「コダーイ男声合唱曲集」

作詩:Ady Endre

作曲:Kodaly Zoltan


指揮:菅野健(学生指揮者)



・FOLZALLOTT A PAVA
 (孔雀が飛び上がった)

・ESTI DAL
 (夕べの歌)

・HUSZT
 (フスト)

・KARADI NOTAK
 (カラード地方の歌)


※特殊文字の表示は不可能なため、実際とは異なる綴りのものが含まれています。



・作曲家・教育者 コダーイ・ゾルターン

 現代ハンガリー音楽の父ともいうべきコダーイ・ゾルターンは1882年12月16日、南ハンガリーのケチケメートで生まれた。父親は鉄道官吏だったがヴァイオリンを、母親もピアノを弾くという音楽的な家庭に育ち、父の仕事の関係で国内各地を移り住んだ。彼が少年時代に、女中達が歌うハンガリー民謡を聴いて育ったことが、作曲家としてハンガリーの国民音楽の創造に尽くし、民謡の収集と研究に大きな功績を残した理由に考えられる。
 当初、ブダペストの大学では文学を学び、文学博士号を取得した。博士論文の「ハンガリー民謡の節構造」という題名も、この若き音楽家の興味分野が新鮮なものであったということを示している。同時にブダペスト音楽院でケスラーに作曲を師事した。しかし、当時の民族主義的な思想に触発され、次第にそれまでのドイツ風の作曲から離れ、新しい国民音楽創造のためには、真のハンガリー民謡の研究が必要と考えて、1905年から民謡の収集と研究を始めた。この間に同じくハンガリー民謡に興味を持っていたバルトーク・ベラ(1881-1945)との親交が生まれた。
 彼の最初の国際的な成功は1923年の「ハンガリー詩篇」で、その後、歌芝居「ハーリ・ヤーノシュ」や「ガランダ舞曲」、「管弦楽のための協奏曲」など、彼の代表的な作品が1940年までに書かれている。今回取り上げた4曲も同じくこの間に作曲されている。
 ハンガリー音楽の語法を用いたそれらの作品は、必ずしも革新的ではないが、独自の色彩と響きを持ち、穏健な作風の中に人間味豊かな魅力を備えている。
 また、1920年代後半からは、ハンガリー音楽に基づく音楽教育法を考案し、そのためのメソッドの確立と実践に務め、ハンガリーのみならず世界の音楽教育界に大きな影響を与えた。そして第2次大戦後は、ハンガリー音楽協会の会長や、芸術科学アカデミー総裁を歴任するなど、ハンガリー音楽界の最高指導者として尊敬を集め、国際的にも多くの栄誉を受けた。
 1961年に最後の交響曲を完成させるなど、晩年まで衰えぬ活動を続け、1967年3月6日、84歳で亡くなった。


・曲目解説

1.孔雀が飛び上がった(1937年)

 この作品は労働合唱団の創立30周年演奏会のために書かれた。20世紀ハンガリー文学の卓越した詩人、アディ・エンドレ(1877-1919)によるこの詩は、自由に対する情熱を歌った民謡を改変したもので、曲は1935年にコダーイが収集した古いペンタトニック(5音階)の民謡が曲に使われている。1939年には変奏曲としても書かれているが、作曲当時ナチスと結んで非人道的な政策を強行していたホルティ政権に対する怒りと抗議がこの曲に込められている。

2.夕べの歌(1938年)

 コダーイの合唱曲の中では、男声・女声・混声を問わず、最もよく知られている作品。国を追われて放浪する旅人が安息を願い、故郷を想い、真の安らぎの場を求めている。
 曲としては、3節からなり、第1節と第3節は純粋な民謡で、テノールが歌い他の声部の出す和音が伴唱するという形式は、民謡を合唱曲に編曲する最も簡単な方法である。

3.フスト(1936年)

 ハンガリー国家の作詞者、ケルチェイ・フェレンツ(1790-1838)の寸鉄詩に作曲されたもので、フストは現在のウクライナのザカルパトスカヤ州にあり、ラーコーツィの自由戦争(1703-11)のときの城跡がある。彼はこの巨躯を通して、うわべだけリーダーターフェルのスタイルを撮る古い合唱協会に対抗した。
 絶望感に打ちひしがれた愛国者がフストの廃墟に佇み、そこに亡霊が現れて、自分たちの無惨な残骸を眺めて思いふけるのではなく、将来のことを考えて、行動を起こすことを呼びかけている。

4.カラード地方の歌(1934年)

 ショモジュ県シオーフォク郡カラード村800周年の記念に委嘱されて作曲したもので、この地方で収集した歌を3つ並べて作った組曲。居酒屋でのシーンに始まり、捕まったネズミ小僧のバラッド(歌謡)、そして生き生きとした豚飼いのダンスで締めくくられる。
 規範からはやや離れた和声法、快活な歌詞、楽天的な語調が相まった、優れた作品といえる。このような形式は、混声曲の「マートラの風景」にも見られる。


−第41回フェアウェルコンサートプログラムより−



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