言葉もほとんど通じず、私はどうしてよいか分からなかったが、彼は踊り子達に気前よく振る舞っていた。しばらくして、彼は踊り子を一人連れ出した。彼と、私と、踊り子の三人は、喫茶店に入ってしばらく話をした。もっとも私にはほとんどが、ちんぷんかんぷんだった。店を出て、私は彼らと別れた。私は、おとりだったのか。まあよいか。
ホアランポーン駅から鉄道でアユタヤーへ行った。ここはのんびりとした田舎だった。しかし、寺院巡りをし過ぎて、飽きてしまった。タイへ来て、あまり興味もないのに多くの寺院を見たのは失敗だった。
昔、17世紀ごろ、このあたりに日本人町が栄えたそうである。約8千人住んでいたそうである。こんなに遠くてしかも田舎に日本人が来ていたのかと感動した。ただ、記念館の展示物等はつまらなかった。
アジアの国々がここまで発展しているのに驚いた。バンコクの交通渋滞などは先進国以上に深刻かもしれない。
タイはあまり印象に残っていない国である。おそらく、旅の感動や苦労等が少なかったのだろう。