松下幸之助の「商いの心」

  若き社員に贈る「プロを目指す生き方」

衆知を生かす心構え

平成20年 6月

 われわれの置かれている状況は、現在刻々と変化している。社会情勢も非常に変転きわまりない。それにともなってお互いの商売なりサラリーマンの仕事のあり方というものも、日に新たなものが要求されてくると思うのである。
 商品ひとつとってみても、昨日までは非常に好評を博しており、よく売れていたものが、競争相手からもっと良い品物がでたとか、流行にあわなくなった、ということで今日はもう見向きもされなくなってしまう。あるいは、会社に電子計算機のような最新の機械が導入されて、昨日までの仕事のやり方が今日はガラリと変わってしまう。
 そのような変転きわまりないめまぐるしい環境の中で、次々と起こって来る新しい事態に直面して、そこになんらの不安も動揺も感じないということは、神業に近いといわなくてはならない。いや、あるいは神様でもできないことかもしれない。お互い人間である以上、多少の程度の差はあるであろうが、不安動揺なしにはいられないと思う。それが人間本来の姿なのである。
 そのことで、自分は特に神経質なのではないかとか、自分はどうも心配性だなどと思い悩む必要は少しもない。それが正常なのである。現在の変化のはげしい社会の中で仕事をしていて、なんの心配もないというようなことは、ちょうど自動車がひっきりなしに通る道路を、まったく注意もせずに平気で横断しているようなもので、いっぺんにハネとばされてしまうにちがいない。だから、安心して大いに心配しなさい、といいたい。
 だからといって、ただ不安動揺し、それにおびえてなすところなくウロウロしているというのでは、そこから何も生まれてこない。はげしい自動車の流れに足がすくんで、道路も渡れない。したがって目的の場所へも行きつくことができない、というようなものである。
 そうでなくして、不安は感じるが、しかしその不安に敢然と闘いを挑み、これを打破していく。むずかしい仕事、困難な要求に直面して、一面に不安を感じるが、反面かえって心が躍る、そしていろいろの考えを生みだしこれを克服していく。そういうふうでありたいと思うのである。
 もし、何の心配も不安もない安穏な生活というものがあれば、それは一面にしあわせであり結構のようにもみえる。しかし、そういう状態からは意欲は起こらないし、物も生まれてきにくい。平穏無事な環境が続けば、いつしかそれに馴れてしまい、自分の実力も向上しない。
 そういうことを考えてみれば、不安もまたよし、という大きな心で、日々自分のつとめをはたしていけるのではないかと思うのである。

(『その心意気やよし』より)

バックナンバー