山麓の宿にて


曼珠沙華が禍々しい真紅の花弁をいっせいに開花させた九月の中頃、
横浜の居酒屋で久しぶりに会った、山の先輩から聞いた不思議な話です。


「おまえ、H尾根に行ってきたらしいな。天気はどうだった?」
今は、神奈川県の桜木町で、制御システムの設計に携わっているという先輩が、
杯に注いだ日本酒に目じりを下げながら僕に言いました。

「前日はひどい雨だったんだけどね。登り始めたら太陽が顔を出して、
いい天気になりましたよ。
H尾根を経てK岳の山頂に立った時には、三百六十度のパノラマが広がりました」
強い日差しの下、風に揺れる高山植物を眺めながら登ったH尾根の情景を思い出しながら、
僕は続けました。「それにしてもH尾根は相変わらずケルンが多いですね」
「あの尾根は、夏になればH池までならば、観光客も手軽に歩けるハイキングコースだが、
冬になって尾根道が雪に埋もれると、やたらに広い雪の平原に姿を変える、
二重山稜という特殊な地形の山だからな。厳冬期に吹雪かれてホワイトアウトになると、
夏ならば何でこんな所で、と思うような場所で、遭難事故が起きたりするんだ」

小石を積み上げたケルンの多くは、山の道標の役割を果たしているのですが、
H尾根に点在する数多くのケルンの中には、遭難者の慰霊碑としての
意味を持つものも実はかなりあるのです。

「そういえば、昔、当時の山仲間とふたりで、H尾根からK岳を往復した時に、
山麓の宿で不思議な体験をしたことがあったよ」

杯を口に運びながら、遠くを見るような目をして、先輩が静かに話し始めました…。



もう二十年くらい前だったかなあ、とにかく彼岸の時期だったことだけは覚えている。
当時、山仲間だった安西という男と初秋のH尾根をK岳目指して登ったんだ。
気圧が安定していてな。見事に青空が広がって、素晴らしい山行になった。
白馬三山を水面に映すH池が綺麗だった。
当時は今よりも水面がもっと澄んでいたんだよ。
幾つものケルンを見ながら樹林帯に入り、幾つかのピークを越えて、
K岳の山頂に立ったのは、午前中のまだ早い時間だった。
真正面に聳えるT岳がそれは凄い迫力だった。
計画では、山頂直下に建つK山荘で一泊するつもりだったんだけどな。
快調なペースで山頂に着いてしまったこともあって、予定を変更して、
山荘には泊まらず、そのまま下山して信濃大町辺りに宿を取って、
温泉に入りながら旨い地酒でもいただこうじゃないかってことで話が盛り上がってな。
けっきょくピストンで山を下りたんだ。

天気は良いし風も爽やかで、ふたりで高山植物の写真を撮りながらのんびり下りたんだが、
ハイマツの茂る稜線から見下ろすのびやかな尾根道の途中にぽつんぽつんと建つ、
あの大小のケルンの姿には、独特の世界を感じるよな。
高山植物が咲き乱れ、雄大な白馬三山を仰ぎ見る明るい尾根道だけに、
無機質で、それでいてそれぞれにそこに存在する理由を持つケルンの存在が、
なおさら目立つんだ。
マツムシ草の群生が北アルプスの風に揺れる、小ピークの広い平原で小休止を取ったんだが、
腰を下ろした時に、K岳に向かって建つ小さなケルンの一端をうっかり崩してしまってな。
慌てて小石を積みなおしたんだが、なんだか後ろめたい気持ちになったよ。
ケルンの傍では、あまり休憩するものじゃないな。

昼過ぎに下山口の白馬駅に着き、駅前からバスに揺られて、
信濃大町まで南下して温泉郷で宿を取ったんだ。

当時としてはけっこう立派な宿でな。
快晴の北アルプスをピストンしてきた開放感もあって、
男ふたりで気が大きくなったんだな。
ずいぶん奮発してしまったよ。
あてがわれた「黒部」と名のついた部屋で浴衣に着替えてから、
肩に手ぬぐいを掛けて二人でさっそく風呂に向かった。
檜の風呂が気持ちよかった。手足を思い切り伸ばしてな。
今日登ったH尾根の話をしながら、のんびり温泉に浸かり、
渡り廊下を歩いて部屋に戻った。
入り口が格子戸になっていて、それを開けると狭い下足場があって、
その奥に、部屋に入るための襖の引き戸がもうひとつある、
洒落た造りの部屋だ。

