自己紹介
安曇潤平(あずみじゅんぺい)
昭和33年10月15日東京大田区生まれ。2歳で横浜の片隅に引越し、以後、横浜で過ごしながら、数々の怪異を体験する。自分自身、霊感の存在自体を否定してるが、命を持つもの全てが太古の時代には持っていたであろう第六感を強く信じており、怪異を多く体験するのは、この第六感が退化していない人間であるとの自論を持っている。北アルプスを中心とした山登りを趣味としているが、実は人並み外れて病弱であり、3度の臨死体験を持つ。表の世界で山岳ホームページ「北アルプスの風」を主宰。山岳ホームページと銘打ちながら、実際は山そのものよりも下山後の酒と食の解説に執着している。これまでの山行で見聞きした山の摩訶不思議な話を集めた山岳実話怪談「山の霊異記」を、メディアファクトリー社「幽」に連載中。変な格好をしているが、別に軍人ではないし争いごとも嫌いである。


年譜と怪異体験
昭和33年10月 東京都大田区武蔵新田に長男として生まれる。この世に生まれ出て、呼吸を始めた瞬間を、何故かおぼろげに覚えてる。もちろん後から作られた記憶なのだろうが…。
昭和35年 横浜市旭区に転居。土地は鎌倉時代の古戦場跡であり、家のすぐ傍にあった、林に囲まれた大池と呼ばれる池には、鎌倉時代の悲運の武将、畠山重忠の伝説が今も残る。
昭和37年 4歳。トンボを捕りに行った夕暮れ。大池から突き出す小島の先で、刃の先を水面に浸す甲冑を着た武士の姿を見る。畠山重忠が戦の前に水溜りで刃を洗ったところ、その水溜りが大きくなって大池となったという、地元に伝わる伝説を知ったのは小学生になってからのことである。
昭和38年 幼稚園入園の前日、いよいよ明日から、幼稚園、小学校、高校、大学、そして社会人と、歳を取るまで、時間に縛られた生活が始まることを悲観して、縁側に座って一日泣き続ける。入園後、度重なる脱走で、けっきょく、幼稚園は半年で自主退学の形を取ることになった。

昭和39年 6歳。東京オリンピックにおける棒高跳び決勝の死闘に感動し、翌朝、自宅の庭で棒高跳びの真似事をしているうちに、竹竿を腹に突き刺し、瀕死の重傷を負う。

自分の呼吸回数が気になって呼吸が出来なくなる、瞬きの回数が気になって目を開けられなくなるといった奇癖を持つようになり、統合失調症気質を持ち合わせていると医師に診断される。

昭和40年 7歳。原因不明の頭痛と吐き気を発病。正常な状態で小学校に通えなくなり、通院、検査を繰り返すようになる。

8月、両親と横浜駅まで買い物に行く途中、最寄り駅で、まるでスズメバチの尻を半分に切ったような、黄色と黒の斑の小さなキャップを額や頬に付けた、異様な人の姿を大量に見る。しかし、その光景を訝しがる人々が両親を含めて誰もおらず、見えている自分がおかしいのかと子供心に思い、その光景を周りに聞いて確認することがどうしても出来なかった。

昭和41年 8歳。頭痛で小学校を休み、自宅で留守番中、黒服姿の郵便局員に似た男が訪ねてきて、「可哀想だねえ。お宅のお兄ちゃんはXXXXで、あと七日の命だよ」と告げられる。僕は妹と二人兄弟であり、「お宅のお兄ちゃん」は自分を指していることを知り、眠れぬ七日間を過ごす。7日目の夜、突然高熱を出すが、無事生き延びた。この時、熱にうなされる中で、廃屋の崩れ落ちそうな階段を登る自分と、階下の土間で、僕に背を向けて囲炉裏に炭をくべる、紅いチャンチャンコ姿の少女の夢を見る。
以来、今日まで、高熱が出ると必ずこの夢を見るようになる。少女は僕に背を向けているので、いまだに顔はわからない。彼女が振り見た時、僕がどうなるのかもわからない。

