学生時代、友人が所属していたT大学山岳部に、代々伝わるという話である。

ある年の三月、T大学山岳部は新人三人を連れて、東北のY岳で冬山訓練を行った。
三月といえば、平野ではそろそろ新芽も顔を出し、春の息吹が聞こえ始める季節だが、
高山はいまだ深い雪の世界である。

メンバーは新人が三人、リーダーと副リーダーの三年生が二人。
合計五名の雪山山行だった。
先頭に副リーダーが立って、膝まで埋まる雪をラッセルし、
真中に新人の三人を挟んでリーダーが隊列の最後尾についた。
新人三人も高校時代から山に通っており、高山ではないが冬山も経験していたので、
快調なテンポで五人は雪の尾根を登った。
ところが五合目を過ぎた辺りから灰色の雲が空を覆い始め、六合目を過ぎて雪が舞い始めた。
天気はなおも下るという予報もあったため、パーティは小休止を取り、先に進むかあるいは撤退するか、
リーダーと副リーダーがミーティングを行ったが、結局リーダーの判断でこのまま山頂を目指す事になった。
しかし、この後、雪は本降りとなり、八合目を過ぎた頃には猛烈な風も加わり始めて横殴りの吹雪になり、
一歩前に進むことも困難な状態に陥ってしまった。
前を歩く部員の姿も確認出来ないようなホワイトアウトに近い状態の中で、
リーダーは山頂を目指す決断をしたことに後悔しながらも、前を歩く新人たちに懸命に声を掛けながら前進を続け、
周りが暗くなり始めた午後の四時過ぎに何とかY岳の肩にある非難小屋に辿り着いた。
雪に埋まった扉を懸命にこじ開け、先頭を歩いていた副リーダーが雪崩込むように非難小屋の中に飛び込む。
わずかに遅れてふたり目… そして三人目…。
さらに五分ほどして、最後尾を歩いていたリーダーが、全身雪まみれになってが非難小屋に入ってきた。
「あれ? 小泉はどうした? 」
副リーダーが荒い息を吐きながら、防寒着の雪を払っているリーダーに聞いた。
「なに? やつは来ていないのか!? 」
副リーダーの顔を見返して、雪を払っていたリーダーの手が止った。
隊列の四番目、つまりリーダーの前を歩いていたはずの新人の小泉がまだ小屋に着いていないだ。
「ちくしょう!はぐれたか!? 」
そう叫ぶと、リーダーは座る間もなく再びピッケルを手にして小屋を飛び出した。
「俺もいくよ! 」
副リーダーが後を追おうとして腰を上げた。
「おまえは新人達の面倒をたのむ。なあに。ここに着くほんの十分くらい前に後ろから声を掛けて、
前に小泉がいる事を確認しているんだ。すぐに見つかるさ」
そう言って副リーダーを非難小屋に戻し、リーダーは目を開けるのも辛くなるような猛吹雪の中に姿を消した。
非難小屋に残った三人が一言も声を出す事もなく固唾を飲んでいると、
二十分程して小屋の入り口でドーンという大きな音がしていきなり扉が開き、
吹雪といっしょに白い塊が非難小屋の中に転がり込んできた。
それは新人の小泉だった。肩で荒い息をし、それでも自力で立ち上がり
「すみません。途中で道を逸れてしまったようです」と荒い息といっしょに吐き出すように副リーダーに言った。
小屋の中にホッとする空気が流れたが、それも一瞬のことだった。
「おまえ、リーダーに会わなかったのか?」
新人のひとりが小泉に聞いた。
「リーダーがどうかしたのか?」
小泉が聞き返す。
「さっき、おまえを探しに飛び出して行ったんだ」
「えっ!?」
ニ重遭難…。
四人の頭に不吉な言葉が浮んだ。
副リーダーと新人のひとりが装備を整えて、小屋の扉をこじ開ける。
ブワァァ〜〜〜ッ!
もの凄い勢いで風と雪が小屋の中に吹き込み、目を開ける事もできない状況だ。
何より小屋の外は、すでに日が落ちかけていた。
「くそう…」
副リーダーは歯を食いしばって小さく唸ると、ゆっくりと小屋の扉を閉めた。



けっきょく、それきりリーダーは戻って来なかった。
県警、山岳部OBも加わって懸命に捜査を続けたにもかかわらず、
山に緑が戻り、山道にフキノトウが顔を出すころになっても、リーダーの遺体は見つからなかった。
特に非難小屋の肩から西に切れ込むK沢は入念に捜索されたが、
遺体はおろかその痕跡すら見つけることが出来なかったのである。

