「BOY A」

「BOY A」映画チラシ■作品基礎データ
「BOY A」
2007年、イギリス映画
監督:ジョン・クローリー
脚本:マーク・オロウ
出演:アンドリュー・ガーフィールド、ピーター・ミュラン

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 穏やかな光の差し込む部屋で、机をはさみ向き合う青年と中年男のテリー。
テリーは青年に「新しい名前を決めなさい」と語りかける。
青年は迷いながら「ジャック・パリッジ」を選ぶ。
ジャックはテリーから「エスケイプ(脱出)」という名のスニーカーをプレゼントされる。
24歳になるジャックは、人生の大半をこの場所で過ごしてきた。

 二人は車である場所に向かう。
車中から見る街の風景。
ジャックの目には何もかも新鮮に映った。
ジャックはテリーの甥を名乗り、アパートで暮らし始める。
しかし、アパートの前には、ジャックを監視する警察の車が止まっている。
テリーはジャックのソーシャルワーカーだった。
ジャックは運送の仕事を得て、職場の同僚のクリスと仲良くなり、
事務を担当するミシェルに恋心を抱く。

アパート暮らしを始めたジャックは、
悪夢に悩まされる。青年の素性が現在と過去を並行に描くことで浮かぶ仕組みだ。
かつて「エリック・ウィルソン」と呼ばれた少年時代のジャック。
学校でいじめられ、家庭では酒びたりの父、がんに冒された母と暮らす。
彼の居場所はどこにもない。
ある日エリックは、いじめっ子から救ってくれた少年・フィリップと出会う。
実兄から性的虐待を受けていたフィリップは、
同じ境遇のエリックと急速に仲良くなる。
だが、フィリップには暴力的な一面があった──。

一方、現在のジャック。クリスの友情も順調に育み、
ミシェルにも愛を告白し、彼女の部屋で二人は結ばれる。
初めての経験に戸惑うジャックを、ミシェルは優しく包み込む。
何もかも順調に見えたジャックの新生活。
一方、メディアでは、重大事件を起こし「悪魔の少年」と呼ばれた少年が、
成人となり社会復帰した──と話題になっていた。
ジャックとクリスはある日、交通事故に巻き込まれた少女を救い、
世間から注目される。
しかし、これをきっかけに過去が白日の元にさらされることになる。

少年時代に重大犯罪を起こし、14年の刑期を終えて社会に出た青年と、
新しい人生に立ちはだかる社会の壁を描いた作品です。
出演は「大いなる陰謀」で映画デビューしたアンドリュー・ガーフィールド、
「マイ・ネーム・イズ・ジョー」のピーター・ミュラン。
監督は「ダブリン上等!」のジョン・グローリーです。


シネトレ試写会で観ました。

前科のある若者の社会復帰のドラマ。
余分なものがなく、ただそのことだけのドラマ。

犯行の詳細は、ネタばらしするなと製作者側から「お願い」が出ている。
だから詳細を書くことは止めるけど、
前科者の社会復帰のドラマは、過去にも多く作られているが、
それらとの違いは、
少年犯罪であり、主人公が14年の懲役後、
まだ24でありながら浦島太郎状態で、
見知らぬ土地でひとり生きていかねばならないということ。

そうした事情は映画の冒頭、
形ばかり伏せられているが、マスコミは出所を華々しく報じているし、
ネットでは素性を伏せて、
社会復帰しようとしている犯人は懸賞金付で
追いかけられているということなどが
出てくるので、すぐわかってしまいます。

主役ジャックのアンドリュー・ガーフィールドが魅力的です。
これはイギリス映画だし、日本で知られた俳優は出ておらず、
アクションもCGもないきわめて地味な映画なのだけど、
彼のおかげでラストまで緊張感を持って観られます。

当日の司会進行役のシネトレの安井さんが
「もう一度がっつり観てみたい作品」と称されていたけど、
伏せられたネタ部分まで見た上で、
あらためて見直すと、
なぞめいて見えたジャックの時々の言葉、表情などが
別の意味を持ってくるに違いなく、
興味深い問題定義だと思いました。

ジョン・クローリー監督と脚本のマーク・オロウの
デビュー作「ダブリン上等!」は未見です。
この作品が第二作、ということですが、本作は
筋書きの凄さでかんきゃくを驚かせるような作品ではなく、
若者ジャックの心情中心の叙情的な作風で、
そこが良かったと思います。
監督のインタビューによると、監督が決まる以前に脚本は
完成していたようだけど。

テリー役のピーター・ミュランがまた素敵ですね。
ジャックにとっては理想の父親なのだけど、
実の子クリスとの間は最悪で、
そのクリスの嫉妬が、ジャックの正体暴露に繋がるのは皮肉。

けど、イギリスにも引きこもりというのはあるのだねぇ、
思わぬ発見。

ジャックの犯罪といい、クリスの引きこもりといい、
いまの日本の社会の一面と酷似しているのに、ぞっとしたです。
日本が進んだのか?
世界は等しく病んでいるということか。

ラスト、桟橋の上で泣くジャックは、次のカット、ダイブして
それでお仕舞いと言う事なのか?

