「ラスト・サムライ」DVD脚本レビュー
★映画基礎データー★「ラスト・サムライ」 2003年アメリカ映画 監督:エドワード・ズウィック 脚本 ジョン・ローガン 出演 トム・クルーズ 渡辺謙 真田広之 |
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明治維新後の日本。
近代国家の建設を目指し、武士を根絶しようとする政府に雇われ、
近代的軍隊を訓練する教官として来日したオールグレン大尉(トム・クルーズ)。
武士の勝元(渡辺謙)と出会った彼は、
その誇り高い精神に思わず心を動かされる。
「ラスト・サムライ」について、どこから話を切り出せば良いのか
迷ってます。
擬似歴史モノか、個人のプライドの話か、
民族感情のことか、アメリカの世界との付き合い方のあり様の話か、
単純といえば単純、複雑といえば複雑な映画だけに、
切り口によってえらく一方的な批評になってしまいそうです。
考証に付いては、ハリウッドのスタッフは調べるだけ調べて、
放り投げる事にした様です。
この時代、甲冑を着込んで戦う筈が無い、と衣装デザイナーも語ってます。
因みにあれは全部ニュージーランドでオーダーしたプラスチック製の鎧兜です。
だから帝国陸軍が先込め銃を使っていたりするのも承知でやってるんでしょ。
ラストで掃討兵器として出現するガトリング砲は、
導入時に帝国陸軍でも反対意見があったそうです。
あれは当時としては核兵器並の虐殺武器で、
あんなものが前線に配備されては、
兵士の士気が維持できない、と。
軍隊の組織そのものの無力感が前に出てしまいかねない、
危機感を抱かせた様です。
「年間五万ドルの維持費の掛かる中隊に拮抗する
戦力が僅か1500ドルで手に入る」という経済効果に
反論は一掃されたようですが。
蒸気船で太平洋を渡ってきたトム・クルーズの前にもや中から
壮麗なBGMとともに悠然と姿を現すマウント富士には、
「うへぇ」てなものですが。
真田広之は、オープンセットでありながら、
光量を調節するためのシルクスクリーンの屋根が開閉する
横浜の市街地のセットに舌を巻いています。
「この場に立てる喜びと、そこまでたどり着けない日本映画の
現状に」思いは複雑だったと。
話題になっている人がいます。
切られ役44年のベテラン 福本清三さんです。
斬られ斬られて通算二万回も斬られた役者人生だそうです。
この人は、オールグレン大尉の護衛兼見張り役の侍として
まったく口をきかんのですが、影のように寄り添っています。
最後に勿論一言叫ぶところがあるあたりがハリウッド映画っぽいです。
本人はこの大役の抜擢にいたく恐縮して、
「田舎の高校球児が、
プロ野球で(大リーグだったかも)投げろと言われたようなもの」
と語っています。
宣伝で来日したトム・クルーズにつたない英語で、
撮影中の礼をのべると、かの大スターは何事かしゃべった。
その声は周囲の音にかき消されて、福本さんの耳にはとどかなかった。
しかし、確かにハリウッドという単語があったようだ。
きっと「お前もハリウッドに来い」と言ってくれたのではないかと
思う、と熱き思いを語っています。
嗚呼、ハリウッドよ、映画の都よ…。
真田広之は自ら「目指す目標のひとつがハリウッド進出」と
語っている通り、英語がしゃべれるので監督やスタッフと、
撮影の合間も語らい、出番の無い日もスタジオに通って、
衣装の着こなしや所作にあれこれアドバイスをしたとか。
可能な限り勉強してやろう、吸収してやろう、
という思いがそうさせたのでしょう。
「へんな日本人がスクリーンに登場する。そういうのは
終いにしようじゃないか」
それが「次の人たちが自然に(ハリウッドに)入れる布石になれば」。
氏尾という役の上では、英語はしゃべれぬ事になっており、
オールグレン大尉とは剣の稽古などの場面で、
セリフに頼らず肉弾戦で語り合っています。
パターンではありますが、映画的で好きです。
方や渡辺謙の方は、
「ハリウッド相手にどうこうというゆとりは無かった」
と正直なところをインタビューで述べています。
勝元はオールグレン大尉と英語で一番多く語らっていますが、
渡辺謙は英語はまったく駄目で、
通訳よりセリフの意味を伝授してもらい、良く租借しながら
演技として英語のセリフをしゃべったそうです。
ところが、脚本は撮影が始まっても一晩のうちに、
くるくる変わってしまうので、
