青春期、男は極端でないにしろ何がしか軟派と硬派に分かれる時期があるようです。
僕の場合、大学の4年間は後者でした。
といってもけっしてピッケル片手に冬の壁に立ち向かうなどといった
気合の入った硬派ではなく、むしろそれとはまったく逆で、
言ってみればギャンブル好きの軟弱硬派といった感じでしょうか。

麻田哲也の「麻雀放浪記」に憧れ、日雇いのバイトをして日銭を稼いでは
渋谷の雀荘にフリーで乗込んでその道のプロにカモられたり、
平日は大学にも行かず、ましてや実家にも帰らず、同じ穴のムジナのような
学友の下宿に入り浸って麻雀、トランプ、チンチロリンと博打三昧の日々を
送っているような時期がありました。
ポケットに手を突っ込めば必ず指先にサイコロがふたつ触れるという状態でしたから
救いようがありません。

大学2年のうだるように暑い8月、例によって僕は難しい環境物理学の講義を
ボイコットし、七夕祭りで有名な神奈川県平塚の先、山の中にある、
今にも崩れ落ちそうな悪友の安下宿にいました。
下宿の主は信州松本から上京してきた滝山という
僕に輪を掛けたギャンブル好きの男で、
彼の下宿はそんな男達の溜まり場と化していて、
たとえ宿主がいなくても、常に何人かが上がり込んでは
勝手に場を開いているといったプライバシーも何もない状態でした。
後にこの滝山という男に初めて上高地に連れて行ってもらい、
それが山に目覚めるきっかけになるのですから
人の繋がりというのは不思議なものです。

その日は真面目に講義を受けてきた悪友達が夕方になってから
三々五々集まり始め、なんだかんだとしているうちに
夜の11時頃になって場が立ちました。

集まったのは全部で6人でした。麻雀は4人で行うゲームですから、
当然2人抜けなければなりません。
6人で順番にサイコロをふたつ振り、ふたつの合計が一番大きい目と
小さい目の出た者が最初の半チャン(1ゲーム)を抜けることになりました。
そして一番大きい目を出した、福島から上京して同じように近所で
下宿している野口という男と、ピンのゾロ目という一番小さい目を出した
僕が抜けることになりました。
最初のうちは後ろから悪友達の牌を覗きこみ、ああだこうだとチャチャを
入れていた僕と野口でしたが、場が長引くうちにそれにも飽きてきてしまいました。

ちょうどその日、高校時代からの同級生である島本という男が、
バイトで買った8年落ちのボロボロのブルーバードSSSで
滝山の下宿に来ていました。
当時、貧乏学生だった僕達の間で車を持っている人間など珍しく、
免許を持っている野口がそれに目をつけてウズウズしだしました。
当時、僕は免許を持っていませんでした。

野口が福島訛りの独特な口調で島本に声を掛けました。
「潤平とドライブしてくるから車貸してくれよ」
僕は当然、島本が断るものだと思いましたが、その前の局で
ホンイツ小三元ドラドラという親ッパネを上がった島本は
思いのほか機嫌が良く、「大事に乗れよな」と一言いっただけで、
案に反してあっさり車を貸してくれました。

下宿の外に出て、小さな蛾の舞う蒸し暑い夜空の下、
野口がハンドルを握り、免許を持っていない僕は当然助手席に
座り込んで、真夜中のドライブはスタートしました。

行くあてなどありませんでしたが、取りあえず平塚から湘南方面に出て、
夜の海を眺めながら、国道134号線を走り葉山を目指す事にしました。
野口は実家の福島に父から譲られた車を持っており、運転はまずまず上手でした。
何より毎日が博打三昧だった僕と野中は、たとえ男同士であるにしろ
ドライブというその行為自体が妙に楽しくて、ふたりとも上機嫌で
下らないバカ話をしては車の中で笑い転げていました。

途中、人気のない鎌倉に寄り道し、葉山の海岸沿いには
深夜の2時頃到着しました。
8年落ちの青のブルーバードSSSは思いのほかエンジンも快調で、
普段、島本がいかに丁寧に愛車に手入れをしているかが計り知れました。

やがて車は右に夜の黒い海面を見て、ひとつの小さなトンネルに差し掛かりました。
先行車も対向車もなく深夜の海岸線は異様なほど静かで、
僕と野口を乗せたブルーバードのタイヤが路面を駆る音と、
ラジオから流れるくだらない深夜放送のお笑い系男性パーソナリティの
声だけが車内に響いていました。