少年時代のエリック(ジャック)出てきて、犯行にいたるまでの経過が
丁寧に綴られているにもかかわらず、
彼の内面は語られず、
いわばブラックボックスのままです。

エリックとジャックの間に横たわる落差は、
恐らくテリーとの出会いと成長によるものだけど、
人間味が出てきて、不幸になるというのは悲しいことです。

シネカノンの試写室が会場でした。
いただいた資料はプレスシートかと思ったら、
どうやら後日、劇場で販売予定のパンフのようです。
自分には、そこに収録されている
ソーシャルワーカーの文章が面白かったです。
以下に一部を転載します。

ソーシャルワーカーとしての経験からお話すると、
少年が犯罪者になるのは、
彼が異常性格だったり、
生来その資質を持っていたということではなく、
なるべくしてならざるを得ない状況に追い込まれた結果だと言えます。

そういう少年たちは家族の中では被害
者であったりするわけです。

被害体験を今度は加害体験として具現化する、というところが
                 =
あります。
この映画の主人公の「BOY A」ともうひとりの少年、
ふたりの背景には確実に広い
意味での児童虐待があります。

彼らの中に溜め込まれた怒りがある時何かをきっかけに、
偶然な形で暴発し、手をかけてしまう、
という行動に出てしまったのだと思いました。

 これは、ある女性(当時30歳)の話です。
彼女は乳幼児の頃から両親から虐待を受けていたのですが、
彼女が神戸の少年事件をニュースで聞いた時、
そう言えば、
自分も中学生時代に幼児を残虐な形で殺籔することを何回も何回も夢想し、
そうすると自分の中の怒りがすっと消えていたなと、
思い出したそうです。

虐待を受けていた人たちは、
溜め込まれた怒りを発散し鎮めるために、
そして自分自身の精神を安定させるために、
自分より弱いものを殺識するということを頭の中で考えるものなのだ、
と気づかされました。

もちろん夢想することと実際に手を下すことは違いますし、
私も加害者を擁護するつもりはありません。
しかし、被害者や被害者家族、加害者、
そしてそれ以外の人たち、
それぞれが、それぞれの立場で物事を見なければいけない筈なのに、
現実には多くの社会の人たちが被害者家族と同一化して、
加害者の背景を考えずに、
執鋤に加害者糾弾という立場に立ってしまっていることが残念です。

名前を変えるというのは大変なことだと思いました。
自分が自分としてあるという自己の存在感覚は非常に大切なことですが、
名前を変えなければ生きていけないということは、
結局自分が自分でなくなるということです。

それまでの過去を全部消さなくてはならない、
そうしなければ社会で生きていくことができないと
いう圧倒的な無言の圧力を浴びているわけです。
それは、今までの自分の全存在を否定されたということです。

 映画の主人公は、愛する女性ができた時に真実を吐露したくなった。
その葛藤を見ているうちに、
自分という存在までも抹殺し、
否定しなければその後の社会で生きていけない、ということを科するのは、
さまざまな刑罰がある中で、
もしかしたら-番残酷な仕打ち-刑罰一なのではないだろうかと思いました。
事件を起こす人の多くは、
自分が自分としてあることの安定感、
つまり存在感覚が根づいていないからこそ、そうした事件を起こしているのです。
ですから、更生ということの中で一番大切な課題は、
その人自身の中に存在感覚を根づかせることだと思います。
その存在感覚のもとになる名前すら奪う、
過去の人生を奪う、ということを現に、
今、私たちはしているんだ、ということの非情さを感じました。

神戸の事件の少年が
社会に出てきたというニュースが流れた時、
興味津々の人たちからうまく逃れて、
社会に早く馴染んでくれればいいなとしか思っていませんでしたが、
『BOY A』を見て、自己の存在自体を、
否定されるところから出発させられるということに対して、
そんな酷いことを私たちはしていいのか、
そこまで強いていないと言いながらも結果としては
社会がそれを強いてしまっているという問題をつきつけられた、という思いです。

少年の犯罪について、
今の法務省がやっている「更生」はとても表面的だと思います。

ただソーシャルスキルトレーニングとか、
色々な訓練や反省文などを書かせて悔い改めさせて、
真面目な生活を送らせる、という形が主です。

けれども、少年院にいる少年の75%が児童虐待
をうけているというアンケート結果があります。
しかもそれは、虐待を受けている、
という自覚のある少年達が75%で、
自覚のない子どもたちも沢山いますので、
そういう子を含めると9割方が広い意味での被虐待体験を受けていると思います。

そうした少年に対しての更生で
求められることは何かと言ったら、
先ほどの自己の存在感覚を自分自身の内部に根づかせる、
それが ̄番の道なんです。

しかし、今の少年院や児童自立支援施設では、
-番大切なことがプログラミングされずに.
御座なりになっています。
スキルやトレーニングで、更生ができると
思っているのです。

