松下幸之助の「商いの心」

    お得意先の電器係・その@

衆知を生かす心構え

平成21年8月

 私の50年の事業体験から申しますと、もし私が小売屋さんであるとして、隣にスーパーができたとします。そしてある物を安く売るというようにいたしたとします。すると客は、必ず隣に買いに行くだろうと、こういうことが一応いえます。そうすると自分の店は困るなと心配するわけであります。しかし、今の私はそれを心配しません。というのは、私は50年の経営の体験から、そういうものができても、自分は十分に自分の店を維持してやっていけるということを知っているからであります。「そんなことを言ってほんとうにできるのか。かりに自分のほうではナショナルのものを1万円で売っておった。隣がそれを9,500円で売ったならば、同じナショナルの商品やから、隣のものを買うのが当たり前や。そやから売れんようになるんや。それは困るやないか。そういう場合にはどうか」と、こういうお尋ねがあるだろうと思うんです。
 ちょっと考えると、そういうように思うのであります。しかし私は心配ないと思うんです。そりゃおかしいと皆さんおっしゃるかもしれませんけれども、これは、隣にできたスーパーの経営者の経営いかんにもよりましょう。すばらしくすぐれた人であり、すごい魅力のある人であり、またわれわれの気のつかないようなすばらしい経営法を案出して、そして町の人気をさらっていくという何千人に1人、何万人に1人というようなすぐれた人であれば、これはあるいは自分の得意が半分なくなるかもわからんと思います。しかしまずそういう人は現実にはございません。すぐれた点もあるが、また一面に欠点もあるのが人間の姿であります。

 そうでありますから、決して自分の老舗のお得意というものは、そう無条件に動くものではないというその信念が、私は大事やと思うんです。きょう買うてあした使って雲散霧消するものであれば、それはあるいは安いことによって流れるかもわからない。しかしわれわれの商品というものは、売ったならば自分の娘を嫁にやったようなものです、早くいえば。うまく働くか働かないか、気に入ってくれるか気に入ってくれないかというようなものだと思うんですね。自分の娘を嫁にやるように、われわれは物を売っているんです。だからその買ってくださった家と自分の店とは親戚になっているわけです。親類であるということを、われわれがグッと認識すれば、親類になるんです。親類やない、赤の他人である、その人はどこに行くかわからんと考えたら、そのとおりになる、私はそう思うんです。お得意を信ずるか信じないか、こういう考えをまず商店の経営者がもっているかもっておらないかということである。


(昭和42年11月22日 京滋地区ナショナル店会連合会躍進大会 於:国立京都国際会館)

解説 

【解説】

 「自分の娘を嫁にやるように物を売り、お得意先と自分の店は親類であるというほどの思いに立って商売をしていれば、お得意先はけっして裏切ることはない」――これが弊社創業者・松下幸之助の商売における信念でした。しかし、日常の商売において、どうすればそうした域に達することができるのでしょうか。
 松下は、本来商売というものは、単に物とお金が動いて成立するというような索漠としたものであってはいけないと考えていました。物やお金とともに、人の心も同じように移っていくべきである、すなわち、物やお金が通い合うだけでなく、お互いの心がその間で通い合っていることがきわめて大切であり、そこにこそ商売の真の味わいがあるというのです。
 そして、そういう思いで日々の商売に取り組んでいってはじめて、お客様とのつながりにも単なる商売を超えた、より深い信頼関係が築かれてくる。そうなればお客様にも喜ばれ、ひいてはそれが自分の店の繁栄にもつながっていくのだと説いていました。
 したがって、たとえ通りがかりのお客様であっても、あるいは購入された金額が少額であっても、お客様にぞんざいに接するなど、決してあってはならないことはいうまでもありません。逆にそうしたお客様にも、お金のやりとりから商品の包装まで、精一杯の誠意を尽くすことで、そのお客様が新たなお得意となり、“親類”になってくださるきっかけが生まれるのではないでしょうか。あるいは、地域の美化に貢献するといった活動を通して、地域社会への貢献に努めるということも、お得意先との結びつきをより強くする一助になるかもしれません。
 不況だからといって、無茶な値引きや経営力に見合わないサービスを続ける商店も多いようですが、そうしたことよりもお得意の信頼に足る活動を平素自分の店としてどれだけできているか、つねに省みる態度が必要だということでしょう。

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