鏡


厳冬期のH岳で消息を絶った大学時代の先輩の捜索を終えて、
松本から特急電車で東京へ戻る車中での話である。

先輩は単独で上高地からT岳に取り付き、そのままH岳を越えてN岳まで縦走し、
新穂高温泉に下山する予定になっていた。

しかし、M平でテントを撤収して、T岳に向かった姿を別の登山者に目撃されて以来消息が絶え、
下山予定日を二日過ぎても新穂高温泉に姿を現さなかった。
この時期、北アルプスの天候は比較的安定しており、気温こそ低かったが、青空が広がる日も多く、
悪天による停滞は考え辛い状況だった。

すぐに、家族からの捜索依頼を受け、現地の山岳救助隊が動いた。
同時に大学時代の岳友、OB達も上高地に入り、山岳救助隊と連携を取って捜索を開始した。
しかし、五日経っても先輩の消息は、ようとして知れなかった。
六日目の朝から天候が荒れ始め、ヘリコプターを使った空からの操作が出来なくなり、
また天気図を見る限り、この日を境に北アルプスは大荒れになることが予想された。
このままでは二重遭難の危険もある。
先輩が書き残した登山計画表によれば、食料は四日前にすでに尽きているはずだった。
山岳救助隊は、生きた状態での救出は不可能と判断し、捜索活動を断念した。
岳友達は、救助隊が去ってからも、さらに数日現地に留まりがんばったが、
やはり先輩の足取りはつかめなかった。
「春になり雪解けの時期を迎えたら、もう一度探しに来よう」
というOB達の提案に皆が黙って頷き、
岳友達は、後ろ髪を引かれる思いで、冬の上高地を後にした。

「先輩は、H岳までたどり着いたのかなあ」
特急電車の車窓から、純白に輝くK駒ヶ岳を眺めながら、杉本がぽつりと言った。
「天気も安定していたしな。先輩ならば問題なかっただろう。
俺はその先のG峰辺りで事故にあったんじゃないかと睨んでいるんだ」
タバコに火をつけながら、滝川が答える。
「先輩の技量ならば、G峰辺りで滑落するとは思えんがな」
「事故なんてものは、技量や場所には関係ないさ。
千メートルに満たない山で一メートル滑落しただけで死ぬことだったあるんだ」
私はふたりの会話をぼんやりと聞きながら、快活だった先輩の笑顔を思い出していた。
「それにしても、先輩は何故、M平にテントを張ったんだろうな。
T岳に取り付くのならM平の先のT沢に幕営した方が、翌日の行動が楽だったろうに」
「俺もそのことが少し気になっていたんだ。先輩はM平のテント場を嫌っていたしな」
滝川が投げかけた疑問に、初めて私は口を開いた。
そう。先輩はM平のテント場を嫌っていたのだ。
「それは初耳だな。確かにあそこはバスターミナルから距離もないし、河童橋から近いから、
登山客以外のハイカーも幕営して賑やかだが、明るくて良いテント場じゃないか。
ましてや、冬のM平だぜ。賑やかなハイカーもいないし、かえって快適だと思うがな」
滝川が私の顔を覗き込んで言う。

「昔、飲んでいる席で、先輩が突然、変な話をしたんだ」
「変な話? 」
「ああ。冬のM平に幕営した時は、あそこのトイレは絶対に使わない方がいいぞって言うんだよ」
「M平のトイレって、冬季用に開放されている、テント場の中間にある、あのトイレのことかい? 」
「そうなんだ。もしも冬に上高地に入ったら、あのトイレは使わないほうがいいって言うんだよ」
「そういえば、昔、悪天に見舞われた冬のH岳から、瀕死の状態で降りてきた登山者が、
あのトイレで暖を取ろうとして力尽きたって話を聞いたことがあるな。
まさか冬にあのトイレを使うと何かが出るとか? 」
「俺もまったく同じことを先輩に聞いたよ。でも先輩はこう言ったんだ。トイレじゃないよ。
トイレの入口に掛っている鏡に問題があるんだってね」
「鏡に何か映るのか? 」
「いや…映らないよ。そう…。映らないんだ…。あの時、そう言ってから先輩は、
コップ酒をひと口だけ飲んでから、俺に語り始めたんだよ…」

M岳の冬季に開放されるトイレの手洗い所。もちろん冬は水なんか出やしないんだが、
その手洗い所の壁に小さな鏡が建て付けてある。
あの鏡にはいわくがあるんだ。
おまえはさっき、鏡に何かが映るのかって言ったよな。
そうじゃない。映らないんだよ。
ある年の冬、大学は違うが山で知り合って以来、俺と仲の良かった大久保という、
H大学の山岳部に属していた男が、同じ山岳部の村越という男と厳冬期のM沢岳を狙って上高地に入ったんだ。
天気図と睨めっこした甲斐があったらしく、一月の北アルプスにしては珍しいほどの青空が広がっていたそうだ。
大久保達は、ヘッデンで足元を照らしながら、あの薄暗くて急勾配の釜トンネルを抜けて、
帝国ホテルの脇を通って河童橋を越えた。
当時は、帝国ホテルの前が雪崩の巣になっていて、彼らが通過した時も大きなデブリが張り出していて、
通過するのにだいぶ苦労をしたらしい。
河童橋から、梓川沿いに入ってM平のテント場についたのが、午後の三時頃だったそうだ。
この日の行動は、最初からM平までと決めていたから、時間的にもちょうど良かった。
担いできた日本酒で体を温めてから、早めに夕食を作って夕方六時には、
もうのんびりとテントの中でくつろいでいたらしい。

