松下幸之助の「商いの心」

  若き社員に贈る「プロを目指す生き方」B

衆知を生かす心構え

平成20年 10月

 実は、もう戦争前のことになるのだが、ある日たまたま寄席を見にいったことがあった。その出し物の中に中国人の曲芸があった。見ていると、若いきれいな女の人を壁の前に立たせる。そして、その人に向かってピュッと短剣を投げるのである。
 なにしろ私はそういうものを見るのは初めてのことだし、ビックリしたというか、心臓がキュッと縮むとでもいうような思いであった。ところが投げられた短剣は女の人のからだスレスレのところにブスリと突きささる。と、また2本目が飛び、これも見事にわずかのところでからだにはささらない。ホッとする間もなく、次から次へと20本あまりの短剣が、ピュッピュッと宙に閃いて、こちらはもう手に汗にぎるどころか、心臓が縮みっぱなしであった。
 やっと全部の短剣が投げ終えられたのを見ると、ちょうど20数本の短剣が壁に鮮やかにからだの線を描いてささっている。そこで初めてわれに返ってヤンヤと拍手喝采したという次第であった。
 そのときには私は、今の言葉でいえば“これがプロだな”と感じたのである。見ている方も怖いが、やる方はわずかでも手もとが狂えば、人のいのちにかかわるのである。それを1本だけでなく、しかも毎日毎日、おそらく一生やり続けて1つの失敗もないというのは、実に大変なことである。これがワラ人形相手ならし損じも許されようが、それではお客は見に来ない。つまり、いうなればアマチュアである。人間相手、わずかでも誤ればいのちがないというスリルがあればこそ客も金を払って見に来てくれる。それをやりとげるのがプロである。
 ということは、われわれの仕事もこれと一緒だな、われわれが本職として、それでメシを食うとなれば、こうでなくてはならないな、ということを感じたのである。
 結局サラリーマンの仕事でも、こういうきびしい境地に立って、これだけのことがなしとげられて、はじめて一人前として給料がもらえるということであろう。そうでなくては、いわばアマチュアである。今日のサラリーマンに要求されるのは、そのような“プロ”の仕事である。

(『その心意気やよし』より)

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