「みなさん、さようなら」DVD脚本レビュー
★映画基礎データー★「みなさん、さようなら」 2003年 カナダ/フランス映画 監督脚本 ドゥニ・アルカン 出演 ステファン・ルソー |
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ロンドンの証券ディーラーとして成功をおさめたセバスチャン(ステファ
ン・ルソー)のもとに、1本の電話がかかってきた。
それは、カナダのモントリオールに住む母ルイーズ(ドロテ・ベリマン)から
のものだった。「パパの具合が悪いの。帰ってきて」。
セバスチャンは、とまどった。
大学で歴史学を教える父のレミ(レミ・ジラール)は、女グセが悪く、
家族をさんざん泣かせてきた人物。
15年前に両親が別れて以来、彼とほとんど口をきかなくなってしまったセバスチャンは、
ぜったい父のようになるまいと心に誓い、これまでの人生を歩んできたのだ。
しかし、母の口調に切迫したものを感じたセバスチャンは、
婚約者のガエル(マリナ・ハンズ)を伴って、故郷に舞い戻った。
社会主義を信奉するレミは、自身の政治的信念に従って、
設備の整っていない公立病院の大部屋に入院していた。
そんな彼に最新の治療を受けさせようと考えたセバスチャンは、
CTスキャンの検査を受けさせるため、アメリカの病院に連れて行く。
「クリスマスにはCTスキャン、復活祭には墓場だ」と、
検査を受けながらも毒舌がやまないレミ。
彼がうすうす感じていたとおり、検査の結果は治療の手の施しようがない末期
ガンだった。
「友人を呼んで楽しい病室にして」という母ルイーズの頼みを聞き入れた
彼は、自分自身が、父の<幸せな最期>の演出家になろうと決意する。
「みなさん、さようなら」は残り少ない人生を謳歌する男と、彼を支える家族や友人達の
交流のドラマです。
第76回アカデミー賞外国語映画賞であの『たそがれ清兵衛』をおさえて
外国語映画賞を受賞しています。
監督は『モントリオールのジーザス』で、
第42回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞したカナダの巨匠、
ドゥニ・アルカン。
―というんですが、なんたらのジーザスは見てません。
カナダではベテラン俳優と知られるレミ・ジラールが勝手気ままな
へんてこ病人に扮し、
シリアスな題材を笑い飛ばしています。
彼の息子役のステファン・ルソーもなかなか熱演してます。
私は初めてみた男優ですが、カナダでは人気のコメディアンだそうです。
ここではひたすらシリアスな役どころですが。
ヨットの護送の仕事で太平洋上にいる妹のシルヴェーヌ(イザベル・ブレ)と
連絡を取ったセバスチャンは、
衛星通信を使ったビデオ・メールをパソコンにダウンロードし、
レミの病室に届けようとしますが、彼のパソコン
(私の使っているのと同じVAIOの505だった。)が病院内で
盗難にあい、探し出すのに一苦労します。
ようやく取り戻して病室へ、久々の娘との再会に、
泣き笑いの表情を浮かべるレミ。
さらに、父を友人が集まれる広さの病室に移したいと考えたセバスチャンは、
病院の経営者、組合と交渉。
袖の下を使い、階下のフロアを改装して父専用のキッチン付き病室を作り上げる。
まもなくその病室は、
セバスチャンの呼びかけに応じて世界のあちこちから集まってきたレミの友人
たちのにぎやかな笑い声で満たされることになった。
いっぽう、アメリカの友人の医者から、
末期ガンの痛みをやわらげるのにヘロインを使う試験治療の話を聞いた
セバスチャンは、
警察の麻薬捜査課に乗り込んで、ヘロインの入手先を聞き出そうとして
相手にされず、危険を覚悟で、麻薬常用者のナタリー
(マリー=ジョゼ・クローズ)を父のヘロイン治療の世話係として雇う。
「みなさん、さようなら」という甘い映画のタイトルや、
ベッドの周りを囲んで
ニコニコ笑っているスチール写真などで、
ハンカチなしでは見られないイタリア映画風
人情ドラマを想像して劇場に出かけたのですが、
まるでイメージが違っているので面食らいました。
むしろブラックユーモアに満たされたシニカルで、
結構お下品な笑いに満ちた中盤までの展開に目を白黒。
原題はLes Invasions Barbaresとあって
「野蛮人の侵入」という意味らしい…です。
誰が(何)が、誰にとっての野蛮人なのか?
