松下幸之助の「商いの心」

    共存共栄・その@

衆知を生かす心構え

平成22年02月

 私の一つの体験でありますけれども、一つの事業を拡張するときにはやはり心配であります。拡張してもうまくいかなんだらたいへんですからね。銀行で金を借りたり、株を募集したりする。資金が集まったら、それで事業をする。それらがうまくいったときには、銀行にも金が返せる。株主も喜んでくれる。それはよろしい。しかし、うまいこといかんときにはその反対ですわ。株主から叱られ、銀行からけしからんと言って怒られる、自分の信用は落ちてしまうことになります。だから、一つの事業をやる、やらんということは、大きな問題でございます。
 しかし、それを押してなおかつやるについては、何らかの安心感というものが必要なんです。私がどういうところにその安心感を求めているかというと、世間の評価です。
 世間とは鏡のごときものである、いいかえれば神のごときものであり、その裁断は神の裁断であると思うんであります。そうでありますから、もし自分が誤ったことをしなかったら、必ず世間はこれを認めてくれるにちがいない。実際は、自分がいくら誤りのない正しいことをやっても、世間に見る目がなかったらあきませんわ。しかし一人一人ピックアップすると、見る目がない、あてにならんという人もありますけれども、広い世間をおしなべて考えてみますと、世間は神のごとき裁断を常に下している。何が正しいかということに答えているんです。
 もし自分のすることに誤りがなければ、必ず世間はこれを受け入れてくれるにちがいない。“私”の心なくして、これは社会のためになり、事業としてやらんならんことである、と思って進めるものは、必ず認めてくださるのが世間であります。だから心配ない。世間は暴君ではない。世間は非常に賢明である。だからやってよろしいというように、自分に安心感ができるんであります。それで私はどんどん仕事をやってきたんです。今もやりつつあります。
 私は、皆さんもそういうふうにお考えになっていいんやないかと思うんです。皆さんが私心を捨てきることはできないけれども、我にとらわれず、私心にとらわれず、物事を判断してやろうとすれば、必ず会社や世間、お得意先は認めてくれるにちがいない。安心であります。やったらやったで必ず認めてくださる。これほど私は正確な的はないと思うんであります。

(『松下幸之助発言集 第11巻』より)

解説 

【解説】

 昭和29年、弊社創業者・松下幸之助がある銀行に挨拶に出向いた時のことです。
 その銀行の重役から、「松下電器はどこまで拡張されるのですか」という質問がありました。すると松下は、言下に、「それは私にもわかりません」と答えました。
 その返事にとまどっている先方に対して、松下はこう続けました。
 「松下電器を大きくするか、小さくするかということは、社長の私が決めるものでもなければ、松下電器が決めるものでもありません。すべて社会が決定してくれる。松下電器がよそさんに負けない立派な仕事をして、消費者に喜んで使っていただけるような仕事をしていけば、もっとつくれという要望が集まってくる。その限りにおいては松下電器はどこまでも拡張しなければならない。
 しかし、逆にわれわれがいかに現状を維持したいと考えても、よそさんに負けるような悪いものをつくっていたのでは、これはだんだん売れなくなって現状維持どころではない。縮小せざるを得なくなる。松下電器を大きくするか、小さくするかということは、すべて社会が決定してくれる。もちろん半期とか一年とかいう一応の見通しを立てた計画書は銀行へお出ししてますけれど、どこまで拡張するのかと言われると、これはわからないという答えしか出ません」
 なぜ松下はこのような答え方をしたのでしょうか。もっぱら世の中では、目標を立てて商売をするものです。銀行の重役も、松下から計画書を提出されながら、意外な答えを聞かされてさぞ面食らったことでしょう。ただ松下は、計画あっての商売とはいえ、企業活動は世間一般のお客様を相手に行なっているのだということを忘れてはいませんでした。目標ありきの商売をしていると、いつの間にかお客様の顔が見えなくなるのではないか。そうした危惧の念を抱いていたのでしょう。

 世間というと漠としてつかみどころがないと思われるかもしれませんが、正しいことをしていれば必ず受け入れられるという全幅の信頼をおいて商売を続けていけば、きっとそれにふさわしい評価が下されるものです。経営の心がまえの大原則として顧みるべきではないでしょうか。

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