交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」

作曲:Ludwig Van Beethoven


指揮:飯守泰次郎

ソプラノ:緑川まり

メゾソプラノ:坂本朱

テノール:松浦健

バリトン:三原剛



第1楽章:Allegro ma non troppo, un poco maestoso

第2楽章:Molto vivace

第3楽章:Adagio molto e cantabile

第4楽章:Presto




−第9交響曲の特異性−

 ベートーヴェンの作曲した9曲の交響曲は「不滅の交響曲」と称されている。これらの曲はどれをとっても決して相似しているものではないし、またそのどれもが精神性の高さ、芸術的完成度、そのほかあらゆる点において、後世の作曲家達にも非常に強い刺激を与えるものとなっている。そして、今回私達の演奏する9番目の交響曲はそれらの交響曲の中でも、純粋な器楽様式の中にフィナーレとして声楽を持ち込んだことで、独自の芸術的価値を生み出したものであり、彼の作品の中でも特異な位置を占めているといえる。


−皇帝への喝采をも凌ぐ初演の熱狂ぶり−

 この曲の初演は1824年5月7日にウィーンにおいて大成功のうちに終わっているのだが、ベートーヴェン自身は初演前からそれほどの自身を持ち合わせていたわけではなかったのである。次の話を見ればその理由の一端を垣間見ることができる。その頃耳の聞こえが悪くなっていたベートーヴェンはウィーンの市民たちに対して不当に不信の念を抱いていた。そこで、この曲が彼らによって受け入れられないものと思い、ベルリンでこれを演奏させようとした。しかし、こういった作曲家の考えを知ったウィーンの市民たちは、演奏をぜひ自分たちの土地でやってもらいたいという旨を必死の思いで彼に伝え、ようやくウィーンで行うことに決まったのである。
 ウィーンでの第九の演奏は練習不足のために上出来ではなかったというが、最終的には熱狂的歓迎を受けて終わることができた。ベートーヴェン自身アンコールには4回も呼び出され、しまいには警察官が「静粛に!」と叫ぶほどの熱狂ぶりであったのだ。当時といえば、皇帝への喝采でさえ3回までだったというのに。その成功の度合いがよく分かる話である。
 ここでその演奏会における有名なエピソードをひとつ紹介しよう。彼は演奏会の時、聴衆に背を向ける姿勢で指揮をしていた。そのため、演奏が終わってから大喝采を受けたにもかかわらず、当の作曲家は気付かなかったのである。これを見かねたアルトのソリスト、ウンガーはベートーヴェンを正面に向き直させた。このありさまを見た聴衆はさらに喝采を重ね、ベートーヴェンは無骨におじぎをした。中にはこの様子を見て涙にくれる婦人も少なくなかったという。これだけの賛辞を受け、その日の交響曲の初演奏会は終わったのである。


−曲の構成−

第1楽章

 Allegro ma non troppo, un poco maestoso ニ短調、4分の2拍子、ソナタ形式。

第2楽章

 Molto vivace ニ短調、4分の3拍子。中間部はPresto、ニ短調、4分の2拍子。従来の古典的交響曲では第2楽章に緩徐楽章がくるものであったが、ベートーヴェンはこの順序を変更してスケルツォを持ってきた。このスケルツォ楽章は非常に内容が充実しており、初演時にはこの楽章にたいして異例の大拍手が送られ、演奏が一時中断してしまうほどであった。

第3楽章

 Adagio molto e cantabile 変ロ長調、4分の4拍子。Andante moderato ニ短調、4分の3拍子。ベートーヴェンの書いた最も美しい音楽と言われる。美しい2小節の導入句を経て、第1ヴァイオリンによる清らかな主要主題が現れ、木管がそれをエコーする。副主題は前半の美しさの極みとは違い、人々を希望の喜びへと導くかのような印象を受ける。

第4楽章

 この楽章には、有名な「歓喜の主題」が使われているが、その主題が始まる前に奇怪な序奏部分を含めた1楽章から3楽章までの主題が所々に現れてくる。しかし、それらの回想的な主題は1度ならずもチェロ、ベースのレチタティーボによって否定されていく。そのあと、遠くから低温弦による主題が聞こえてくる。やがてそれは全オーケストラに展開されていく。この主題の展開に私たちは光明の近いことをさとるが、それはまた騒音によって中断される。ここでようやくバリトンの独唱が現れ、以下の歌をうたいその騒音を否定するのである。こうして、「歓喜の歌」は始まる。
 O Freunde, nicht diese To:ne! Sondern lasst uns angenehmere anstimmen, und freudenvollere


−「合唱」と9番目の交響曲−

 「ああ友よ、そんな調べはだめなのだ! われわれはもっと快く、もっと歓びに満ちたものを歌おうではないか」
 声楽の付いた最終楽章はこのバリトンの章句によって始まるのだが、この言葉だけはシラーの詩ではなくベートーベン自身によるものなのである。
 1817年当時、ベートーヴェンの予定していた第九の最終楽章は管弦楽だけによるものであった。そして、合唱を使おうという意図は、スケッチブックを見ると「十番目の交響曲の緩徐楽章に聖歌風に取り入れる」というところにあったようである。それもまだシラーの詩は念頭にはなかった。当初、ベートーヴェンは第九交響曲を前金を払うという約束で、ロンドン=フィルハーモニーに捧げるつもりでいた。しかし、彼の金銭的な主張が同音楽協会に受けいられることがなかった。そこで、同協会に英国人向けの交響曲を捧げることを止め、かねてから作曲したいと思っていたシラーのドイツ語で書かれた「歓喜」に作曲したものを第十のかわりに、第九の終楽章に使おうと考えるようになった。
 そこで、彼の悩んだのは1楽章から3楽章までの器楽による流れをどうやって合唱につなげようかということであった。そこで、バリトンの独唱によって器楽から合唱への橋渡しをしようとした。こうした解決策を考え、初演を大成功に終えてもまだベートーヴェンは合唱によるフィナーレをよしとしておらず、器楽による別のフィナーレに書きかえようかと親しい友人にもらしていたようである。しかし、その計画も英国での演奏も好評であったという知らせを聞き、ベートーヴェン自身が「第九の終楽章はあの合唱フィナーレでよいのだ」という自信をつけ、今日の第九交響曲が合唱付きとして名を留めるに至ったのである。
 本日はこのような壮大な交響曲を、ワグネル・ソサィエティーのオーケストラ、男声合唱団、女声合唱団の3団体の協力のもと演奏いたします。今日の演奏であらためて第九交響曲の素晴らしさを感じていただければ幸いです。


−慶應義塾ワグネル・ソサィエティー創立95周年記念演奏会プログラムより−



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