捜査が打ち切りになった翌年の三月、同じY岳でリーダーの追悼山行が計画された。
その年の冬は例年に比べ雪は多かったものの、天候は比較的安定していた。
その日も、見上げれば空は真っ青の快晴で、昨年のメンバー四人を含めた総勢八名のT大学山岳部員たちは
隊列を乱すこともなく、時間通り、昨年事故があった避難小屋に登り着いた。
登頂は明日果たす事とし、その日は避難小屋の中でリーダーの思い出話に、部員それぞれが花を咲かせた。

冬の山に夜の帳が下り、そろそろ寝ようかと部員達が目をこすり始めた午後の十時過ぎ、
非難小屋の外の様子が突然変わりはじめた。
風が非難小屋の板壁を叩きはじめ、その中に雪も混じリ始めたようだ。
「おかしいなあ。天気図を見ても今日明日、天候は崩れないはずなんだが」
そう言って立ち上がったひとりが、小屋の扉を薄く開けて叫び声を上げた。
「うわぁ!完全に吹雪いているよ」
慌てて扉を閉める。
「これは、明日は上まで登れないかもしれないな」
つぶやきながら白い息を吐き、ランタンを囲む車座の中に戻って来る。

その時…。

車座の中で酒を飲んでいたひとりがぽつりと言った。
「おい…。誰かこっちにくるぞ…」
今まで賑やかに語り合っていた部員達が口を閉ざし、いっせいに非難小屋の扉を見た。
すると…。

聞こえてくるのだ。
吹雪の音に混ざって、雪を踏みしめる山靴の音が…。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…

夜の十時過ぎだ…。こんな時間に冬山に登ってくる奴などいるわけがない。
しかしその靴音はだんだんと大きくなり、そして小屋の前で止まったのである。
八人は声を出す事も出来ず、ただただ非難小屋の扉を見つめ続けた。
しばらく小屋の外は吹雪の音だけになった。

そしてまた聞こえ始めたのだ。山靴の音が。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…

山靴が雪を踏みしめる音が、やがて非難小屋の周りを回り始めた。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…

八人は肩を抱き合って非難小屋の真中に固まり、ただただ、その足音を耳と目で追いかけた。
非難小屋の中の空気が凍りつき、八人の歯のなる音が小屋の中に響く。
部員たちの吐く息が白い。

「…は…かあ…」

「おい…」八人のうちのひとりが震える声でつぶやいた。「何か言っているぞ…」
耳をすますと、雪を踏みしめ、小屋の周りを回り続ける山靴の音と、板壁を叩く吹雪の音に混じって、
微かに男の声が聞こえるではないか。

「…は…いるかあ…」
何かを叫びながら、山靴の音が小屋の周りを歩き続ける。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…

「おい…」昨年、副リーダーだった四年生が、周りの部員の顔を覗きこみながら言った。
「あれって…リーダーの声じゃないのか?」

「小…泉は…いるか…あ…」

八人の耳に、今度ははっきりとその声が聞こえた。
それは昨年、この避難小屋に辿り着く直前に逸れた新人の小泉を探しに飛び出したまま、
冬のY岳に消えたリーダーの声だったのだ。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…

「小泉は…いるか…あ!」

小屋の周りを回りながら、リーダーの声が吹雪の音に混じって叫んでいる。
そのうち、肩を抱き合う八人の中で、握り拳を作って懸命になにかに耐えていた小泉が、
堪え切れなくなって非難小屋の外に向かって叫んだ。
「僕は無事です! ありがとうございましたあ!」
その途端、小屋の外を回っていた山靴の音がピタリと止った。
そして、しばらく吹雪の音だけになったと思うと、
非難小屋の外の山靴の音はまたゆっくりと雪を踏みしめて歩き始め、
それは少しずつ小さくなっていき、やがて山の中へと消えて行った…。
しばらく呆然としていた八人は、やがて我に返り、
山靴の音が消えていった非難小屋の外に向かって無言のまま深く頭を下げ続けた。



昨年あれほど、捜索したにもかかわらず、その痕跡すら見つける事が出来なかったK沢上流で、
リーダーの遺体が発見されたのは雪がまだ残る五月の初めのことだった。
その遺体には不思議なほど傷みがなく、まるで何かに安心したかのように安らかな顔をしていたそうである。





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