「チェ 28歳の革命」

「チェ 28歳の革命」映画チラシ■作品基礎データ
「チェ 28歳の革命」
2008年スペイン・フランス・アメリカ合作映画
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
脚本:ピーター・バックマン
出演:ベニチオ・デル・トロ

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1964年、ニューヨーク。一人の男が語る。
「バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。
人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛のない真の革命家を想像することは、不可能だ」
アメリカ人ジャーナリストの、“革命家にとって重要なことは?”という問いに答える、
キューバの“影の実力者”チェ・ゲバラである。

アルゼンチン人医師だった彼は、何故、キューバに革命をもたらし、
20世紀最大のカリスマとなったのか。
物語は1955年7月、メキシコに戻る。
持病の喘息を抱えながらも、
ラテン・アメリカの貧しい人々を救いたいと南米大陸の旅を続ける
アルゼンチン人の医師エルネスト・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)と、
独裁政権に苦しむ故国キューバの革命を決意するフィデル・カストロ(デミアン・ビチル)
は、フィデルの弟ラウル・カストロ(ロドリゴ・サントロ)を介して出会う。

わずか82人で海を渡り、
2万人に及ぶキューバ政府軍と戦うというカストロの正気を疑う作戦に、
参加を決意するゲバラ。

チェという愛称で呼ばれ、軍医としてゲリラ軍に加わったチェ・ゲバラは、
平等社会のために戦い、日々心身を鍛え、厳しい規律を守り、農民たちには礼を尽くした。
また、女性と子供には愛情をもって接し、若き兵士に読み書きを教え、
裏切り者には容赦ないが、負傷兵には敵味方の区別なく救いの手を差し伸べた。

やがてその類まれなる統率力を認められ、司令官として部隊を率いるチェ・ゲバラ。
後に妻となる女性戦士アレイダ・マルチ(カタリーナ・サンディノ・モレノ)
にも支えられながら、
チェ・ゲバラの部隊はカストロからキューバ革命の要となる戦いを任せられる。
それは「大都市サンタクララを陥落し、キューバを分断せよ」という指令だった。

「チェ 28歳の革命」見ました。
はっきり言ってノーマークでしたが、
登場第一週で週間興業成績第二位に躍り出たので、
慌てて見に行きました。
ベニチオ・デル・トロを意識して見たのは「トラフィック」が最初だし、
名優だとは思うけど、好みからは少し「濃い目」過ぎて、
ソダーバーグ監督と久しぶりに組むと聞いても、そんなに食指は動きませんでした。
今作の上映劇場もメジャー系ではあるけど、どうしも「二番館」の感じは否めない。
国内の興業主から見ても、そんなに魅力的な番組には見えなかったんでしょう。
ところが、蓋を開ければめちゃヒット。

面白かったです。
二十世紀の巨人で、アインシュタイン、ケネディ、マザー・テレサ、ガンジー、
ヒットラー、毛沢東とか、好き嫌いを度外視して、その業績と人生を知っておくべき
人たちがいますが、
チェ・ゲバラという人もその一人です。
デル・トロは役作りに五年だか七年高のリサーチ期間をかけたそうだし、
ソダーバーグも気合入れて演出しています。
時間も手間も十分描けた作品です。
見ごたえ十分です。

二部作の前編なのだけど、
二時間以上のボリュームのほぼ全編がゲリラの戦闘シーンと言う
強面(こわもて)作品です。
映画の風格と言うのは「アラビアのロレンス」に匹敵します。
(久々のシネマスコープ作品です。クライマックスの軍用列車の脱線転覆シーンは、
是非、横長の大画面、大音響で見てください)

偉大なる革命家の栄光と青春、というのかなぁ。
本当につらいあたりは、キューバ革命成功後、
同志カストロに別れの手紙を残して、更なる戦いの地に去っていく、
後編なのだろうけど、
前編でも後半、理想が裏切られていく過程が、
国連への登壇なんかでそこはかとなく描かれてますね。
彼は政治屋にならざるを得なくなって嫌気が差したんだろうな。