すべるように車はトンネルの中に吸い込まれていきました。

当時のトンネルは今のように隋道内にアンテナが張られていることもなく
当然、ラジオから聞こえてきていたお笑い系パーソナリティの声も
すぐにザ〜〜〜ッという雑音に掻き消されました。

その時、ハンドルを握っていた野口が怪訝そうな顔をして僕の顔を見ました。

「あのさあ。今トンネルに入る時に、トンネルの上に人が立っていなかったか?」

実をいうと僕もチラッと、トンネルの入り口の上に「何か」が
見えたような気がしたのですが、もともと普段から
ボケッとしていることが多いので、その「何か」が「何」だったのか
解らなかったのです。

「ひと??」
僕は聞き返しました。

「ああ、確かに立ってた。ワンピースみたいな服を着た女の人だった」
「こんな夜中だぜ。木か何かを見間違えたんじゃないの?」
「いやっ、確かに女だった・・・。だけどおかしいんだよな・・・。」
「そりゃ、こんな夜中に、しかもトンネルの上に人が立っていたらおかしいよ」
「そうじゃないよ。その女だけどな。頭の上にアンテナが立ってたんだよ」
「頭の上にアンテナ・・・?」
「ああ、なんか頭のテッペンから白い真っ直ぐなアンテナがピンと立ってたんだ」
「おまえ、馬鹿じゃないの?」

僕はその姿を想像して思わず笑ってしまいました。

「居眠り運転して事故らないでくれよなあ」

野口は尚も何かを言い続けようとしましたが、僕にそう言われて
黙ってしまいました。

その時、突然、ザ〜〜〜ッというラジオの雑音の中に
微かに聞き取りにくい声が混ざったのです。

それは女性の声でした。

「そ・・では・・・おたよ・を・・かい・・します」

その声は次第にはっきりしてきて、やがて鮮明にラジオから
流れ始めました。
鈴の鳴るような綺麗な女性の声でした。

「鎌倉のSさんからのお便りです・・・」

それは聴視者からの手紙による相談に、その女性パーソナリティが
答えるというような類の番組のようでした。
「なんでこんな番組が流れるんだ?」
野口がハンドルを握り、前を見据えたまま言いました。
「トンネルの中だぜ?」

それとは別に僕も疑問に思っていたことを思いきって口に出してみました。
「ここのトンネルって・・・こんなに長かったっけ・・・?」
「解ってるよ!」野口が怒ったような口調で答えました。
「おんなじところを回ってるみたいだ・・・」

「・・・・・・・」

僕が感じていたことを野口がそのまま口にしたので、
恐ろしくて僕はそれに対して答えることが出来ませんでした。

今入っているトンネルは以前にも何度か通ったことがあり、
確か百メートルにも満たないはずなのです。

ラジオの声は流れ続けています。

それは若い女性聴視者が学校での人間関係に悩んでいるというような
内容の手紙でした。
手紙の内容を紹介し終わり、しばらくラジオから沈黙が流れました。

「そういう時はね・・・」

綺麗だけれど、何処か弱々しい女性の声がラジオから聞こえてきました。
そして聞き取りにくいほど小さな声で、彼女はこう言ったのです。


「死ねば・・いい・・のよ・・・」

僕も野口も何時の間にかラジオに聞き入っていました。
まるでその声に吸い込まれるように・・・。

野口はフロントガラスの前を見据えたまま、僕はラジオを凝視したまま・・・。

さっきより押し殺したような低い声が、
ラジオから、今度ははっきりと聞こえてきました。

「死ねばいいのよ・・・」

「おい!ラジオおかしいぞ!切れ!」
思い出したように野口が叫びました。

僕は突然スイッチの入ったロボットのように、
慌てて助手席から身を乗り出し、ラジオのスイッチを切りました。

しかし・・・

・・・切れないのです。

いくらスイッチを押してもラジオの声が切れないのです。

「死ねばいいのよ死ねばいいのよ!」

ラジオから女性の声が聞こえ続けます。

「切れねーよ!!」

「切れ!切れ!」

「切れねぇってーー!!」

僕も野口もパニックです。

やがて女性の声は狂ったようにヒステリックになり、
まるで呪文のように際限なく繰り返されはじめました。

「死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねば死ねば死ねばぃぃぃぃぃ!」

「わぁぁぁぁぁ!!切れ切れ切れ切れ!!」
野口がハンドルを握ったまま狂ったように叫びます。

ラジオのチューナーを叩きました。足でガンガン蹴りました。

「死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ
死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ね
ばぁぁぁぁぁぁぁ」