昭和42年 9歳。公園のブランコから飛び降りて転倒。起き上がろうとして頭を上げたところに、飛び降りた際に蹴ったブランコが戻ってきて、後頭部頭を強打。昏倒して脳波が狂う。大学病院の待合室にいる時間が益々増え、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズや、江戸川乱歩の少年向け推理小説を読み漁る。

昭和43年 10歳。頭痛の精密検査のために大学病院に通院する際、路面電車の中で王貞治似の男に手を握られて笑いかけられる。その男の手には、何故か親指が2本あった。
夏。カブトムシを捕りに近所の森に行く際、通りかかった高台の廃屋の庭で、今まで気がつかなかった古い墓の前で腰を下ろし、手を合わせる和服姿の女性の姿を見かける。森に行った帰り道、何気なく廃屋を見上げると墓はなく、庭に入ってみると、その場所には古い井戸があった。


昭和45年 12歳。頭痛がひどくなり、ほとんど小学校に通えなくなる。出席日数不足で職員会議にかかるが、何とか小学校留年を免れて卒業となる。

昭和47年 14歳。自宅新築のため、森に近い高台の古い借家に一時的に転居。その夜、初めて金縛りにあう。目を開けると、枕元で歯の抜けた老婆が笑っていた。1年後に新居に戻るまで、ほぼ毎晩、この老婆は枕元に現れたが、実害はまったく無かった。

夏。遊びに来た従兄弟を駅まで送り、振り返って見た駅ビルの上に、ブーメラン型の巨大なUFOを発見する。しかしこの時も、幼年期に見た、おかしなキャップを顔に付けた人達を見た時と同じように、周りの人間はその存在にまったく気付かず、見えている自分がおかしい気持ちになる。しかし、たとえそれがUFOでなく、たとえば駅ビルから上げられたアドバルーンだとしても、何人かは見上げる人はいるはずであり、誰ひとりその存在を意識しない状況は、いまだに不思議で仕方がない。

昭和49年 高校入学。筒井康隆のSF小説「霊長類南へ」に衝撃を受け、以後、筒井康隆の発表した全作品を読み漁る。「鍵」「母子像」「脱走と追跡のサンバ」「熊の木本線」に影響を受ける。同時にカフカやカミュにも傾倒し始める。一方で入学と同時に、落語研究同好会に入部するアンバランス振りだが、この頃より、頭痛の頻度が少しずつ減り始める。

趣味でSF小説を書き始め、同じ趣味の友人と「アバンギャルド」という同人誌を発行する。同人達とステレオマイクを使用してラジオCMまで作成し、高校の放送部を占拠して、昼休みに無理矢理そのCMを流し続けるという暴挙を犯し、教職員会議にかけられる。しかし、CMを聴いた生徒達の反響は意外に大きく、署名活動が展開されて何とか処分を免れる。暴挙ではあるが、この時作成したCMは、当時としてはかなり先鋭的でシュールであり、今でも本職のCMコピーとして通用するのではと勝手に自負している。この雑誌は4号まで続いた。同時期、個人として、ショートショート集「本末転倒」「奇妙奇天烈」を発行する。

教室、バス、電車等、仕切られた空間内の集団に入ると説明の出来ない意味不明の孤独感を覚えるようになり、以後、大人数での集まりに参加が出来なくなる。歳を取ると共にその感覚は薄れてきたが、現在でも同窓会、多人数のネット・オフ会等の参加には尻込みをする。

昭和50年 17歳7月。学校から家に帰ると、父方の長男の家にいるはずの祖父が、居間のベッドに腰を下ろしていた。何故か不思議な気持ちにはならず、僕は「ただいま」と声を掛け、祖父は無言のまま、優しく静かに笑みを浮かべた。その日、祖父は長男の家で、老衰により静かに息を引き取った。横浜に越してくるまで父の実家で育った僕は、祖父に大変可愛がられていた。

10月。高熱が6日続き、朦朧とした意識の中で突然身体が軽くなり、幽体離脱を初めて体験する。天井に張りついた自分が、蒲団の中で目を瞑る自分の身体に向かって「がんばれよ」と声を掛けた。

