作詩:中原中也
作曲:多田武彦
指揮:北村協一
1.米子
2.早春の風
3.閑寂
4.骨
5.また来ん春
中也が、第2詩集として作った「在りし日の歌」は、「亡き児、文也に捧げ」られている。昭和11年、中也の長男文也は、わずか2歳の生涯を閉じた。その葬儀の日、中也は、文也の遺体を抱いて離そうとしなかった。中也の母フクが、「やっとのことであきらめさせて」棺の中に納めさせたという。四十九日の間は毎日僧侶を呼んで読経してもらい、中也は決して位牌の前を離れなかった。
中也は、文也が生まれてからこのように書いている。
文也も詩が好きになればいいが。二代がヽりなら可なりなことができよう。(中略)迷はぬこと。仏国十九世紀後半をよく読むこと。迷ひは、俺がサンザやつたんだ。 (『遺言的記事』)
中也は、文也が詩業を継いでくれることを願っていたようである。しかし、詩作という仕事は、「二代がヽり」でできるものであろうか。「迷ひは、俺がサンザやつたんだ」というのも、ただの親心にすぎないのだろうか。ところが、次男愛雅の誕生後も、中也の精神錯乱は進んでいった。愛雅に同じ想を持つことはしなかったのである。幻聴が生じ、ラジオに向かってお辞儀をし、屋根に登ってたたずみ、幼い頃からの作法を忘れてしまう…。
中也にとって、2人の子供は同じようにかわいかっただろう。その中で、文也は中也の投影だったのではないだろうか。だからこそ、「二代がヽり」で詩作をし、「迷ひ」もこれ以上必要なくなっていた。中也は自分の幼少時代を文也の中に見出していたのだ。
それだけではない。中也の心の中には、いつも故郷の思い出が、幼い頃亡くした弟亜郎の思い出があった。亜郎は、家の裏門で、学校から帰る中也を、「兄ちゃん、はよう帰れ」と待っていたという。亜郎の死後、中也は、自転車の籠にいっぱい花を摘み、しばしば墓参りに出かけたそうである。もしかしたら、文也の死は、亜郎の死の再来であったのかもしれない。
最晩年の代表作「春日狂想」の第1連を引用しよう。
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持ちに、ならなけあいけない。
奉仕の気持ちに、ならなけあいけない。
中也の衰弱はさらに進んだ。病状は、「結核の急性憎悪によって惹起せられた脳膜炎」であった。
1.米子
米子とは、実在の人物かどうか分からない。おそらく、架空の存在であろう。その米子は、「ポプラのように」歩道に沿って立っている。何を待ち、何に耐えているのだろうか。そして、「私」にとって米子とは何なのだろうか。
2.早春の風
軽快なリフレインで、春の楽しさが歌われている。この光景は、中也が現実に見たものだったのかもしれない。しかし、「かなしく」、「とげとげし」等、楽しさの裏に、一種の“影”が感じられることも否定できない。
3.閑寂
この「閑寂」さの中には、寂寥の影が漂っている。当時の中也は、友人も恋人も自分の周りから去ってしまい、失意のうちにあった。しかし、絶望するのではなく、それもまた佳しとしている中也の生き様が、この詩からは感じられる。
4.骨
「ホラホラ、これが僕の骨だ」という印象的な句は、お道化た調子の中に、自分の人生への嘲笑を思わせる。詩人は、既に自分を死の世界から眺めている。それは、つまらない現実に苦しむ人間の生活から乖離している。
5.また来ん春
中也が、息子文也の死後歌った作品。死の内容ももちろんだが、主体が「私」から「おまへ」に移り、最後には「おまへ」は「此の世の光のたヾ中に」埋もれてしまうことも、中也の詩才と悲しみの大きさを表していて、涙を誘う。
−第120回定期演奏会プログラムより−