「A.I.」DVD脚本レビュー

「A.I.」★映画基礎データー★
「A.I.」
2001年 アメリカ映画
監督 スティーヴン・スピルバーグ
原作 ブライアン・オールディス
脚本 イアン・ワトソン スティーヴン・スピルバーグ
出演 ハーレイ・ジョエル・オスメント ジュード・ロウ
              

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小さかった頃、教室で理科の教育テレビを見させられた事を思い出
しました。
卵の殻を破ってひよこが誕生します。
ひよこの目の前に積み木が差し出され、
結んだ糸が引かれると積み木が動き出します。
「ひよこは生まれて初めて見た動いたものを
親だと認識します。これを゛刷り込み゛といます」
ひよこは鳴きながら、積み木を追いかけカメラの外側に姿を消しま
す。
番組はそこで終わりです。
子供心に随分残酷なことをするものだと思いました。
たかだかテレビ番組ひとつ作るために、
ひよこに永久に積み木を追わせ続けさせるなんて。
A.I.を見て何十年ぶりかに、その時の怒りを思い出しました。
カメラを外側に姿を消したひよこは、結局どうなってしまったので
しょう?


A.I.=手塚治虫の鉄腕アトム説は私も賛成です。
これを都市文明論的に論ずると『メトロポリス』になると。
ジャンクフェアのシークエンスがダサいという反応がwebで見られました。
私は思うのですが、ジャンクフェアのヴィジュアル面の貧弱さは
はじめから計算されたものだったのじゃないかと。
地球の温暖化で都市の大半が水没し、少数の先進国のみが
かろうじて文化国家の体裁を整えている。
その体裁を維持するため、厳しい出産制限が科せられ、
中産階級もメカによる「代理子供」で我慢しなければならない時代
のドラマです。
ライセンスを持たないはぐれメカを狩り立て、
リンチにかけて憂さを晴らしている観客達はこの映画で唯一マイノ
リティー達の顔が見られるシーンです。
『メトロポリス』ではズバリ、
ロボットに仕事を奪われた貧民層が暴動を企てるという話がありま
すが、
ジャンクフェアも同じ事で、少なくとも警察のような国家組織が運
営に
絡んでいるものではないでしょう。
デイビットがジゴロ・ジョーとともに逃げまどう夜の街は、
清潔で安全なデイビットの人間の養父母達が、
住んでいた家とは比べものにならない下町のスラムです。
トレーラーハウスに暮らす有色人、貧乏白人達が国家権力を握る一
部の上流階級に表立って反抗することも出来ずに、夜な夜なメカい
じめに興じているのがジャンクフェアです。
檻の中でメカの1人がデイビットに言っています、「歴史は繰り返
す、だよ」と。頭が半分壊れた子守メカがデイビットを抱き締めて
子守歌を歌うシーンの美しさ、グロテスクさ、キューブリックなら
ではの世界ではありませんか。

テディは短編小説の原作「スーパートオイ」にもデイビットととも
に登場する重要人物(?)です。
キューブリックが28年も前に映画化権を手に入れた「スーパート
オイ」は
デイビットとテディがたどり着いたティン・シティ(映画ではルー
ジュ・シティと言う名に変わっている)で一生を終える
というものでしたが、キューブリックはこのラストが不満で、脚本
に招聘した原作者オールディズが逃げ出すまでラストの書き直しを
命じ続けたそうです。
高名な作家、脚本家が次々に招かれ山のような検討シナリオを残し
て立ち去って行きました。
此処でこの企画は、いったん挫折したそうです。
検討シナリオはキューブリックの命名により「ピノキオ」と名付け
られていたようです。
「スーパートオイ」にピノキオのテーマを持ち込むことでキューブ
リックは
人工知能の問題を再構築しようとして壁に突き当たったのです。

テディには知性のようなものが感じられ、既に人工知能を持ってい
るかのごとく振る舞うシーンが幾つかあります。
ドラマ上、このキャラクターに与えられた特権かと思っていたので
すが、
でも、殺人事件に巻き込まれたジゴロ・ジョーが自分の胸にひかる
ライセンスを切り捨て遁走するくだり(※)などから、
自我の目覚めはデイビットに固有のものでなく
世代の下った他のメカたちにも自我の片鱗のようなものがそれぞれ
存在し、全てのメカ達は進化の途上であると考えた方が自然なので
はないでしょうか。

(※プログラムが全てなら、ライセンスを持つ彼は、自己保身より
国家権力が優先されるようプログラムされているはずです。)