その都度、セリフの勉強しなおしになって困った、とも。
「結果として、振り返った時に、(後輩達に)いい道ができれば」
日本の出演者、スタッフ達が各自の思いで“ハリウッド”と
向き合っていたのに対し、
トム・クルーズは「僕は『七人の侍』が好きだった」と語っています。
“ぼくの生まれた町は小さくて、日本の文化を探すのは簡単なことじゃなかった。
そして歌舞伎や芸者の写真を始めて見た時、
なんて美しい色なんだろうとおもった。“
そして彼は
“いつか世界を旅してみたい、冒険してみたいと願った”
若者は田舎の町を出てハリウッドを目指す。
そして今、「日本の人たちを前に、日本の文化を語るなんてまるで夢みたいなんだ」と
語っています。
ニュージーランドのニュープリマスには、
毎日300人から600人の日本人エキストラが集められ、
更に撮影スタッフが加わって1000人近い人間が軍隊の様に
機動的に動き回って撮影を行ったそうです。
厳選された出演者でしたが、それでも乗馬が出来るのは
二人しかおらず、俳優達は乗馬や弓の稽古にいそしみ、
クライマックスでは、斜面を馬で駆け下りながら矢を放つ
シーンをこなせるまでになっています。
また対決する帝国陸軍側も600名のエキストラが、
キャンプを組んで軍事アドバイザーから教練を受けたそうです。
訓練を受けたのは馬達も同様で、
ニュージーランドで調達された50頭の馬達は、
動物保護団体の監督の元、訓練と撮影をこなしたとのことです。
ニュープリマスのラジオ局はトム・クルーズのライブインタビューに
5千ドルの懸賞金を用意したそうですが、
本人が自分でスタジオを訪れて円満解決。
本人に提供された5千ドルはトム・クルーズ自身が地元に寄付したそうです。
この映画を「“ダンス・ウィズ・ウルブズ”イン・ジャパン」
と読み解く事は簡単です。
ケビン・コスナー演ずるダンバー中尉は
自殺願望のあるうつ病気味の男として登場します。
南北戦争のトラウマがそうさせるのですが、
自殺願望はありませんがオールグレン大尉も一緒なのですが、
ダンス・ウィズ…の方は話が自然回帰よりに進んで行ってしまうので、
ほこり高い武士との出会いで、戦士としてのプライドを取り戻す
オールグレン大尉の方が理解しやすい構造になっています。
むかし「将軍」というテレビのミニシリーズを再編集した映画があり、
不思議の国ジャパンにまぎれ込んだ白人独り、というコンセプトは、
特に珍しいものではありませんが、「将軍」もそうですが
トム・セレックと高倉健出演の「ミスターベースボール」などと
比べても日本人ヒロインの扱いがまだまともです。
“物静かだが、じつは情が濃い”というのが日本女性のお決まりのパターンで、
大抵、濡れ場のシーンで見ているこちらが引いてしまうような、
スケベっぽい雰囲気になってしまっていることが多い。
小雪演ずる“たか”も性格設定はこの延長線上ですが
軽率にベッドシーンなど入れてなくて正解です。
小雪は、未亡人という感じがあまりしないのが難点と言えなくもありませんが、
身長があり、トム・クルーズと同一のショットで絵になってます。
芝居の上手い女優さんとは言い難いですが、
淡々とした感じに仕上がっていて、作品のムードにうまく嵌め込まれています。
逆に白人男性にしては身長の低い(170センチ)のトム・クルーズは
はかま姿がきまっています。
手足の長い白人がきものを着ると、大抵案山子のようになってしまうんですがねェ。
日本刀を手にしての殺陣も訓練のかいあって、なかなかのものです。
「グラディエーター」ジョン・ローガンが原案・脚本を担当してます。
この作品は、オールグレン大尉のプライド回復のプロセスを描いているように見えて、
その背後で観念上の武士道に苦悩する勝元の姿が描かれています。
彼のモチベーションのありようは物語の展開と共に変化しているので、
見ようによっては、彼は分裂病のようにさえ見えます。
日本での本作のロケーションは姫路の圓教寺と京都の知恩寺で行われたそうです。
山の上の僧院で勝元とオールグレン大尉が語らう場面などです。
その中で勝元は語っています。「完璧な花はないな」
いったい完璧な武士道とは、どのようなものなのだろうか?
政府にはびこる奸臣どもと戦う?
そのために自分の一族郎党を道ずれにする?
あるいは東京に行って帝と対峙する?
政敵、大村(原田眞人)との交渉(あるいは駆け引き)の余地はあるか?