昭和52年 大学入学。同年夏、額左隅に皮膚癌を発病して入院。自分の胸の皮膚を頭に移植して手術成功。以後、再発は認められない。

退院10日後、今度は原因不明の高熱に侵され、急性肝炎、髄膜炎を併発して入院。意識不明となったが、自分では周りの景色が見えており、「今夜が峠」と話す医師の声と、それに対して親族を集めることを相談する家族の声を枕元で聞く。その夜、無事、峠を越えて持ち直すが、2ヶ月半の入院を余儀なくされ、けっきょくこの年は半分も大学に通えなかった。ベッドの上での生活が長くなり、それに伴って活字中毒のような状態になる。谷崎潤一郎、立原正秋、井伏鱒二等の文章に傾倒する。

昭和53年 20歳。人里離れた学友の下宿で、夜中に自転車に乗り、1km離れた駄菓子屋の自動販売機にビールを買いに行く途中、両側を高い塀に囲まれた街灯ひとつない細い路地で、電信柱の横に白い大きな袋を見かけ、首を傾げながら通り過ぎる。缶ビールを買って再びその道を通ると、その白い大きな包みが突然立ち上がる。なんとそれは白い浴衣を来た髪の長い女性だった。凍りついて思わずペダルを漕ぐ足を止めると、その女性が自転車の前に立って、真正面からハンドルを握り、僕の顔を覗き込みながら「こんばんは」と笑った。正常な人間の眼をしておらず、あまりの恐怖にしばらく無言のまま固まっていたが、女性が僕に向かって手を伸ばした瞬間に我に返り、自転車を乗り捨てて、悲鳴を上げながら夜中の1本道を駆け帰る。翌日、学友と現場に行くと、自転車は道路の真ん中に、昨日僕が乗り捨てた状態のまま置かれていた。もちろん女性の正体は今もわからない。

昭和54年 21歳。学友の生活する古い下宿で徹夜麻雀をするうち、自分が座る尻の下がどうにも気になり、夜中に仲間4人と畳を持ち上げてみたら、床下から血糊の着いた、錆びた長ドスが出てきて、パトカーを呼ぶ騒ぎになる。

夏、同じく学友と徹夜麻雀をするうち、メンバーから漏れた友人と葉山にドライブに出掛け、怪異現象に巻き込まれる。詳細は、本編「死を呼ぶラジオ」を参照のこと。

9月。友人と共同購入した4人乗り小型ヨットが葉山沖合いで転覆。そのまま潮に流され、2時間半漂流した末、救出される。ライフジャケットを着ていたため溺れることはなかったが、体温低下で危険な状態だった。どこまでも広い海上で、ひとりぽつんと浮かんで漂う恐怖は強いトラウマとなり、以後、水嫌いにさらに拍車が掛かる。以後、海で泳いだことはない。

昭和56年 就職。サラリーマン生活に突入する。同年夏、当時職場で恒例となっていた朝のラジオ体操を始めると同時に、急性肺気胸を発病。そのまま病院に担ぎ込まれ入院となる。入院4日目の夜中、仕切られたカーテンの上から、僕のベットを覗き込む老婆の姿を見る。それは、中学生の頃、借家で金縛りにあった僕の枕元に、毎夜立ち続けた、歯のないあの老婆だった。けっきょく1ヵ月半の入院を余儀なくされる。

昭和60年 4月の上高地。徳沢〜横尾間にて雪の樹林帯から突然飛び出してきた、灰色のスーツを着た女性に「背負わないように気をつけてくださいね」と謎の声を掛けられる。その女性は、徳沢方面に消えたが、彼女が果たして実在したのか、それとも物の怪だったのか、いまだにわからない。

平成2年 7月。白馬から糸魚川に抜ける国道を夜間走行中、運転席の外から声を掛けられた気がしてウィンドウを下げ、ハンドルを握りながら何気なく窓の外に顔を出した途端、対向車線を大型ダンプカーが猛スピードですれ違い、あやうく首をもぎ取られそうになる。

