「永遠のマリア・カラス」映画製作裏話
★映画基礎データー★「永遠のマリア・カラス」 2002年 フランス映画 監督 フランコ・ゼフィレッリ 脚本 マーティン・シャーマン 出演 ファニー・アルダン |
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美声を失い、引退生活をおくる天才オペラ歌手マリア・カラス(ファニー・アダン)。
ある日、彼女のもとに映画出演の話が。
全盛時に録音した『カルメン』を映画化しようとする試みに、最初こそ嫌がったカラ
スも意欲的にとりくみ、やがて映画は完成するが……。
「コンフェッション」のプロデューサー、チャック・バリスという男が、
およそ感情移入の出来ない自己顕示欲の塊のようなプロデューサーであったのに対し、
「永遠のマリア・カラス」に出てくるプロデューサー・ラリー(ジェレミー・アイアンズ)はいい男であります。
プロモーターとプロデューサーってとこがどう違うんでしょうねぇ、ともあれ。
隠遁生活を送るマリア・カラスの才能を惜しみ、また、一人の古き友人として、
現在の彼女のありように心を痛めてもいます。
当然、彼は「永遠のマリア・カラス」の監督である巨匠フランコ・ゼフィレッリが
自己投影した人物なのですが、面白いのはラリーがゲイとして設定されていて、
耳の不自由な美青年の画家の恋人まで出てくるという点です。
たぶんマリア・カラスに対する彼の献身を、単純に男女の愛情表現と観客に解釈され
たくない、という配慮によるものではないかと私は睨んでいるのですが。
ジェレミー・アイアンズは濃い目の容姿、濃い目の演技で、これまでどうも怪人変人
役が多かった(「運命の逆転」「Mバタフライ」「タイムマシン」)ように思えるの
ですが、この作品では声を失ったディーバ“歌姫”を相手に悪戦苦闘する常識人をケ
レン味なく演じて、徹底した受身の芝居で“大人の男”を感じさせます。
ガキにはわからんでしょう。おとなの男の懐の広さの魅力と言うものは。
映画は実在の天才オペラ歌手、マリア・カラスの死の前の数ヶ月をフィクションとし
て描いています。
生前から彼女と深い交流のあったゼフィレッリ監督(「ロミオとジュリエット」
「チャンプ」「エンドレス・ラブ」「トラヴィアータ/椿姫」「ジェイン・エア」
「ムッソリーニとお茶を」)の元には、マリア・カラスの死と同時に、ハリウッドの
二大メジャー映画会社コロンビアとパナマウントより、彼女を主人公にした映画企画
が持ち込まれたそうですが、
“それはVIPのスキャンダルものに過ぎず、私は彼女の人生の惨めな部分を公に売
る気にはなれなかった” とゼフィレッリ監督は両方とも断っています。
全盛時に録音した『カルメン』を声だけ生かして映画化するというアイディアそのものは、
まったくの“漫画”であります。
なにしろ、マリア・カラス本人に、口パクでカメラの前でカルメンを演じろと言う話
ですから。
当然、映画の中でもラリーに企画を聞かされたマリアは憤激します。
が、――この大法螺話は、いえ、現実のマリア・カラスの私生活のエピソードの何か
を切り取って映画にするより、
いったん、ドラマ全体を大きな作り話の舞台にのせることで、嘘の中の真実(まこと)
を描き出すことにある程度成功しているのではないでしょうか?
恐ろしいことにゼフィレッリ監督の弁によると「トスカ」で似たような企画が映画の
舞台となった77年の同時期用意されたことがあり、結局、マリア・カラス自身が土
壇場で話を蹴って実現はしなかったそうです。
「永遠のマリア・カラス」の脚本は演劇「ベント」の原作者として知られる
マーティン・シャーマンの手によるものですが、
ゼフィレッリ監督はインタビューで、「トスカ」の企画の頓挫を今でも悔いており、
ファニー・アルダンを彼女に見立てて、「当時の仕返しをしたんだよ」とも答えています。
映画では、カルメンの成功で怪しい情念の炎を燃え上がらせたマリア・カラスが
「トスカ」の企画を逆にラリーに持ち込む、という更にひねった展開が用意されています。
「愛と哀しみのボレロ」でデビューし、トリュフォーの「隣の女」でスターになり、
そしてトリュフォーの遺児を出産したファニー・アルダンは、
「スワンの恋」「メロ」「エリザベス」「8人の女」でゆるぎない地位を築くフランス女優ですが、
マリア・カラス役はすんなり彼女に決まったわけではなく、
グレン・クローズ、メリル・スリープ、アンジェリカ・ヒューストンと、
名だたるハリウッド女優達が候補に挙がっては消えていったそうです。
実際、マリア・カラスはそれら候補者達の誰とも似ておらず、ゼフィレッリ監督自身
は、一時オペラ歌手のテレサ・ストラータスを候補に考えていたそうですが、
結局のところ、テレサは
舞台の上でしか歌う事の出来ぬ人で、何より当人がスクリーンの中でマリア・カラス
を“演ずる”に恐れを抱いたため実現しなかったようです。
日本では見ることは叶いませんでしたが、ファニー・アルダンはあの
ロマン・ポランスキーが演出したというテレンス・マクナリー作の舞台「マスタークラス」で
マリア・カラスを演じており、
今度はスクリーンに変えて再びマリア・カラスにがっぷり四つに取り組んでいます。
不幸にして生前のマリア・カラスを知らぬ私には、ファニー・アルダンがどれだけ
不世出のディーバに肉薄できたのか、正確にジャッジできるだけの見識を持ち合わせていませんが、
すくなくとも巨大な名声と持ち、それを築き上げるために人生を投げ打った気迫と
自負、そしてそのすべてを今まさに失いつつある独りの、もう若くはない孤独な女の
あがき苦しむ姿を渾身の迫力で演じ上げていることは分かります。
いえ、私にだけでなく、この映画を見たすべての人にそれは確実に伝わるはずです。
とはいえ、マリア・カラスは容易に感情移入を許す人物ではありません。
私達が自己投影できるのは、ジェレミー・アイアンズ演ずるラリー?
ふむ、「カルメン」のロケ現場で、「三流っ」「この我ががま女っ」と
マリア・カラス相手に大喧嘩する姿は、二人にとって至福のひと時ではあるでしょう。
でも私が感情移入できたのは、カラスの友人でジャーナリストのサラの方です。
「ムッソリーニにお茶を」のジョーン・プローライトが演じてます。
「−でも私は彼女ではない。私がもし、マリア・カラスになれるのなら、
何度でも地獄に落ちるわ」
すぐ隣にいてマリアの愚痴に付き合ったり、軽口を叩き合ったりしていますが、
あるときラリーにもらしたサラの本心は、私達凡俗によく感ずるところです。
「私はただ、その才能を文章で語るだけだわ。私はなにものでもない」。
神をそばで見守る幸運と不幸の両方を彼女は感じています。
ジョーン・プローライトはインタビューで、映画「永遠のマリア・カラス」のテーマ
について次のように答えています。
―ギリシャ神話のような物語。偉大な女神と神がいて、高みに上がれば上がるほど、
どんどん落ちていく、ギリシャ悲劇のようだわ。
彼女の存在自体が普遍的であり、彼女のような神が必要なのよ。
人間には自分達より偉大で大きなリスクを引き受けてくれるものが必要なの。
−この作品の真髄を語る言葉ではないでしょうか。
この作品は、神と人との間にあって、そのリスクを引き受けたある女性の心の放浪の物語です。
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