作曲家「清水 脩」


 清水脩は大阪天王寺の真宗大谷派寺院において四天王舞楽の楽人を父親として1911年(明治44年)11月4日に生まれた。父のあとは兄が継ぐが、少年の頃は彼もそこで子供の舞を舞ったりもしたらしい。
 中学時代から音楽に志し、寺院の日曜学校を経営したりして音楽への素養を育てていくが、初めて生の管楽器を聞いたのは小学6年の時である。担任教師に連れられて聴きに行った山田耕筰指揮日露交換交響管弦楽演奏会にて、モロソフの「鉄工場」に非常なショックを受けた。中学3年の頃には富樫義海につきピアノを習得し、初めての創作となる簡単な合唱曲の作曲をこなしている。
 大阪外語大学時代には同校グリークラブにおいて指導者を務めた。当時は作曲家への志望はなく習得のフランス語を生かしてのフランス音楽研究を生涯の業に望み、卒業後は研究費稼ぎとともに諸種の理論書、特にドビュッシーの文献を集める生活を送る。
 1937年に東本願寺研究生の待遇で東京音楽学校(東京芸術大学)選科に籍を置き、橋本邦彦に作曲を、細川碧らに理論を学ぶ。選科終了後は一時同校教務委託となりフランス語講師を務めた。1940年第4回音楽コンクール作曲部門で「花に寄せたる舞踏組曲」が1位入選。音楽之友社委託となる。翌年、大日本産業報国界に入り職場への音楽普及にあたった。1945年には同会常任理事となるが戦後は解散し、音楽之友社編集部長を1年近く務める。1946年には全日本合唱連盟創設
に参画、翌年は仏教音楽育成を目的とする日本宗教音楽協会を創設した。更に翌1947年には東京男声合唱団を主催。また1951年から大阪放送合唱団の指揮にもあたるなど、作曲、音楽指導、翻訳、随筆等に渡る幅広い活動は枚挙に暇が無い。一部の作曲家以外生活の保証がなかった戦中期は止むなくサラリーマン活動を強いられ、戦後にようやく作曲活動が始まったということだろうか。
 1954年の芸術祭賞受賞作「修禅寺物語」をはじめとする清水脩の一連のオペラ作品によって、彼のオペラ作曲家としての名が一躍世に知られるようになったのである。その主要なオペラ作品を見てみると、「セロ弾きゴーシュ」(1957年)、「俊寛」(1964年)、「大仏開眼」(1970年)、「聟選び」(1968年)、「吉四六昇天」(1973年)等があるが、これは作品数だけでも日本の作曲家のなかで筆頭にあげられる実続を持っている。「聟選び」は日本人としては最初に外国から委嘱されロスアンジェルス、サンフランシスコで上演された作品である。また、オペラと並び合唱曲にも清水脩の作品は多い。彼自身が22、3才の頃からそのハーモニーに浸り、陶酔してきた男声合唱の作品は、400を超える彼の全合唱作数の半数以上を占め、非常に高い評価を得てきた。特に「月光とピエロ」に用いられた合唱組曲という日本特有のスタイルは、この曲の決定的な成功により今日まで数多くの追従を生み出した。
 管弦楽曲においては、1951年芸術祭管滋楽曲募集に「インド旋律による4楽章」(1950年)が入選、文部大臣賞受賞、1953年には「交響曲第1番」(1951年)は第1回尾高賞を受けている。
 伝統的文化に対する認識が人一倍強い彼の作品は、仏教に関係するものが多い。先に触れたオペラの何曲かの他にも交声曲「蓮如」「平和」「樹下燦々」「降誕賛美」等の仏教聖歌がある。また、現代でこそ「現代邦楽」という1つのジャンルが確立されているが、戦後間もなく洋楽畑では邦楽楽器が見向きもされなかった頃から、1955年の筝曲「嬉遊曲」をはじめ一貫して現代邦楽を年に1、2曲ずつ書き続けた。まさに彼自身が「私自身が執念の人間だから」と言う通りである。
 日本の伝統を西欧的文化を媒介としていかに現代に継承するかという事への彼の腐心は、アマチュア合唱運動を積極的に推進した実践力、政治性と共に彼の大きな側面を形成するものであろう。空白の底辺から戦後の音楽界を起こし出し、運動の中心となり、またオペラの未開拓分野へ踏み入り、更に誰も手をつけない邦楽の分野まで手を伸ばした彼の精力的な活動は注目に値されるものであるが、あまりに能動的な活動のためか、作曲界からやや異端視されるのは彼にとって不幸なことであったはずである。