幕切れで、
ハバマ侵攻直前で真っ赤なキャデラックに乗る兵士に
「歩け」と命ずるとこに、
メキシコからキューバに革命同士とともに船で乗り込むくだりが被さるのは
涙はなく、むしろ感情表現としては乾いたものがあるのだけど、
ぐっと泣かせます。

最近の映画はそれがハリウッド映画でさえ自閉してしまって
個人の愛憎とか人生観でテーマを語るに終始してしまっている。
それが悪いと言うのではないけど、
歴史上の英雄の栄光と孤独、なんていう大テーマを描く
作品と言うを久々に目の当たりにして、
結構、感激しました。

2008年、生誕80周年の期に、“ある男の半生”を描く1本の作品が、
カンヌ国際映画祭を「悲鳴と喝采」で沸かせました。
愛と情熱の革命家、チェ・ゲバラの生と死を描く『CHE』2部作です。
総上映時間は約4時間30分。
20分の休憩時には特例の「キットカット」と水が配給されたそうです。
上映会場は、PART1『チェ 28歳の革命』で若き革命家のヒロイズムに酔いしれ、
PART2『チェ 39歳 別れの手紙』では、
その革命家の劇的な死の瞬間に悲鳴があがったといいます。

「僕がどうしても観客に伝えられなかったもの、それは臭いだけだ」
そんなウィットに富んだ発言を交えつつ、
ソダーバーグ監督は「チェという人間と一緒にいること、
それはどんな感覚だったのかを味わってほしい」と語る。

『チェ 28歳の革命』はシネマスコープサイズで上映、
『チェ 39歳 別れの手紙』はビスタサイズで上映、
死の2日前まで日記をつけ続けたチェ・ゲバラの旅の、
“いつ何が起こってもおかしくない”極限の緊張状態をスクリーン上に維持し続けました。

ベニチオ・デル・トロは 25kgもの減量と7年間に及ぶリサーチにより、
チェ・ゲバラ役に挑んだそうです。
最新鋭のカメラ「RED」による撮影など、臨場感確保に努力されています。

カンヌ国際映画祭の衝撃的なお披露目の後、9月にはスペインで
世界初の『チェ 28歳の革命』一般公開が始まり、大ヒットを記録。
“敵国”アメリカでもアカデミー賞有力の声があがり始め、12月に公開が決定。
その他ヨーロッパ、アジア、オセアニアなどの主要各国では、
「キューバ革命50周年」のメモリアルイヤーとなる2009年1月から2部作を
連続公開する形で準備を進めているようです。

彼が2度もすべてを捨てて他人のために命をかけたことに、
ものすごく心動かされるものを感じるんだ。
──スティーヴン・ソダーバーグ

ベニチオ・デル・トロのインタビューよりメイキング関する情報を再録します。

PROFILE
ベニチオ・デル・トロ
'67年プエルトリコ生まれ。大学時代に弁護士を志すはずが役者の道へ。
『ユージュアル・サスペクツ』('95)、『ラスベガスをやっつけろ』('98)で注目を集める。
ソダーバーグ監督が麻薬問題に切り込んだ群像サスペンス『トラフィック』('00)で
演じたメキシコ人警官役では、アカデミー助演男優賞に輝いている。


最後まで望みを捨てないゲバラの姿勢に心打たれた
「なぜチェ・ゲバラの映画を作ったかと言われても、正直自分ではよくわからない」
と、2部作のプロデューサーも務めたデル・トロは言う。
「映画が『作らねばならない!』と僕らをせきたてた感じかな。
中南米の人間として絶対に語られるべきストーリーだと確信してはいたけれど、
シナリオなんてできてもいないのに「チェの映画」と聞くだけで
大勢の人が興奮してくれた。
僕の顔が似ているからとドイツ語のゲバラの本をくれた人もいたよ。
ドイツ語なんてまったく読めないんだけど(笑)

