基地反対運動の歩み 

旧射撃山と基地に向かって立てられている
「自衛隊は憲法違反」の大看板


 百里基地のある平坦な台地はかつては百里ヶ原と呼ばれる不毛の土地でしたが、明治以来開墾が進められていました。そこに1937年、海軍の飛行場が強引に建設されました。戦後は満州などからの引揚者や地元の土地のない人々の開拓地となりましたが、開拓が一段落した1956年に突如基地建設計画が持ち上がりました。
 様々な圧力の中で多くの開拓民は土地を売り渡しましたが、1956年8月には百里基地反対期成同盟、12月には愛町同志会が相次いで結成され、反対運動が小川町全体のものとなっていきました。翌4月には反対派の山西きよ氏が町長選挙に勝って、全国初の女性町長となり、反対運動は大いに高揚しました。このような中、防衛庁は既成事実づくりのために基地建設を開始し、建設機材の搬入を巡って地元農民と警官隊が衝突するという事件も起こりました。防衛庁は金や脅しでは動かない農民達に対して巧妙な懐柔工作を行い、その結果1964年には滑走路予定地の土地はすべて買収され、「百里基地反対期成同盟」も解散しました。
 しかし、すぐに「百里基地反対同盟」が再建され、あらたな闘いが始まりました。滑走路に平行して飛行機の移動用に作られ、非常時には滑走路にもなるべき誘導路を「くの字」に曲げることになった基地内に残った土地を、全国の人々に一坪ずつもってもらうという画期的な一坪運動で反対闘争を全国的なものに発展させました。1965年には百里基地懇談会が結成され、百里裁判が闘われる中、1978年には百里基地反対連絡協議会が発足して、現在も党派をこえた統一組織として存在しています。1978年には平和農園づくりがはじまり、1979年からは旧射撃場山を対象として新一坪運動が取り組まれ、1989年には基地のど真ん中の一坪運動地を平和公園として整備しました。
自衛隊は憲法違反
 射撃場山の大看板が見える
2009年4月 
 
 自衛隊は射撃場山の大看板を基地側から見えないようにするために植えた木を、新滑走路の完成と共に、航空法の基準内にするために高さを詰めました。その結果、今まで見えなかった「自衛隊は憲法違反」の大看板が見えるようになり、射撃場山からも基地の動きが手に取るように見えるようになりました。
   

         基地全景


      

       宮澤昭(元百里基地反対同盟委員長)逝去、82歳
 宮澤昭さんが、2010年9月14日に、病気のため逝去されました。享年82歳。百里基地反対同盟の委員長としても長い間、百里基地反対運動の先頭に立たれてきました。
 ★★ 百里弁護団の池田眞規弁護士の弔電を紹介します
    故宮澤昭氏に捧げる別れの言葉
 宮澤さん、長い長い闘いでしたね。心からお疲れ様でした、としか言う言葉がありません。
 自衛隊は憲法違反と主張して闘った31年にわたる裁判闘争。その闘いの中で宮澤さんの「戦争のためには土地を渡さない」という揺るぎない理念を貫徹し続けて闘う姿に魅せられて、親しくさせて戴いたことは、私の人生に大きな心の支えでありました。次々に防衛庁に切り崩されてゆく同盟の衰退の地獄の中で、子どもたちに土地を守る闘いを受け継いでもらおうと、水のない百里で、地下水を汲み上げて「豊かな水田を作る」という農民の大きな夢を実現して、百里の古老を仰天させた、あなたの驚くべき執念と偉大な功績は不滅です。
 そして、最高裁判所での百里裁判の敗訴判決を受けた報告集会で、「最高裁判所がどのような判決を出そうと、自衛隊は絶対に憲法違反であります」と昂然と胸を張ったあなたの自信に満ちた姿を忘れることができません。
 世界は、戦争という「殺し合い」を止めようという流れが確実に始まっています。
 「戦争のためには土地を渡さない」という百里の農民の闘いは、その先鞭とつけたものとして歴史に残るでしょう。
 宮澤さん、大きな仕事をしました。ゆっくりと安らかにお眠り下さい。
                                   池田眞規

2009年9月28日 東京新聞
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戦後50年
大地に刻む鍬と憲法
1995年1月3日から7回
しんぶん赤旗
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反対運動の歩みを知るための本

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百里物語
基地反対運動の一コマ一コマとその思い
 松原日出夫
 自費出版
 1997年11月