−日本の創作オペラの父 清水 脩−

 日本の創作オペラは、それまでは山田耕筰による手探りの時代で、「夜明け」、「香妃」などが作られていたが、まだ、ひとつの揺藍期における意欲的な試みの状態にとどまり、とくに日本語を充分に生かした歌唱には、多くの難問が残されていた。戦後の「夕鶴」はプッチーニの影響も強く、必ずしも人々を納得させるだけの独自な営みとはいえなかったが、清水脩は、それまで書いてきたさまざまな声楽作品を踏まえ、日本語を自然に美しく歌わせるという立場から、「修禅寺物語」に独自な構想と、努力をはらい、いわゆる創作オペラとしてひとつの成果を収めたといい得る。
 この作品はその台本を岡本綺堂の作からとり、いわば歌舞伎の台本によった点で注目すべきものがあった。日本の創作オペラといっても、根のないところからでは生まれない。歌舞伎の演目として長い時間定着しているものを原型として生かし、主人公である夜叉王の一種のエキセントリックな人物像にスポットをあてたという点には清水脩の独自の考え方が感じられる。これは、素材のもつ通俗性を充分に勘案し、聴衆を計算に入れたということと、こうした枠のなかで日本語による歌のドラマを新しく形象したことに、彼の野心的意図が察しられる。それは、まさに不毛といわれた日本の創作オペラの現実に一石を投ずるところとなった。ただ、オーケストレーションにドラマ性を盛り込む方法において、西欧的な力動感を加えすぎ、歌のドラマがもつ独自な展開が阻害されるなどの問題も残した。
 清水脩のオペラはこれを第1作として、のちにやはり歌舞伎の18番目の演目「俊寛」をとりあげている。動きの少ない舞台、ドラマ化する難しさを感じさせたが、ともかくこうした一連の作品を通じて、日本的素材を発掘し、伝統文化の新しい継承ということの重要さを充分喚起したものとなったといえる。さらにこうした実績を踏まえて、「大仏開眼」は3幕6場の大作として、1970年(昭和45)、文化庁芸術祭主催公演として上演された。清水脩ならではの作品で、スケールの大きな構想をもつ力作で注目を浴びたことは記憶に新しい。それと共に「炭焼姫」「吉四六昇天」等を通して、オペラが一握りのファンだけでなく誰にも親しめるものであることを題材の持つ庶民性の中で具現しようとした試みは高く評価されている。「これはもう音楽運動ではないと思うんです、社会運動です。音楽が、いわゆる音楽だけの世界にとどまらず、全ての階層の人たちのエンターテイメント−娯楽になっている。これは大変にすばらしいことだし、意味も大きい。」(公演の度に満員になる「吉四六昇天」に寄せて)
 だが、日本語の自然なイントネーションを生かし、これを忠実に旋律化してゆくという作業はいまだに充分な形では追及されていないといえる。この間題について清水脩は、「日本語が、西洋のイディオムの西洋音楽のおたまじゃくしに、どういうふうにのれば我々の音楽であろうかというのは、もう何十年来の疑問であり、いまだに解決せず、満足できずにいる。」と語っているが、これが日本の作曲家にとって宿命的な課題であることを示している。


 音楽コンクール作曲部門第1位(第8回) 尾高賞(第1回)(1955)
伊庭賞(1959) 毎日音楽祭賞 舞踊ペンクラフ賞 紫綬褒章(1975)
勲四等旭日小綬賞(1982) 聖徳学園短期大学教授 札幌大谷短期大学講師
全日本オペラ協会会長日本合唱協会顧問 全日本合唱連盟名誉会長
全日本男声合唱協会名誉会長

筆名=龍田和夫 明治44年11月4日生 昭和61年10月29日没
大阪外語大学仏語科(昭和7年卒)卒、東京音楽学校選科(昭和14年)修了


−第123回定期演奏会プログラムより−



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