ゲバラとの最初の出逢いは
「子供の頃に聴いたローリング・ストーンズの歌詞だった」というデル・トロ。
「ただ、ずっと銃を持った恐ろしい男だと思ってた(笑)。
そう教育されたしね。でも大人になって見つけた本でガラッと印象が変わったんだ。
20代前半のチェが書いた手紙集で、
そこにはユーモアと冷静な自己分析と、理想への熱い情熱が書かれていたんだ。
まるでヘミングウェイやケルアックの小説みたいだったよ」

全編スペイン語の映画ということもあって資金繰りは難航し、
8年がかりでようやく完成にこぎつけた。
デル・トロは企画の舵取り役として、
まさにスクリーンの表でも裏でも「不屈の精神」を体現してみせた。

「チェの魅力と僕の魅力がシンクロしたと思いたいけど(笑)。
ただチェの最後の日記を読むと、
絶体絶命の窮地にいながら彼がまったく希望を失っていないのが分かる。
チェは最期まで生きる望みを捨てなかったし、
それは彼がやるべきことがあると信じていたからなんだ」

役作りといっても瞬間、瞬間を演じるしかなかったというが、
撮影中はザ・クラッシュやマヌー・チャオ、B・スプリングスティーンなど、
理想家肌のロックをよく聴いたという。

「でもチェの状況が悪化の一途をたどるボリビア編の撮影では、
不思議と一切音楽は聴かなかったな。別に意識したわけじゃないんだけど、
なぜかそうするべきだと思ったんだ」

一方、ソダーバーク監督は、本作を次のように語っています。

ベニチオに声をかけられるまで正直チェ・ゲバラのことはほとんど知らなかった。
それからあらゆる資料に目を通したけど、なんの先入観もなかったおかげで、
特定のイデオロギーに寄らない映画を作れたと思う。
当初は第2部にあたるボリビア編だけど作る予定だった。
だけど僕はそこに至る過程も描かないとチェを理解できないから、
キューバ革命とメキシコ、そしてニューヨークのエピソードも描くべきだと言ったんだ。
で、構想が膨れ上がって2本の映画に分けることにした。
ただそのせいもあって、予算とスケジュールが厳しくて苦労したけど(笑)。
でも、こういう映画を作るには、チェのように恐れ知らずでないといけない。
僕はチェの内面を解説するようなよくある伝記映画にしたくなかった。
描いたのはチェの行動だけだけど、
彼がなぜ戦ったのかはいちいち説明しなくても分かると思うよ。
ただ、この映画を観た人たちからはいろんな反応があるよ。
チェに賛同しない人からは政治思想の宣伝映画だって言われた。
「彼が行った処刑について描いてないだろ」ってね。
でも実は処刑のくだりもチェ自身の意見表明も入ってる。
その人は映画を観たのに覚えてないんだ。
別に彼を非難したいわけじゃなく、興味深いことにチェは、
今もなお多くの人を感情的にさせる存在なんだよね。

“チェ・ゲバラ”ことエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ
(Ernesto Rafael "Che" Guevara de la Serna、1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、
アルゼンチン生まれのマルクス主義革命家で、キューバのゲリラ指導者とされています。

「チェ」は本来、アルゼンチンのスペイン語
(リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸方言)で「やぁ」という砕けた挨拶。
ゲバラが初対面の相手にしばしば「やぁ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していた事から、
キューバ人達が「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。
ラテンアメリカでは通常「チェ」もしくは「エル・チェ」
(El Che。el は英語の the に相当する定冠詞。英語に訳すなら“the Hi”となる)と呼び、
「チェ・ゲバラ」と呼ぶことは少ない。