「食事の時間になる前に、部屋で風呂上りの一杯といくか」
俺の前を歩いていた安西が、気楽なことを言いながら格子戸を開けたんだが、
そこで立ち止まったまま首を傾げている。

「ここ、俺達の部屋だよなあ?」振り向いて、安西が俺に言うんだ。
不思議に思って、後ろから安西の視線の先を覗きこんだ。
すると、格子戸の先の狭い下足場に、宿のスリッパが一足、
綺麗に並んでいるんだ。
部屋の入り口を見ると、確かに「黒部」と表札が下がっている。
俺達が取った部屋だ。
俺も安西もスリッパを履いているから、下足場にスリッパが残っているのは
おかしいな話なんだよな。

「おまえ、もしかしてスリッパを引っ掛けずに、裸足のまま風呂に行き、
風呂で新しいスリッパを履いて帰ってきちゃったんじゃないのか?」
安西は、山男の癖に案外抜けたところがある男だったからな。
俺は後ろから安西の頭を小突いて、そう言って笑ったよ。
「そうかなあ…」
安西も自信がなかったんだろうな。首を傾げてぶつぶつ言いながらも、
自分が風呂から履いてきたスリッパを脱いで、部屋に繋がる引き戸を開けた。

もちろん、部屋には誰もいない。

俺も続いてスリッパを脱いで部屋に入る。
狭い下足場にスリッパが三足並んだ。
部屋の座椅子に座って足を投げ出し、大きな窓を開け放って、風呂上りのビールを楽しみ、
ちょうどいい心持ちになったところへ、仲居さんが声を掛けに来て、食堂に案内された。
部屋を出る時、ふたりともスリッパを履き、残った一足のスリッパを宿の玄関に返すつもりで、
安西が手に持った。

これで下足場にスリッパがなくなった。

食堂でまたビールを飲みながら、旨い郷土料理に舌鼓を打って、
宿の売店で、地酒とつまみを買い込んで部屋に戻る。
今度は俺が先に立って、格子戸を開けた。

すると……。

あるんだよ。

下足場にスリッパが。

狭い下足場に、一足のスリッパが、きちんと揃えて置いてある。
ふたりで顔を見合わせながら、さすがに気味が悪くなって、
そろりそろりと引き戸を開ける。
部屋の中には誰もいない。
俺達が、部屋を出た時のままになっている。
人が入った気配もない。

「誰かが悪戯しているんじゃないのか?」安西が首を傾げながら言う。
「わざわざ、スリッパだけ置いていくのかい?そんなことするヤツいるかなあ」
「気味が悪いから、部屋を変えてもらうか」
「仮にも山男の俺達が、部屋の前に見知らぬスリッパが置いてあるから部屋を代えてくれなんて、
みっともなくて言えないよ」
「そりゃそうだ」
ふたりで、顔を見合わせて笑い、部屋に入って腰を据えて飲みなおし始めたんだ。
若かったからな。ピッチが上がってずいぶん飲んだよ。ふたりとも赤い顔をして、
山の話で盛り上がった。
何時の間にか午前零時を過ぎてしまって、いい加減横になるかってことになった時に、
安西がぽつりと言った。

「あのスリッパ…。まだあるはずだよな…」
実は俺も、楽しい酒を飲みながらも、下足場のスリッパのことが頭のどこかに引っかかってたんだ。
ふたりで部屋の入り口に行き、引き戸を開けてみた。
狭い下足場に、スリッパが三足並んでいる。
俺のスリッパと、安西のスリッパ、そして持ち主不明のスリッパだ。
「おれ、ちょっと、このスリッパを玄関に置いてくるよ。
お前は、ここで引き戸を開けたまま下足場を見ていてくれ」
そう言うと安西は、自分のスリッパを履き、横に並んでいたスリッパを、
一足手に持って部屋を出て行った。下足場には、スリッパが一足だけ残っている。
わずかな時間で戻ってきた安西が、俺の目の前でスリッパを脱ぎ、部屋に入る。

下足場にスリッパが二足並んだ。

「気味が悪いし、今日は、このまま引き戸を閉めずに眠ろうじゃないか」安西が提案する。
当時は今ほど、物騒な世の中じゃなかったしな。
俺達は、引き戸を開けたまま部屋に布団を敷き、灯りを消して横になったんだ。
酒が回っていたから、あっという間に眠ってしまったようだ。