余談ですが、ジュード・ロウは踊るシーンのために三ヶ月ダンスと
タップの稽古を受け、オスメント君はプールのシーンのためにス
キューバーダイビングを学んだと語っています。今ハリウッドで
もっとも忙しい2人が役づくりのためにそれだけ入れこんでいま
す。
その甲斐あってポーカーフェイスのメカ顔でありながら、ボディラ
ンゲレッジの豊かなジゴロ・ジョーは実に表情豊かに見えまし、
プールのシーンは家族の決定的な破局を実に上手く撮らせていまし
た。
声の出演で、ドクターノーが、ロビン・ウィリアムズ、
ブルー・フェアリーがメリル・スリープが出演とか。贅沢だ、、。

(以下、ねたばれ改行です。)

ピノキオのデイビットに「人間の子供になりたい」と言わせてし
まったばっかりに、キューブリックは窮地に立たされます。
デイビットがメカのまま、養母と再会するとか、ちがう家族の
一員になるとかで幸せになったところで、テーマが未解決のまま
残ってしまうという状況に追い込まれたのです。
結構多くの観客が、現代でデイビットが「本当の愛」を手に入れて
欲しかった、と望み、そうなっていないラストにブーイングを鳴ら
したようですが、
これは別にスピルバーグが勝手に原作のラストを変更してしまった
というわけではなく、キューブリックのたっての望みにこたえて脚
本を仕上げたためです。

「ジュラシック・パーク」の成功をキューブリックは目を細めて喜
んだと伝えられています。
A.I.のビジュアル化に技術的な見通しがついたためです。
が、同時に頓挫したピノキオの代わりに進めていたもうひとつのラ
イフワーク「ホロコースト」は、同じユダヤ系でもあったスピル
バーグが「シンドラのリスト」によってオスカーを手にしたことに
より、
キューブリック自身の判断でお蔵入りにさせざるを得ませんでし
た。
キューブリックの招きに応じてイギリスに渡ったスピルバーグは、
ピノキオの千枚ものストーリーボードと、90ページに及ぶシノプ
シスを見せられ、ともに作品を作ることを約束します。

ベトナム行きを大学進学で免れた青年スピルバーグの心を魅了した
のは
キューブリックの「博士の狂った愛情」でした。
いらい大抵の映画人が望むようにスピルバーグもまた、いつのひか
キューブリックとともに仕事がしてみたいものだと夢を見ていたの
です。
スピルバーグは家族にも内緒で書斎にキューブリックの専用ファッ
クスを置き、ピノキオの構想の練り直しにかかりました。
キューブリックがプロデュースし、スピルバーグが監督を勤めると
いう事がキューブリックの側から提案されていたようですが、まだ
決定には至っていませんでした。
キューブリックは腕ならしに撮影したはずの「アイズ・ワイド・
シャウト」の完成を見ることもなく亡くなります。
超秘密主義が仇となって、ピノキオの全貌を知る者はこの世でスピ
ルバーグただ1人という事になってしまいました。
スピルバーグは、「未知との遭遇」以来24年ぶり(一説ではポル
ターガイスト以来14年ぶり)に脚本を書きました。
プライベート・ライアンの編集作業後、二ヶ月でシナリオを完成さ
せると、
さっそくA.I.の制作に入り、丸二年かけて映画を完成させたそ
うです。
ジュラシックパーク3は他の者が監督しているし、
インディージョーンズの新作も構想のみで制作は行われておらず、
スピルバーグはA.I.に専念していたものと思われます。

不治の病から生き返ったマーティンが初めてスウィントン家に姿を
見せた時、なあんだ、デイビットに似てないじゃないか、と思いま
した。
雰囲気は似ているけど、名前からして違うし、養母モニカがあれほ
ど動揺するほど2人が似ているとは思えませんでした。
水上都市マン・ハッタンで、自分と同じメカデイビットと顔を合わ
せたデイビットはパニックを起こします。
「僕が特別にユニーク(個性的であること)だったからママは愛し
てくれ
たんだ」と信じていたデイビットは自分が開発途上のメカの一体に
過ぎぬ現実を突きつけられます。
デイビットとピノキオのジョゼッペ爺さんに当たる開発者ホビー教
授とのやり取りで、デイビットは自分が養母に愛される根拠を述べ
ています。
(記憶のままに書いているので、実際のセリフとは食い違いがある
とは思いますが、意味するところは外していないはず)