自分が完璧な人間でないことは、勝元自身が良く知っています。
それはオールグレン大尉とどう向き合うべきか、迷いの出る中盤からも伺えます。
はじめ彼は大尉本人に言ってます。「敵を知ることだ」だからお前を生かしておく。
でも中ほどで、たかに問われてたじろぎます。
「どうしていいのか(どうしたいのか)わからない」
大尉は勝元にとって鏡です。
はじめ彼は確信犯たろうとして、よろい姿で迷わず新政府の建設した鉄道を襲撃しますが、
オールグレン大尉との出会いで、彼もまた揺さぶられるのです。
「グラディエーター」でも皇帝が迷いを抱えているらしい場面が出てきます。
しかしドラマの構成上、ラッセル・クロウ演ずる将軍の前で、
皇帝に悪役以上の役柄を演じさせるわけにはゆかず、
彼の内面の葛藤は、ラストでよせば良いのに
自ら剣を手にしてコロセウムで将軍と対決するという、
選択を取らせるに留まります。
その意味で、勝元と言う“悪役”は、
より巧みに描きこまれているといって良いでしょう。
衣装には黒澤組の福田明氏が参加し、特に宮中の場面は、
皇室関係の第一人者、仙石宗久氏が参加してます。
美術のリリー・ギルバートはセットの東京について面白い話をしています。
「あれはのちに銀座と呼ばれる地区になる場所だ。
大村のビルはレンガ造りなのだが、流行の赤レンガが、
これがまったく日本の気候に合わないことが分かるのはずっと後のことで、
そのころには銀座はレンガ造りの建物だらけになってしまっていた」
そこまで研究したスタッフが、
村人が池のように丸い田んぼで田植えをしたり、
村の入り口に鳥居があったり、
道端に仏像があったり、…ふつうお地蔵さんでしょうが。
―という凡ミスがあるのは不思議です。
あれはパロデイなんでしょうか?
フロ場がなくて滝や温泉(?)で汗を流しているのは、
ドラマの展開上必要だったのでしょう。
でないと、濡れ髪のたかとオールグレン大尉がすれ違う場面は
成立しなくなってしまいます。
侍が何故、農家に住んでいるか?ですが、
勝元は江戸屋敷が一部のみ出てくるだけですし、
あとは山寺にこもっている。
吉野の里の侍達は、
子飼いの家臣たちというより、勝元の武士道に共感した下級武士たちが
ついて来てあの村で住んでる、とばかり思っていましたが、
違和感あるんでしょうか?
本来の城や城下町を離れて、
山間の領民のいる村に立て篭もっている、そういう設定だと解釈してます。
おかしいといえば、家族が大きなお膳を囲んで食事をしているのですが、
時代劇では通常、一人づつ膳を使用していますし、
風俗考証に従うなら男性は女性、子供達とは別の部屋で食事していたはずです。
でも家族の絆は…、
オールグレン大尉が子供達といっしょに茶碗でメシを食う場面は
とてもとても大切で、重要なテーマですので、
異様に見えない範囲で考証をいじっている様に見えます。
エドワード・ズウィック監督は、
チャンバラ時代劇のファンを自負している人ですので、
当然の様に忍者軍団が、吉野の里に夜襲をかけます。
中盤のクライマックスですので、パロディの様には見えません。
「歴史劇の正確さより、チャンバラの面白さを追いたかった。
これはエンターテイメントなんだ」と語っています。
まあ、「水戸黄門」だって、忍者を使ってるんですから、
あんまり人のこと言えた義理じゃないです。(笑)
むしろ氏尾が敵に蹴りを食らわせたり、
勝元が忍者の膝に斬りつけたりするのは、
嘘の中のリアリティがあって、「やるではないか」と私は感心しました。
テーマソングが轟き、
「暴れん坊将軍」「桃太郎侍」のような殺陣をやられては目もあてられません。
ねたばれ改行です。
勝元一党は、天皇の東京入りにあわせて上京しています。
映画の冒頭で政府軍と戦っていた彼が、
政府の御前会議に姿を見せる場面は唐突です。
1度役職を辞した彼が、大村らと駆け引きののち、
会議に姿を見せたのだと解釈するのが自然ですが、
説明不足で、そのあと、身柄を拘束され、そこから逃走する
繋がりが掴み難いです。
ガトリング砲で蜂の巣にされて、桜の花を見て「完璧だ」とつぶやいて
死ぬ場面は、玉砕で彼の武士道が完結した
という意味にしか取りようが無いのですが、
あとに残される女子供、領民への配慮が欠落しています。
彼らのためにも死ぬに死ねない、という話になって、やっぱし守るためにも
戦わなきゃあ、ということになるととっても可哀想になってしまいそうですが。
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