平成8年 12月。星と夜景の写真を撮るために、長野県和田峠の森林で野営。真夜中、他に誰もいないはずのテントの外で、物凄い音が鳴り響いて飛び起きる。恐怖よりも驚愕の方が先に立ち、思わずジッパーを下ろしてテントから顔を出すと、食べ残したスープを入れたまま、テントの外に放置していたコッヘルとキツネが格闘していた。氷点下の気温により、コッヘルの中のスープが凍結し、それに手を出したキツネの前足がくっついて取れなくなっていたのだった。コッヘルを前足に貼り付けたままキツネは暗闇に逃走。コッヘルを失った僕は朝飯抜きとなった。

平成10年 10月。周期的に、頭の片側と、同じ側の眼球に猛烈な痛みを感じる群発性片頭痛を発病。この当時、まだこの病気は正式に認められておらず、また精密検査の結果にも異常が認められなかったため、単なるひどい片頭痛と診断され、頭痛薬を飲んで耐えるしか方法はなかった。頭痛は約2ヶ月間頻発し、その間に体重が6kg減少する。

平成11年 3月。霧降高原へ登山に出かけるも豪雨に見舞われ、予定を変更し、濡れ鼠の状態で富士の樹海を散策。その日の夜、飛び込みで泊ったロッジで首筋に突然痛みを感じ、翌日帰宅後、くも膜下出血を発病。救急車で病院に搬送されるが危篤となり、「先生!(心臓が)止まっちゃう!止まっちゃう!」と叫ぶ看護士の声を暗闇の中で聞く。奇跡的に持ち直すが、目の焦点がまったく合わなくなる。集中治療室にいる間、今は亡き祖父の夢を何度も見る。入院とリハビリで休職6ヶ月。しかし、酒も煙草もまったく止めず。11月リハビルを兼ねてホームぺージ「北アルプスの風」開設。

平成12年 5月。再度入院し、頭部動脈瘤クリッピングの開頭手術を受ける。後頭部頭蓋骨の一部を切除。休職5ヶ月。休職中の8月、2年3ヶ月振りに北アルプスの頂に立つ。

平成13年 5月。新島々から徳本峠を越えて上高地入りを狙うが、雪面についた足跡をたどるうちに深雪の樹林帯に迷い込む。斜度40度を越える雪壁を迷走し、けっきょくビバークを余儀なくされる。翌日、雪についた自分の足跡が消えないうちに来た道を戻り、何とか脱出に成功。たどった足跡の主は、数日後、ビバーク地点から約50m上部の雪面で、遭難遺体として発見された。
平成14年 12月。厳冬期の谷川岳でテント泊。調子に乗って痛飲し、完全に我を忘れてTシャツ一枚で爆眠してしまい、あやうく凍死しそうになる。

平成16年 10月。「北アルプスの風」の隠しページだった「裏北アルプスの風」が出版社の目にとまり、メディアファクトリー社刊「幽」に山岳実話怪談「山の霊異記」を連載開始。12月。「幽2号」に「赤いヤッケの男」「孔雀」「N岳の夜」「霧の梯子」掲載。12月下旬。群発性片頭痛が再発。それに伴って、不安神経症を併発してしまい、休職9ヵ月。

平成17年 3月。群発性片頭痛は治まるも、不安神経症はピークに達し、ほとんど外出が出来ない状態になる。6月「幽3号」に「急行アルプス」「深夜のテレビ」「山小屋の怪」掲載。薬を服用しながら、時間の経過も、日の経つことも考ることなく、目が覚めたその日を、ただただゆったりと過ごすことを実践するうちに、不安神経症が少しずつ治癒し始め、10月より仕事に正式復帰。しかし休み勝ちなのは相変わらず。

10月。怪談専門誌「幽」の特集に伴い、編集スタッフと夜叉ヶ池登山。下山後、スタッフの泊る宿の横に流れる渓流で、物の怪らしき釣り人の姿を見る。12月「幽4号」に「山麓の宿にて」「暴風夜」「残雪のK沢岳」「笑う登山者」掲載。