 また、アメリカやイギリスのソーシャルワーカーは、
大学院で実践的な教育を受けて養成され、少年と関わっています。
けれども残念ながら日本では、多くの場合、
専門の勉強はしていない.
時間や経済的にそれなりに余裕のある地域の名士と言われている
年輩の保護司の方々
が善意で少年と関わるというシステムになっています。

保護司というシステムの現状は、
行政がいかにお金をかけないですませるかであり、
そして、事件を起こした少年に対する第一の課題は何か、
という問題と法務省が真剣に向き合っていない結果だと思っています。

社会福祉士の資格も内容としては高齢者や障害者の福祉が優先されて、
子どもの福祉には対応できていないのが実情です。
国家予算の中でも、子ども福祉の予算は、軽視されています。
政府は、「未来を担う子どもたち」と言いながら、
子どもには選挙権がないので、
少子化対策以外は重要視していないんです。

 『BOYA』では出所前から、
あの青年とソーシャルワーカーのテリーには
信頼関係ができていて、それによって青年が自己の存在感覚を
根づかせることが出来てきたのだと感じました。

こういう例は日本では、
民間のソーシャルワーカーが長期に関わり続ける以外に
ほとんどあり得ません。

たとえ、少年院でとても親身になってくれる教官がいて、
その人と信頼関係が築けたとしても、
退所したらその教官と会ってはいけないのです。

 昨年の9月にイギリスを訪れ、
子育て支援の「ホームスタート」という民間組織の方に会ったのですが、
その組織は自治体から3分の2の資金が支給され、
残りは寄付で成り立っていました。

日本に比べるとイギリスやアメリカのソーシャルワーカーや組織は
かなりシステムとして整備されていますし、
児童虐待や少年事件にたいしてソーシャルワーカーが活躍しています。

もちろん映画にあったように、
社会の風潮というのはマスコミの過激報道等によって
左右されてしまうことがあるでしょうが、
それでも現場で実際に関わる人が、
少年と信頼関係を築いていくシステムが機能しているだけで、
日本とは大きな違いがあると思いました。

 イギリスの児童精神科医ウィニコットは、
「人間存在というのはbeing(ある)とdoing(する)
の二重存在だが、beingはdoingに先行しなければならない」と言っています。

現代の日本の親はbeingを根づかせることをせずに、
doingばかりをさせることが多い。
子どもはbeingで親と信頼関係を築きたいのに、親はdoingばかり、
こんなにしてあげたのにと思い、
子どもはそんなことを求めているわけではない、
という食い違いを生じさせています。

もし、親や先生や全ての人が子どものbeingを受けとめるという立場で関われば、
子どもにとってはずっと生きやすい社会になるでしょうし、
生きやすい社会になれば聯少年犯罪は激減すると思います。
しかし、そういう方向には進んでいないというのが現実ですよね。

 元ひきこもりの女性は、
近所のお姉さんが優しく話を聴いてくれたという6歳頃のたった
1回の経験によって、今の自分がある-beingが根づいたのではないか-
と思ったそうです。

親でなくても、beingを根づかせることのできる人は
幾らでも周りにいると思うんです。
ソーシャルワーカーの仕事は、
自覚的に子どもに関わってbeingを根づかせていくことだと思います。

そのためには、何かをしてあげるのではなく、
時間を共有して、その場にただ存在すること、
それこそが子どもに存在感覚を根づかせ、
自己肯定感を醸成させていくことになるのだと思います。

存在感覚が根づいてしまえば、
少年事件や成人してからの事件の加害者になることはないのですから・・・。

公開されたプロダクション・ノートには、
脚本家からのメッセージが載っています。
ライターの発言が表に出るというのは
希少価値のある出来事です。
作品の根底を知る上で、良いテキストになるので
以下に掲載します。

脚本:マーク・オロウ
この映画はジョナサン・トリゲルの小説「BOY A」を原作にしています。
初めて読んだとき、私は特に最初の2章に興奮し魅了されました。
そのタイトルから想像できますが、主人公は過去に何か大変なことをした。
しかし、はっきりと何をしたかはわからない。
ここに強い感情の緊張が生まれたのです。
映画『BOY A』で、私たちがやろうとしたことは、
原作同様、観客に、彼が何をしたかを具体的に知る前に、
まず彼という人間に出会ってもらうことでした。

そして彼と感情の旅をしてもらいながら、
彼が過去に何をしたのかを少しずつ明らかにしていく。
はたして過去を知ることで、
それまで彼について感じていたことは変わるのか。
それがこの映画にとって最も大切な点です。
ですからどうぞ、先入観をすてて、主人公の青年を見てください。
そして、まだこの映画をご覧でない方には…

以下はネタバレとなるのでmixi独身映画ファンコミュニティ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1299114
にて『BOY A』の頁をご覧下さい。



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