幼年期
1928年アルゼンチン第二の都市ロサリオで誕生する。
父はエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、
母はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。
1824年にシモン・ボリーバル、アントニオ・ホセ・デ・スクレらの
ラテンアメリカ解放軍とアヤクーチョで戦ったペルー副王、
ホセ・デ・ラ・セルナの末裔であり、経済的には恵まれた家庭であった。
両親は保守的な慣習にとらわれない比較的リベラルな思想の持ち主であった
(母のセリアは無神論者であった)。
未熟児として生まれ肺炎を患い、2歳にして重度の喘息と診断された。
両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数度移住している。
幼い頃はけいれんを伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、
その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。
しかしラグビーなど激しいスポーツを愛好し、
プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。
重度の喘息は彼を一生苦しめた。
医学生時代には友人と「タックル」というラグビー雑誌を発行しているほどで、
自ら編集もつとめた。

青年期
17才のゲバラ
1945年ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。
在学中の1951年に年上の友人、アルベルト・グラナードとともに
オートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験し、
南米各地の状況を見聞するうちにマルクス主義に共感を示すようになった
(このことは著作『モーターサイクル南米旅行日記』に記され、
後にこれを原作として映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』も制作された)。
1953年、大学卒業の25日後、友人のカルロス・ペレルとともに再び南米放浪の旅に出る。
J.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、
当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、
ボリビア革命の進むボリビアを旅した後、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、
ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、
ハコボ・アルベンス・グスマン時代のポプリスモ(社会主義とする見方もある)政権下の
グアテマラに行き着いた。
グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、
グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、
共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くとともに、彼女と結婚する。
しかし、アメリカ企業(ユナイテッド・フルーツ)による搾取からの経済的独立や、
インディオの復権など、
グアテマラ革命と呼ばれるほどの急進的な改革を進めていたアルベンス政権が、
CIAに後押しされた反抗勢力に倒される(PBSUCCESS作戦)と、
ゲバラが「ラテンアメリカで最も自由で民主的な国」と評した
グアテマラの革命政権は崩壊した。
この出来事がきっかけとなり、共産主義革命を本気で志すようになったようである。

妻のガデアとともに、失意と怒りを抱いてメキシコに移る。
1955年7月、この地に亡命中の反体制派キューバ人のリーダーである、
フィデル・カストロと出会う。
7月26日運動を率いてキューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権打倒を目指す
カストロに共感したゲバラは、
このとき、一夜にして反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意したとされている。
こうしてスペイン内戦の共和派の生き残りだったアルベルト・バーヨ中佐の訓練を受けて、
キューバ上陸への準備が進んでいった。

革命家ゲバラ
ラバに乗るゲバラ
1958年11月妻と娘のイルディーダをメキシコに残し、単身キューバへ向かう。
1956年11月25日、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名は
8人乗りのレジャーボート「グランマ号(Granma)」に乗り込んだ。
しかし収容過多によって衛生環境などが劣悪となったことに加え、
目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、
7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、それに伴い士気も下がっていた。
さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、
計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、
反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。
結局生きて上陸できたのは82人中、
ゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ、
カミーロ・シエンフエゴスなどを含む12人のみだった。
(生き残った人数が17人という説もある。)
上陸後、反乱軍はシエラ・マエストラ山脈に潜伏し、
山中の村などを転々としながら軍の立て直しを図った。
その後キューバ国内の反政府勢力との合流に成功し、反乱軍は徐々に増強されていった。
当初、ゲバラの部隊での役割は軍医であったが、
革命軍の政治放送をするラジオ局を設立するなど、
政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人
の気持ちをつかむ才を遺憾なく発揮し、
次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。
上陸から1年後の兵員増加に伴う部隊の再編成に際して、
カミーロやラウルらを差し置き、
カストロから第2軍のコマンダンテ
(司令官。司令官の下に分隊と分隊を指揮する「隊長」がいる)に任命され、
指揮権と少佐の階級を与えられ、名実ともにカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2となった。
1958年12月29日にはこの第2軍を率いてキューバ第2の都市サンタ・クララに突入する。
多数の市民の加勢もあり、これを制圧し、首都ハバナへの道筋を開いた。
そして1959年1月1日午前2時10分、
将軍フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国へ亡命し、
1月8日カストロがハバナに入城、「キューバ革命」が達成された。
闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、
キューバ新政府の閣僚となるに至った。