一月だからな。午後六時の上高地といえば、もう暗闇の世界だ。
その時、村越が、テントの中でごそごそし始めたと思ったら、ヘッデンを持って
テントのジッパーを下げて外に出ると、トイレに行ってくると言って、林の中に入っていった。
大久保は、「酒の飲みすぎだよ」などと相棒の悪口を言いながらタバコをふかしていたそうだ。
ところがしばらくして、その村越が血相を変えて、雪の上を走ってテントに戻ってきた。
何ごとかと思って大久保が村越をテントの中に招き入れると、彼は真っ青な顔でこう言ったんだ。

「首がない!」

こいつ何を酔っ払っているんだと大久保は思ったそうだ。
もともと村越はそんなに酒が強い方じゃなかったらしいしな。
ところが村越は、唇を震わせて話を続ける。

「用を済ませた後、トイレから出て入口の鏡を何気なく見たら、俺の首から上がないんだよ! 」
「いったいお前は何を言っているんだ? おまえの首はちゃんとついているぞ。
暗い中で見間違えたんだよ。飲みすぎだよ」
「俺だってそう思ったさ。でも、何度見直しても鏡に、俺の首から上が映らないんだよ! 」
「見間違いだって。気味の悪いこと言ってないで、いいから飲んで寝ちまえよ! 」
そう言って、大久保は村越のコッヘルに日本酒を注いで無理やり飲ませたそうだ。
とにかく早く寝かしつけちまおうと思ったんだな。
村越もそのうち落ち着いてきて、「そう言われてみれば、見間違いだったのかなあ」なんて言いながら、
あくびをし始めた。
その話は、それでしまいになって、その日はふたりとも高鼾で寝たそうだ。
翌朝は目がまぶしいほどの快晴だったそうだ。
膝上を越すラッセルに苦しんだが、それでも快調にJ岳を越え、そのままN岳までの縦走路に入ったのが
午前十一時だというから相当なペースだな。

どこまでも清んだ青空が、真っ白な縦走路を際立たせて、快適な山行になった。
運が良いことにほとんど風もない。
このペースで行けば、あと一時間もすればN岳を越せるだろうと、大久保が前を行く村越に目をやった時
信じられないことが起こったんだ。

それまで快調なペースでトップを行っていた村越が、細い馬の背でいきなり稜線を外れると、
東側の斜面の方にふらふらとよろめいたんだ。
そっちには雪庇が張り出している! 危ない!
声を掛ける間もなかったそうだ。村越は張り出していた雪庇を踏み抜き
「あっ! 」という声とともに東側の雪壁に落ちていったそうだ。
窮屈な体勢で村越が落ちた雪壁を覗き込んだが、彼の姿はまったく見えない。
しかし、険悪な白い垂壁の状態からみても、村越が絶望的な状況であることはすぐにわかった。
とにかく大久保は、すぐに無線で警察に連絡を取り、事故の状況を伝えた。
天候が良かったため、救助隊のヘリコプターがすぐに飛んで、奇跡的ともいえる早さで、
村越は稜線から二百メートル下の、岩が突き出た雪壁の途中で発見された。
何度か岩に打ち付けられて、壁から突き出した木に絡まって止まっていたそうだ。
もちろんすでに絶命していた。

しかしそれだけじゃない。

村越の遺体は、もっと悲惨なことになっていたんだよ。
岩に打ちつけられながら滑落した割には、村越の体はそれほど痛んでいなかったそうだ。
ただ一箇所を除いてね。
そう。ただ一箇所。
雪の断崖を二百メートル滑落し、木に絡んで息絶えた村越の体には、
首から上がなかったんだよ…。

その事故の後、M平の鏡の噂は一気に広まった。
しかし、何時の世にも豪気な奴はいるものだ。俺の当時の山仲間に神代という男がいてな。
M平の鏡の噂を聞いてこう言ったんだ。
「そいつは便利な鏡じゃないか。だってそうだろう。出発前にその鏡を覗いて、
自分の首から上が映らなかったらそれは警告と思って、山を下りればいいだからな。
逆にちゃんと姿が映れば山行は、予定通り完遂されるってわけさ」

その年の冬、神代は沢渡辺りに車をデポして、ひとり上高地に入った。M岳を狙ったそうだ。
ところが翌日、神代はきびすを返して上高地を下りたんだ。M岳に向かわずにね。
恐らく奴はM平のトイレの鏡を見たんじゃないかって、後々噂になったよ。
なぜ、本人に確認しなかったのかって?
確認しようがなかったんだよ。神代は死んでしまったんだ。
沢渡まで下り、デポしておいた車でS温泉に向かう林道で
車ごと谷に落ちて、あっけなく死んでしまった。
そして、車から放り出された形で、谷底から発見された神代の遺体には、
やはり首から上がなかったんだよ…。


「先輩から聞いた話はこれで終わりだ」
私は、すっかり静かになってしまった仲間の顔をひとしきり見渡してから、タバコに火を点けた。
「先輩はM平の鏡を見てしまったのかなあ」
杉本が車窓から、夕焼けに包まれ始めた南アルプスの峰々を眺めながらぽつりと言った。
「わからん。でもあれだけ、俺に見るなと言っていたんだからな」
私は、杉本の視線を追うように、山頂部を赤く染まる南アルプスに目を移した。


やがて春が過ぎ、北アルプスの沢が雪解けの清水でいっそう冷たくなった時期になっても
先輩の姿は発見されなかった。

今となっては、北アルプスに眠る先輩の体に、首から上がしっかりついていることを願うのみである。






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