スクラッチ(1995年~2000年)

球団創立
1995年4月1日
チーム名の由来
『寄せ集め』と言う意味で『スクラッチ』 スクラップの集団ではない
歴代監督
- 北川 正樹(1995年~2000年)
優勝経験
0回。
最高成績は2位(1995年)
球団の歩み
- 1994年
- スクラッチの前身である「実装設計野球小僧集団」vsファルコンズ練習試合(守口市民球場)
- 試合には負けたが「楽しく野球ができた。Pリーグでもやっていける。優勝も狙える。」と勘違い。
- 1995年
- Pリーグ参加。ユニホームは多数決でORIXビジター風モデル。
- 4月22日、戦力補強をして初戦Bo戦。結果4-7で敗れ黒星スタート。
- 5月27日、BG戦では同点の最終回にエース大迫選手が初登板。決勝タイムリーを打たれ負け投手に。
- 夏まで2勝2敗の成績に、気分転換の意味でバーベキュー大会を開催。梶原選手がやけどで莫大な保険金を手にする。
- 結局、2位で全日程終了。初年度としては合格!


- 1996年
- 前年度2位と言うことで優勝めざして臨んだシーズン。
- 北川選手、2打席連続ホームランの離れ業!
- この頃から参加率がDown。しかし宴会参加率はUp!
- 結果、4位で全日程終了。
- 1997年
- 1997年キャッチフレーズ
- 『Be up to "SCRATCH"』
- 白浜選手が登録名を『ボビー』に変更。
- 6月寝屋川公園第1球場で大迫選手がプロ顔負けの90m弾丸ライナーホームラン。
- 宮崎選手、初見参も「打てず、守れず、走れず」。宮崎談「子供の頃は野球少年。勘が戻ればやれる」 いまだ戻らず...
- 3位で全日程終了。
- 1998年
- 1998年キャッチフレーズ
- 『Be up to "SCRATCH"』
- 本年度より宴会選手制を導入。宴会専門の選手が増加。
- 試合の参加率が悪く、助っ人なしでは試合ができない状態が続く。
- 雨の影響で日程が変更。真夏の白昼、場所移動でダブルヘッダーという強行日程。
- 泉選手もフル出場の最終戦、対連合軍に22対1の歴史的大敗。先発大塚投手・中継ぎ浅見投手がメッタ打ちに合う。
- 過去最悪の6位で日程終了。
- 1999年~2000年
- 1999年キャッチフレーズ
- 『"ゼロ"からのスタート』
- 2000年キャッチフレーズ
- 『みんな集まろうぜ!!』
- 2001年
- 連合軍と合併。
回顧録/戦力分析
■塁に出たら初球から走る一番大塚。あまりの思い切りの良さに相手投手も油断だが、後続の打者がみんな大振りだから安心。攻守に粗さが目立つ。気分屋チームだけに最初にガツンとやっときゃ◎ (BG作戦コーチ)
■名門といわれながら最近の低迷ぶりはさびしいばかり。といいながら去年負けましたけど。こことは大きなグラウンドで思いっきり、双方ベストメンバーで試合をしたいものです。(Bu幹部)
■一言、うまい!!8人しか集まらないBTの穴をめがけて右に左に打ち分ける技巧派チーム。もう勘弁してください。(BT3号)
■守備は安定、打線はヒットを連打する堅い野球をするチームかな。(BT6号)
■毎年優勝候補にあげているがなかなかベストメンバーが揃わない。女性をバッターボックスに立たせて投手心理を揺さぶるのはいただけない。その女性相手に本気で投げる私は大人げ無い(匿名希望の元Bo投手現連合軍)
■あれは2年前でしたか、淀川河川敷の試合で序盤は接戦、しかし中盤に安パイと思った下位打者大国選手にどんづまりの右前適時打を打たれて意気消沈!後は大魔神大迫にピシャリ。あのころは強かった(連合軍監督)
ギャラリー


このページは『ピーナッツ・リーグ創立10周年記念誌』より転載しました。 掲載内容は1998年時点のものに、その後の経緯を当館で加筆しました。