日本来訪
1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの使節団を引き連れて日本に訪れている。
当時の日本ではゲバラの知名度は低く、
日本のメディアに"カストロ・ヒゲ"と揶揄され、主要メディアはその動向を報じなかった。
7月23日には午前中に愛知県のトヨタ自動車工場のトラックやジープの製造ラインを見学、
午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。
24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、
丸紅、鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。
この他にもゲバラは通商のために帝国ホテルで池田勇人通産相に15分間の会談を行い、
ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。
7月24日の大阪に泊まった際に、当初は翌日に神戸の川崎造船所を視察後、
市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、広島が大阪から遠くない事を知り、
オマール・フェルナンデス大尉と在日キューバ大使のアルスガライ大使を伴い
夜に宿を抜け出して夜行列車で広島に向かった。
25日に広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、
原爆資料館と原爆病院を訪れた。
中国新聞の25歳の林立雄は、彼を単独取材した。
彼はなぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのかと言ったという。
彼はヒロシマをキューバに伝えた。
以来、キューバでは現在でも、初等教育でヒロシマ・ナガサキをとりあげている。
日本各地を視察した後、
27日に日本を発ってインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、
モロッコを歴訪して9月8日にハバナへ戻った。
翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。

政治家ゲバラ
1959年1月2日革命達成の一ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、
およそ600人が処刑された。
ゲバラは処刑の責任者を務め、さらに政治犯収容所の建設を指揮した。
この時迅速に処刑を決断したのは、グアテマラ革命の失敗が、
軍内部にアルベンスへの裏切りがあったためであると、後に語っている。
6月には通商大使として独立したばかりのアジア・アフリカ、東欧などを歴訪し、
各地で熱狂的に迎えられた。
帰国後、農業改革機構工業部長および国立銀行総裁に就任。
農地改革と企業の国有化を進めた。
1960年8月6日、カストロがアメリカ資本から成る石油関連産業を接収、国有化する。
これに対してアメリカはキューバへの経済封鎖を行った。
翌1961年10月、工業相に就任。経済封鎖による資源不足、
さらに社会福祉事業の無料化により経済が徐々に逼迫していく中、
「生産効率の低下は人々の献身的労働によって補える」とし、
自らも休日はサトウキビの刈り入れや工場でのライン作業の労働、
道路を作るための土運び、建物のレンガ詰み等、積極的にボランティアに参加した。
しかしこうした行動も経済を好転させるには至らず、
理想を抱くゲバラは徐々にキューバ首脳陣の中で孤立を深めていった。
1965年1月、各国との通商交渉のために外遊を行う。
2月24日、アルジェリアで行われた「アジア・アフリカ経済セミナー」において
演説を行い、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を
「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し、論争を巻き起こした。
3月に帰国後、キューバ政府はソビエトから
「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告を受ける。
これを受けてカストロにキューバの政治の一線から退く事を伝え、
カストロ、父母、子供達の三者に宛てた手紙を残してキューバを離れた。
この事はしばらくカストロの側近以外には知らされず、
半年後の10月3日のキューバ共産党大会においてカストロが手紙を読み上げたことで、
初めて世人に知られる事となった。

