幼き日の風


昭和38年8月 奥日光菅沼キャンプ場にて





そもそもの馴れ初めが社会人山岳部での出会いであった父と母にとって、家族旅行といえば、それは当然山行が絡むものとなり、したがって物心ついた頃から、そろそろ親離れの気持ちが芽生え始めて、家族で旅をすることがなくなり始めるまでの10数年間、僕の記憶にある家族旅行と言えば、それはほとんどが山登りであり、そして山麓のキャンプであった。

わずかに海に行った記憶もあるが、それは横浜という海に面した地に住む土地柄から、金沢八景や観音崎といった、自宅からごくごく近い場所に限られており、母方の祖父母の故郷であった西伊豆の土肥に年一度、親戚一同が集まる時だけが、唯一、僕が海に接する機会といってもよかったのである。

行動範囲が山に限られれば、当然、宿泊も山小屋か山麓のキャンプ場になるわけで、温泉付きで夕食には豪華なお子様ランチが出るような宿に泊まった記憶もない。とにかく、2歳にして初めて登った(登らされた)丹沢鍋割山を皮切りに、家族旅行は山、山、山の連続だった。

中学生になり、家族と旅行する機会がめっきり減って、やがて成人してさらにしばらくの間、幼少の頃の反動なのか、僕は山とはまったく接する事のない生活をするようになっていて、生活の中に、山登りなどという言葉が出てくることもまったくなくなっていた。

ところが社会人となって数年が経ち、その頃付き合っていた女性と酒を飲みながら話をしているうちに、何時の間にか「山」の素晴らしさについて、熱く語っている自分に気がついた。喋れば喋るほど、ずっと忘れていた、子供の頃に見た山の景色が、残雪を踏む登山靴の感触が、そして澄み切った山の空気が、次から次へと僕の心の裡に蘇ってきて、とうとう堪らない気持ちになった。

翌日、山の店に飛び込んでザックと登山靴を新調した僕は、そのまま休みを取って、新宿から中央本線に乗り込み、7月の八方尾根を目指したのである。




そんな山への憧れを何時の間にか刻み付けた旅の思い出

・・・











もうすぐ3歳という年齢で初めて登った丹沢鍋割山。

通称バカ尾根と呼ばれる大倉尾根を登った。

足元もおぼつかない様子で
僕が尾根を登る姿を見た他の登山者が
「親のエゴで連れて来られる子供がかわいそうだ」と
両親を口々に非難したそうだ。

そんなやり取りは当然のことながら
僕の記憶の中にはないが
とにかく崖のような道を
四つん這いになって探検した
記憶だけは鮮明に残っている。

今考えると、当然それは崖などではなく
尾根の斜度に対して
僕の小さな歩幅が合わなかっただけの話である。
テッペンに着いた時の僕は
当然の事ながらグロッキー状態で
やむなく鍋割山荘に宿を取って一泊し
翌日山を下ったそうだ。


下の写真は、それから2年後
鍋割山を再訪した時のものである。
後ろに建つ鍋割山荘に
この山の歴史の古さを感じる事ができる。
横で丸いほっぺを膨らませているのは
僕の妹でこの時2歳。

歴史は繰り返す・・・である。





昭和38年8月
奥日光丸沼から金精峠を経て
戦場ヶ原に下った時の一枚。

菅沼キャンプ場でバンガローに泊まった。

写真は恐らく丸沼であろう。

小さな目で
何を見つめているのか。

とにかく小さい頃の僕は
ただ黙って何かを見つめている事の多い
ちょっと変わった子供だったそうだ。





昭和38年春の上高地。

まだ水の多かった田代池でのスナップ。
父の足元で水遊びする妹と僕。

この時、妹2歳、潤平4歳。

昔の事を異常なほど覚えている僕なのだが
残念ながらこの時の記憶がまったくない。

後年、上高地が
三度の飯より好きになる僕としては
不覚の限りである。




これも昭和38年の秋。
いったいこの年はどのくらい山に通ったのだろうか。

伊豆万二郎岳から八丁池を経て
中伊豆天城トンネルに下る
通称「天城越え」の時のスナップである。

5歳と3歳の子供に
よくもまあ
こんな長丁場を歩かせたものである。

当然バテバテになったが
八丁池でのボート遊びは楽しかった。

子供とは現金なものである。

八丁池の畔の森を父と探索し
木の上に泡の巣を作る
モリアオガエルを見つけた時の
心のときめきは今でも忘れない。




天城八丁池にてボートを漕ぐ





昭和39年 丹沢大室山


  昭和39年 伊豆幕山



昭和40年春
丹沢水無川。

初めてのキャンプ。

初めての飯ごう炊飯。

変わり者の僕は
自分ひとりの
カマドを作ると言い張って
聞かなかったそうだ。





わが子を背負いわが子の手を引き頂きへ



昭和40年7月30日から8月3日

岳温泉から裏磐梯、表磐梯を経て猪苗代湖へ大縦走。

五色沼の湖面の彩りの見事さに小さいながら大感激した。

疲労回復にはチョコレートが良いと父から聞いて板チョコを食べすぎ
磐梯山の頂上直下で鼻血が止まらなくなった。

この旅では、山だけではなく
会津白虎隊自決の地や野口英世の生家なども訪ね
子供心に感銘を受けたものである。



弘法清水にて 雨の天沼



登山口にてコース確認 磐梯噴火口跡 翰島荘の前で出発を前に



昭和43年 北アルプス立山、唐松岳山行


昭和43年 黒部扇沢ロッジ前にて



扇沢ロッジに宿を取り、長野側から黒部ダムに入った。
この旅の前に、黒部ダム竣工をドキュメンタリータッチで描いた映画「黒部の太陽」を劇場で見ていたため
トロリーバスで通ったトンネル内破水帯や、黒部ダム脇に建つダム建設殉職者の慰霊碑は
子供の僕にとってはテーマが重すぎて強烈な思い出として残った。

いまだに黒部ダムを訪れるたびに伸びやかな気持ちになれないのは
当時の印象がトラウマになっているからだと思う。







続けて登った八方尾根はあくまでも伸びやかで明るく
八方池山荘に2泊して北アルプスを満喫した。

初めて見るケルン。
尾根から同じ目の高さに見える残雪の白馬連峰。
雷鳥や高山植物

・・・

幸い3日とも天気に恵まれ
とにかく初めての北アルプスの山で
僕ははしゃぎまわった。

中日には快晴の下
八方池を経て、家族4人で唐松岳を目指したが
途中に現れた扇の雪渓で
僕と妹が雪遊びに夢中になってしまったために
時間を大きくロスし、けっきょく丸山に家族を残して
父だけが唐松岳を往復することになった。



初めて登った北アルプス八方尾根の明るさは
今でも僕の山歩きの原点になっていると言っても良いと思う。




天狗の大下りを背に 父ひとり唐松岳を目指す




八方池山荘にて




山派からまったり派への変貌の歴史






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