歴史学者の父レミにとっては、
西欧文明人がアメリカ原住民を大量に殺戮した野蛮人であり、
本も読まずに金融業界で儲けている息子も野蛮人。
息子セバスチャンにとっては子供の頃から浮気で母を悩ませてきた父こそが野蛮人。
歴史学者の父は過去にあった虐殺の歴史については死者の数で語ることが
できるのですが、
しかし自分自身の死は、その意味を納得できないと受け入れられません。
―なのに容赦なく来る。だから死こそがもっとも厄介な野蛮人の
侵入なのです。
彼の死にかかわったひとたち、たとえばセバスチャンとナタリーに
かけがえのないものが残ったようです。
セバスチャンという息子は、「ビッグ・フィッシュ」のウィルや
「グッバイ・レーニン!」のアレックスよりずっと年上で
甘いところなど微塵も見せないやり手です。
母親の頼みに免じてふくれっつらのまま、能天気親父の末期に奔走します。
親父様のレミは口では何のかんのと文句をたれていますが、
息子の用意した特別病室から出て行く気配はないし、
肉体的な苦痛にもいたって弱いらしく、
ナタリーの差し出すヘロインにすぐはまってしまう。
そのくせ、容易に息子に感謝したりはしないようですしね。
考えようによっては、エドワード(「ビッグ・フィッシュ」のほら吹き親父)
よりずっと性悪男かもしれない。
でも息子もすごいですね。どっちみち治らないんだからと自分の親父を
ヘロインづけには普通しないよな。
映画の中には、父と息子の葛藤だけでなく、いろいろな視点の相違、
対比がちりばめられていたと思います。
死の意味や何が正しいということ考えても、
世界にいろいろあっても、結局人は死ぬんですよね。
人は、死に向かって生きているんですよね。
カトリックの信仰・批判が、ところどころで描かれているようにも見えます。
死に対してカトリックは、神の愛、ゆるしをとくけど、無力にみえる。
人間らしい生き方とも反するようにみえる。
私はキリスト教について詳しくないから、どこいらへんまで信仰上の倫理と
葛藤しているのか分からなかったです。
「グッバイ、レーニン」の東独崩壊の背景が分からないことより、
こっちの方がよっぽど分かりにくいし、
本で読んだくらいの知識では追いつかないですね。
カンヌの評価はそういった宗教的な部分も含めての話かもしれない。
マリー=ジョゼ・クローズの演ずるナタリーという娘が魅力的です。
レミの愛人の娘という設定ですから、もしかしてセバスチャンとは年の離れた
異母兄弟!?かもしれませんけど。出版社の校正係という仕事がありますが、
ヘロイン中毒で崩れたところに自堕落な魅力があります。
カンヌ国際映画祭では主演女優賞を手にしています。
ねたばれ改行です。
レミが最期の時を迎える別荘には、ナタリーも同行してます。
その数日前、自分が麻薬で酩酊状態になり、
レミを禁断症状で苦しめる事件を起こした彼女は、
麻薬と縁を切る覚悟を決め、
中毒治療を開始していました。
レミ本人はまったく意識していなかったが、
彼と過ごす時間を通じて人生がいかに愛すべきものかを学んだナタリーは、
レミの最後の教え子と呼べる存在になっていたのです。
そして、いよいよ別れの時が来た。
シルヴェーヌからの二度目のビデオ・メールが届いた日、
レミは家族と友人たちに別れを告げた。
「みんなとささやかな時間を過ごせて幸せだった。
君らの笑顔に送られて逝くよ」。
ナタリーは、セバスチャンの指示でレミに致死量のヘロインを注射する。
薄らいでいく意識の中で、レミは静かに微笑む。
少年時代の彼を夢中にさせた初恋の女性、イネス・オルシーニの太ももを思い
浮かべながら――。
つまりこの映画はラストが安楽死なのです。
安楽死というテーマから逆算してこのようなストーリーになったと考えれば、
途中のブラックユーモア風の展開にもなるほど納得がいきます。
でもですね、死の儀式としてあれこれ息子が走り回っていたとしたら、
あまりにも理想的、綺麗な感じで私はレミに対して嫌悪を感じます。
「男」のエゴとナルシステックな感じもする。
あ、それはセバスチャンに対しても、か。
この父親、享楽主義と自称しながらも、
収容所に対する感受性が強かったりして、
生きる意味とか、死ぬ意味をずっと考えてきたのでしょうね。
安楽死も彼(と息子)なりの結論なのでしょうが、
真似したいとは思わないです。
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