平成18年 6月。「幽5号」に「ゾンデ」「鏡」「八号道標」掲載。心身ともに体調の好不調の波を繰り返す。「ダ・ヴィンチ」8月号「背筋も凍る怪談特集」に「J岳駐車場」掲載。12月「幽6号」に「荒峰旅館」「銀のライター」を掲載。師走、過労から体調を崩し2週間の休暇を取る。この年、北アルプスはおろか、2000メートルを越える山に登ることは一度もなかった。

平成19年 正月中に出社し、昨年から仕掛かりになっていたプロジェクトを何とか完遂するも、無理がたたって2週間の短期入院。正月早々病院のベッドで過ごすこととなる。

1月。退院早々、web仲間と厳冬期松本居酒屋アルプスに挑み、体内で発酵するという恐ろしい地酒の嵐を真正面から喰らい、翌日、車山の麓で新品のスノーシューに足を通すこともなくダウンする。

2月。地方公務員向け雑誌から、くも膜下出血に関する闘病体験記の執筆を依頼され、ALPS(アルプス)という雑誌の名前が気に入って寄稿。

4月。 「幽」7月号に向けて、「鎌策婆」「猿ぼぼ」「ハーケンは歌わない」「究極の美食」を寄稿。自宅のパソコンがクラッシュ。仕事上、職場では日頃からバックアップを取得しておけと他人にしつこく言っておきながら、当の本人はバックアップを取っておらず、パソコンの情報を全て消滅させる羽目になる。


6月「幽7号」に「鎌策婆」「猿ぼぼ」掲載。

12月「幽」8号に「カラビナ」「牧美温泉」掲載。

平成20年 1月。神奈川県庁で「健康と生きがい」をテーマに講演。自分を反面教師として健康の大切さを説く。

2月。短編集「赤いヤッケの男_山の霊異記」をメディア・ファクトリー社から刊行。

3月。「幽」9号特集「山の怪談」の取材でダ・ヴィンチ編集部と湯河原日金山登山。翌日は情漣の滝、旧天城トンネルで取材。

5月。夢枕獏氏と対談。ヒマラヤの興味深い話を聞く。

6月。メディアファクトリー文庫創刊「怪談実話系 書き下ろし怪談文芸集」に「顔なし地蔵」掲載。
「幽9号」に「真夜中の訪問者」「黒い恐怖」「無限の彷徨」掲載。


12月。「幽10号」に「三途のトロ」「はないちもんめ」掲載

平成21年 1月末。テレビ東京のバラエティ番組『しょこリータ』(ホラリータナイト怪談師大会)に出演。「真夜中の訪問者」「赤いヤッケの男」の怪談2話を語る。

3月中旬。『しょこリータ』(ホラリータナイト怪談師大会)公開放送に出演。「鏡」を語る。

6月。メディアファクトリー文庫創刊「怪談実話系 書き下ろし怪談文芸集2」に「青い空の記憶」掲載。「幽11号」に「乾燥室」「釜トンネル」掲載。

8月初旬。日本テレビのバラエティ番組『99プラス』に出演。「浸水トンネル」を語る。

8月下旬。NHK_BS2の「最恐 怪談夜話」に出演。「ソンデ」「アタックザック」を語る。

9月初旬。メディアファクトリー主催「2009怪談の宴」に出演する。

12月。「幽12号」に「大張峠」「鹿神旅館」掲載。


平成22年 1月。朝日新聞社「ほんとにあった怖い話・山と神秘と怪異」特集の中で山の怪異についてのインタビューが掲載される。

2月。メディアファクトリー文庫創刊「怪談実話系 書き下ろし怪談文芸集3」に「霧幻魍魎」掲載。


4月。「赤いヤッケの男」文庫化。

6月。メディアファクトリー文庫創刊「怪談実話系 書き下ろし怪談文芸集4」に「隧道」掲載。

7月初旬。短編集「黒い遭難碑_山の霊異記」をメディア・ファクトリー社から刊行

7月下旬。WEB-TV「あっとおどろく放送局」真夏の怪談特殊に出演。

7月下旬。阿佐ヶ谷ロフトライブ「七月夜の怪談祭り」に出演。

8月初旬。NHK_BS2の「最恐 怪談夜話2010」に出演。「隧道」「顔なし地蔵」「はないちもんめ」を語る。





続く





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