どのくらい眠ったのか。
ずいぶん長いような気もするし、眠ってすぐのような気もする。

とにかく俺は、部屋の中に何か気配のようなものを感じて目を覚ました。
部屋の中は暗い。夜は明けていないようだ。
部屋の窓の方に何か、人の気配を感じて、俺は半分眠ったような状態のまま、
枕の上で頭を傾け、窓の方を見た。

窓際には狭い板の間がついていて、そこに籐で出来た小さなテーブルセットが置いてある。

その籐の椅子に…。

誰かが座っているんだ。

カーテンを閉めていない大きな窓から差し込む月明かりに照らされて、
逆光になった男のシルエットが籐の椅子に静かに座っている。

安西のやつ、眠れないのかな…。
俺はそのシルエットを安西だと思ったんだよ。
ぼんやりしながら寝返りを打って、俺よりも部屋の入り口側に敷かれていたはずの安西の布団を見た。

その途端、全身に鳥肌が立ったよ。
布団には安西がちゃんと横になっているんだ。
寝息も聞こえる。
じゃあ、窓際の椅子に座っているあの男はいったい誰なんだ。
ゆっくりもう一度、窓の方を見る。

座っているんだ。男が。

シルエットになっている男が、手に何かを持っている。
その手にしたものが、月明かりに反射して一瞬キラリと光った。

ピッケルだ。

手にピッケルを持った男が、窓際の椅子に座っているんだよ。
どっと冷や汗が出て、布団を跳ね除けた。
慌てて飛び起き、安西の布団を飛び越して、入り口の壁にある、部屋の灯りのスイッチを点けた。
振り返って見た、窓際の籐の椅子には…誰もいないんだよ。
いま見たはずの男の姿がない。
その途端、布団で寝ていた安西が、バネ人形のように跳ね起きたんだ。
目を見開いて、荒い息をしている。

「変な夢を見た…」寝起きとは思えないようなしっかりした目で俺を見て言うんだ。
俺も言い返した。
「おれは、夢じゃない。たった今、月明かりの中で、あそこの椅子に座っている男の姿を見たんだ」
「えっ! 」安西が頓狂な声を上げた。「もしかして、その男…。ピッケルを持っていなかったか?」
「……」

信じられないことに、安西は、たったいま俺が見た光景を、そっくりそのまま夢の中で見ていたんだ。
俺と安西は、顔を見合わせ、思い出したように、恐る恐る下足場の方を覗いてみた。

あったんだよ…。

スリッパが三足…。

まんじりともしない一夜を過ごした俺達は、朝飯も喉を通らないまま、早々に宿代を清算し、
玄関で山靴に足を入れた。

この宿には、何かがいる…。

口には出さなかったが、ふたりともそう思っていたよ。

山靴の紐を結びなおし、腰を上げて宿を出ようとした時だ。
俺は、自分の履いている右の山靴の底に、何か違和感を覚えたんだ。
すでに立ち上がっている安西を待たせて、俺は玄関に腰を下ろし直し、
今結んだ紐を緩めて、山靴の底を覗いてみた。
すると、靴底の土踏まずの凹んだ部分に、石が挟まっているのを見つけたんだ。
平たくてけっこう大きな石だ。

何故、こんな石が挟まっていて気がつかなかったんだろう…。

その様子を傍で見ていた安西がぽつりと言った。
「もしかして、その石…。昨日、H尾根のケルンで一服した時に挟まったんじゃないのか?」
「ケルン? 」
「小ピークのケルンの横で休んだ時に、お前、よろめいてケルンを少し崩したじゃないか。
お前の靴底に挟まっているのは、その時に崩れた石のひとつなんじゃないのか?」
「そういえば、あのケルンは…確か厳冬期に単独で遭難した…登山者の…」

だとすれば、この宿に何かがいるんじゃない。

俺達が連れてきたんだ!

俺と安西は、その日の予定を変更して、靴底に挟まっていた石と酒を携えてH尾根を登り返し、
昨日、下山途中に休憩したケルンの上にその石を戻して、その上から酒を注いだんだ。
それ以来、俺や安西の周りで、不思議なことはまったく起こっていないんだよ。


話し終えた先輩が、僕の杯に酒を注ぎながら言いました。
「お前も家に帰ったら、H尾根を登った時に履いた山靴の底を確認した方がいいぞ」

「ふふん」と笑った僕ですが、杯を傾けた僕の右腕には、
見た目にもはっきりとわかるほどの鳥肌が立っていたのでした。







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