愛は、自分と相手との距離感に存在すると長いこと私は思ってたの
ですが、デイビットは自分のオリジナリティこそが愛される根拠で
あると言いきっています。
「この世で唯一1人のあなた」を愛する、というのは私たちにも分
かりやすい心情です。いいかえれば愛を確信している者にとって、
「自分は愛されるに値する個性がある」という事になる。
デイビットは「人間の子供になりたい」と望みますが、これは自分
がメカであるが故に、「唯一の個性」を所有しているとは断言でき
ない、と言うことをデイビット自身が実は気がついている事を示唆
します。
ホビー教授は実は我が子の生き写しとして創ったデイビットの手を
取り
告げます。「そうとも、君は世界最高、たった1人の個性的なメカ
だよ」。
デイビットはメカデイビットを叩き壊し(唯一デイビットが排他的
に暴力を振るう場面)、海に身を投げます。(投身自殺に見えま
す)
 空海両用ヘリに乗ったジゴロ・ジョーがデイビットを救出します
が、
それは2人の別れの時でもありました。警察ヘリに吸い上げられ宙
を舞いながらジゴロ・ジョーはデイビットに最後の言葉を残しま
す。
「ぼくは存在した。そして消えていく」
心打たれる一言でした。彼にもまた、自分というものがあったので
す。

デイビットの旅は個の確認、自分探しの旅でした。愛が個の確立の
根元にあるというテーマがここに完結しています。

そして二千年後ーー。
こういう跳躍の仕方というのはSF小説的です。
(キリストに対するメタファーで「二千年後」なのだそうです)
そう言えばこの映画の感動の仕方は、アシモフの「幼年期の終わ
り」というSF大河小説の感動の仕方に似ています。
二千年後の世界の住人はメカの末裔かも知れませんが、たかだか二
千年で人類の記憶の全てを失ってしまうのは少し早すぎないか?
私はむしろ異星人のような、異なる文化圏からの来訪者のような存
在だと思いますが、まあ、どちらでも良い話でしょう。
A.I.はビジュアル面ではSF小説のイラストの世界の焼き直しだと
思うし、
技術的にもルージュシティの中で、ミニチュアとセット、CGの合
成を俳優の動きに併せて背景ごとカメラが回り込むシーンを除いて
は、特筆すべき改革は見あたりません。むしろ水上都市の撮影が雑
で、もろミニチュアに見えてしまったくだりは欠点だと思ってま
す。
A.I.の優れた点は、この二千年後の世界におけるエピソード、ドラ
マの視点の変換だと思います。小説は自分のペースで読んだり、
戻って読み返したりが可能ですが、映画は時間の芸術です。
私は表現の多様性の北限が広がるのを感じましたが、
水上都市の場面で、既に感情移入出来なくなってしまった人には、
ここで養母が再登場するくだりは、ただ哀しいばかりで、
むしろ怒りさえ感じたのではないでしょうか?

未来人はデイビットの傍らに腰を下ろし、語りかけます。
技術的に母を、その記憶も含めて再生することは可能だが、
かえって悲しい思いをするのではないか。私たちはただひたすらに
君の幸福を願っているのだが。
永遠も、一日も同じ事だよ、とデイビットは答えています。
未来人はキューブリックであり、スピルバーク自身でしょう。
愛の真実がどんなものかは、結局謎だ。
形がないし、ひとつところにとどめておくこともかなわない。
しかし芸術に音楽にあらゆる人間の生活に愛は確固として存在し、
文化、文明の源であったことは疑いもない事実だ。
未来人達は超高度に進んだ科学力を有し、物質文明の頂点にあるら
しいのだが、そのシリコン・マシーンのような身体に血は通ってお
らず、
愛を知らない。
叡智を極めた彼らはその智の力によって文化創造のすばらしさを理
解できるが、自らは愛を創り出すことは出来ない。
「愛を知る人間を知っている、記憶している君は、我々にとって、
かけがえのない存在だ」
このデイビットに対する敬意と賞賛の言葉はそのまま人間に対する
敬意と賞賛でしょう。ここでグッとくるか、理屈だと感ずるかでこ
の映画を楽しめるかどうかが道が分かれると思います。

テーマ的には、未来人がデイビットと語らう部分で本当に完結して
いるので、実際に母親が出てくるシーンはエンディングのあとの
フィナーレのような部分ですね。
母子の間でセリフのやり取りがオフになって
いるのは、この部分の会話そのものはドラマ的に殆ど意味がないか
ら取りのけてしまったと言うことでしょう。
でも母親の登場シーンがなくて未来人と話し合ってお終いじゃ、
いよいよ分かりにくい話になったでしょうね。
この部分が「泣けるんだ」という人と、
「いまさら、遠い未来で母親のコピーが出て来て何の意味がある。」と
逆に不快感を募らせる人とと二分したようです。

そうですね、やっぱりストーリー的には、
悲劇として幕を引くということで、観客の側にボールを投げ返した
と理解しても良いんじゃないかしら。
【デイビットの不幸を現実にしてはならないーー。】


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