「リュッケルトの詩による三つの男声合唱」
(Drei Mennerchore nach Gedichten von Friedrich Ruckert)

作詩:F・リュッケルト

作曲:Richard Strauss


指揮:柴田裕一郎(学生指揮者)



1.Von den Turen
  (戸口で)

2.Traumlicht
  (夢の中の光)

3.Frohlich im Maien
  (五月の喜び)


※特殊文字の表示は不可能なため、実際とは異なる綴りのものが含まれています。



−R.シュトラウスとその時代−

 作曲者R.シュトラウスは、1864年、ミュンヘンに生まれた。当時、ヨーロッパ中に知れ渡るホルン奏者として活躍していた父フランツは、リヒャルトの音楽的才能を真っ先に認め、幼い頃から音楽の道を歩ませた。フランツは、モーツァルトやベートーヴェンなどの「古典派」を音楽の頂点とみなし、当時流行だったR.ワーグナーを中心とする「新ドイツ楽派」を頑として認めようとしなかった。そのため、リヒャルトも、これらの音楽からは遠ざけられて教育された。しかし、ハンス・フォン・ビューローなど多くのワーグナー信奉者たちからその音楽を知ったリヒャルトは、一気にワーグナーへと傾倒してゆく。≪ドン・ファン≫≪英雄の生涯≫≪ツァラトゥストラはかく語りき≫等の交響詩は、「新ドイツ楽派」のもう一人の立役者、リストの影響を受けているとともに、ワーグナーの音楽に啓発されたものであることは否めない。
 彼はその後、≪サロメ≫の大成功によりオペラの作曲に専念するようになる。ホフマンスタールとの友情・協力は、この分野で花開くわけだが、音楽面では、1909年に前衛的な≪エレクトラ≫を作曲した後、再びモーツァルトへと回帰してゆくことになる。その後、1920年代後半になって世界は、≪新古典楽派≫と呼ばれる流れによって彼に追従する。
 1935年、「リュッケルトの詩による三つの男声合唱」が作曲された時代には、まさにその流れが主流となっていた。しかし、世界の情勢はリヒャルトを迎合しなかった。1933年、ドイツの政権を掌握したナチスは、彼を帝国音楽局の総裁に任命していたが、35年にはその地位を取り上げてしまう。理由は、彼のオペラ≪無口な女≫の台本作家シュテファン・ツヴァイクがユダヤ人であり、ツヴァイクを励ますために書いたリヒャルトの手紙が、秘密警察の手に渡ったためであった。「卑屈で自分本位の反ユダヤ主義者」と疑われ、ホフマンスタール亡き後の最高の相棒を失ったリヒャルトは、その後も音楽活動を続けてゆく。もはや彼の意思とは関係なく、第三帝国の表看板として。
 同時代者からは「保守的」と批判され、後世からは「前衛音楽の旗頭」とみなされ、ナチスの下で利用されたリヒャルトは、その心境をこう語っている。
「どうして好きな音楽をつくってはいけないのか。私は現在の悲劇に耐えられない。私の願いは喜びを創造すること。私にはそれが必要なのだ。
 この「創造の喜び」は、「リュッケルトの詩による三つの男声合唱」の中で具現化されている。しかし、この曲集は、彼の音楽に対して時代の流れが生んだ偏見・誤解のために忘れられてきた。今、彼の没後45年が過ぎ、その音楽に新しい光を当てる時を迎えている。


−楽曲解説−

 第1曲≪戸口で≫は、滑稽で繊細な感じがする作品である。優しくドアを叩いて数ペニーを手にする最初の場面から、最後に描かれる墓の中の安らぎの場面まで、バスの深さを開拓した鮮明な音楽像に満ちている。そしてこの深いバスの鳴りは、トップ・テノールに与えられた旋律とうまく均衡を保っている。

 第2曲≪夢の中の光≫は、5声部から成り、その狡猾さ、横滑り的なハーモニー、洗練されたリズムといった点において典型的にシュトラウス的である。仮構された感情を技巧的な言葉に移すリュッケルトの詩と、シュトラウスの音楽との共感が美しい。

 第3曲≪五月の喜び≫は、最も古典的な作品である。シューベルトやハイドンを思い起こさせるこの曲の中で、シャルマイの調べに合わせて踊る喜びは、70歳の老シュトラウスが抱いていた音楽に対する思いをそのまま表現したものではないだろうか。


−第38回フェアウェルコンサートプログラムより−



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