助手席の下に手を入れると平たい工具入れが指の先に触りました。
震える手でフタを開け、中にあったスパナを必死になって右手に持ちました。

「わあぁぁぁぁぁぁぁ!!」

戸惑う間もなく僕は訳のわからない悲鳴を上げながら、
狂ったようにスパナでラジオを叩きました。

「壊せ!壊せ!壊せ!」

「わあぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ
死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねば死ねば死ねばぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

その声はすでにラジオから聞こえているというよりも、
車の中にその女性が存在していて車内で僕と野口に向かって
わめき散らしているように響き渡っていました。

僕はスパナを振るい続けました。

ガ〜〜〜ン!!ガ〜〜〜ン!!ガ〜〜〜ン!!

「死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ
死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねばいいのよ死ねば
いぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

ガ〜〜〜ン!!ガ〜〜〜ン!!ガ〜〜〜ン!!

「死ねばいいのよ死ねばいぃぃ・・ガッ・・いの・よ・・ビッ・・死ねば・・
のよ・・死ね・・・」

バチッという音がして、突然ラジオの声が消えました。

その瞬間、バ〜〜ン!!という物凄い音がフロント・ガラスで鳴り、
まるで壁を突き破ったように車はトンネルの外に飛び出しました。

僕も野口も車に乗ったまま、何も喋ることが出来ませんでした。

野口はまるで石膏のように固まって前を向いたまま、
血走った目でただただアクセルを踏みつづけました。
ハンドルを握る手が小刻みに震えていました。

僕はといえば、スパナを握った右手の指が恐怖のあまり硬直してしまい、
指からスパナを離すことが出来なくなっていました。

下宿に着くまで、僕と野口は一言も口をききませんでした。
押し黙ったまま下宿に辿り着いた時、夜はすでに明けていました。

何時まで経っても帰ってこない二人を心配して、
下宿にいた4人がエンジン音を聞いて外に飛び出してきました。
島本が運転席から僕達を覗きこみ「バカ野郎!事故ったのかと思ったぞ!」と
怒鳴りました。
そして、二人のただならない様子に気付き「何かあったのか?」と
怪訝そうな顔で聞きました。
野口が自分達が体験した異様な出来事を、ポツリポツリと話しました。

話を聞いていた島本が愛車のラジオを見て顔色を変えて怒鳴りました。
「おまえら!ラジオぶっ壊して、その言い訳にくだらなねぇ嘘ついてんだろう!」
「ほんとだよ!」僕が言いました。
「なんでもいいから弁償しろよな!」
島本は吐き捨てるようにそう言うと、下宿の中に戻ってしまいました。
残った3人も僕と野口の顔を怪訝そうに交互に見比べていましたが、
やがて黙って下宿に入っていきました。
僕と野口は結局、平塚競輪場で場内整備のバイトを見つけ、
島本の車内ラジオを修理することになりました。

その日、僕達6人は凝りもせずに滝山の下宿に泊まり続け、
脂ぎった顔で翌朝を迎えました。
ダレた格好で思い思いにみんなが6畳の狭い部屋でゴロゴロしている翌朝、
滝山が下宿の大家さんのポストから勝手に抜き取ってきた朝刊を
畳の上に広げ、尻を掻きながらそれをのんびりと読んでいました。

僕はそんな光景を、寝そべったままタバコを咥えて眺めていました。

すると滝山の尻を掻く手が急に止まりました。

そして、上目づかいになって野口と僕の顔を交互に見比べ、
自分の読んでいた新聞を指差して、ぼそりと言いました。

「おまえらが昨日言っていたのは、嘘じゃねぇのかもな・・・」

思い思いにダラけていたみんなが一斉に身体を起こし、
滝山が広げている新聞の周りに集まりました。

滝山が指差す新聞の小さな囲み記事にはこう書いてありました。



葉山県道トンネル入口に女性の自殺体

昨日 午前8時頃、県道××線Hトンネルの入口上雑木林で
女性が首を吊っているのを車で通りかかったY.Kさん(45)が
見つけ葉山署に届出た。
警察で調べた結果、この女性はK放送局の女性アナウンサーN.Kさん(28)で
トンネル入り口の雑木林に白いロープを吊るし、それに首を吊る状態で
すでに死亡していた。N.Kさんは3日前から行方がわからず、家族から
捜索願いが出されていた。現場の状況から警察は自殺として・・・


その後、島本は車を廃車にしました。


誰に話しても恐らく信じてもらえないであろう、
遠い昔、学生時代の不思議な夏の体験談です。





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