再び革命の戦いへ
チェ・ゲバラは
コンゴ民主共和国に渡り革命の指導を試みたが、
コンゴの兵士達の士気の低さに失望し、1年後秘密裏にキューバに帰国する。
カストロとの会談の後、新たな革命の場として、かつてボリビア革命が起きたものの、
その後はレネ・バリエントスが軍事独裁政権を敷いており、
南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなしたボリビアを選び、
1966年11月、ウルグアイ人ビジネスマンに変装して現地に渡る。
独自の革命理論に固執したため、
親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協力が得られず、
カストロからの援助も滞り、ボリビア革命によって土地を手に入れた農民は
新たな革命には興味を持たず、
さらに、元ナチスドイツ親衛隊のクラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、
冷戦下において反共軍事政権を支持していたアメリカのCIAから武器の供与と
兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。
1967年10月8日、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、
ボリビア・アンデスのチューロ渓谷の戦闘で、
政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。
部隊の指揮を務めていたボリビア人のウィリー(en:Simeon Cuba Sarabia)とともに、
渓谷から7キロほど南にあるイゲラ村に連行され、小学校に収容された。
翌朝、60キロ北のバージェ・グランデからヘリコプターで現地に到着したCIAの
フェリックス・ロドリゲスがイゲラ村で午前10時に電報
「パピ600(ゲバラを殺せ)」の電文を受信。
午後0時40分にウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹にM1自動小銃で銃撃された後、
午後0時45分、政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹に右脚の付け根と左胸、
首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、
最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。
最期の言葉は、射殺を躊躇する兵士に向けて放った
「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」である。
(実際にはマリオ・テラン軍曹が撃つ時に躊躇していたため、
ゲバラに「恐れるな、早く撃て!」と言われ、右脚を撃ち抜いたものの、
ゲバラはまだ生きていた。恐怖で部屋を出たテラン軍曹を上官が叱責し、
とどめをさしてこいと命令され、もう一度ゲバラが収容されている部屋へ入った。
ゲバラは「ちゃんと狙って撃て」と言い、テラン軍曹は左胸と首を撃った。
それでも絶命しなかったため、別の兵士がゲバラを仰向けにし、
至近距離で心臓を撃ち抜いた。)
ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。
少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに前衛、本隊、後衛とわけて組織的に警戒し、
必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。

その後の影響と「帰国」
チェ・ゲバラの生涯と思想は西側の若者や革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、
その写真は1960年代の後半頃からTシャツやポスターに印刷されるシンボルとなった。
南米の大学では、
現在でもゲリラ時代のチェの顔を描いた大きな垂れ幕を掲げているところがある。
その他、サッカースタジアムのゴール裏のファンがゲートフラッグに
ゲバラの顔を描いたものを掲げていることがある
(日本では浦和レッズのサポーターなど)。
またロック・ミュージックにおいても影響を与え、
一部アーティストは公認グッズでゲバラの顔写真を使用している
(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのTシャツ、ステッカーなど)。
1997年、死後30年にして遺骨がボリビアで発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。
キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、
遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。
フィデル=カストロは長時間のスピーチで有名であるが、
この時のスピーチは珍しく簡潔であった。遺体は霊廟に葬られた。
思想的にはラテンアメリカ解放の英雄、
シモン・ボリーバル、ホセ・デ・サン=マルティン、ホセ・アルティーガス、
ホセ・マルティ、アウグスト・サンディーノらのアメリカ主義の系譜を引き継ぎ、
同時代に同じ南米で生きたチリの革命家サルバドール・アジェンデとは、
お互いを敬愛し続けたといわれた。
今日でもチェ・ゲバラは、
中南米を始めとした第三世界では絶大な人気を誇るカリスマである。
特にボリビアでは「イゲラの聖エルネスト」と呼ばれ聖人同然の扱いである。
日本でも中南米の雑貨などを扱う店でチェ・ゲバラの肖像写真が
プリントされたTシャツが並び、
ゲバラの思想や行動を全く知らない若者がファッションの一環として着用している姿も
見られる。

年譜
1928年6月14日、アルゼンチン第二の都市ロサリオで裕福な家庭に生まれる。
1930年 ブエノスアイレスに住んでいたとき、最初の喘息発作を起こす(2歳)。
1932年 重い喘息のため、一家はコルドバの避暑地アルタ・グラシアに転居する。
1941年 コルドバの高等学校に入学。喘息にもかかわらず、
ラグビーやサッカーなどの激しいスポーツを愛好した。
1948年 ブエノスアイレス大学医学部に入学、アレルギーの研究を志す。
1950年 北部アルゼンチンをモペッド(ペダルで走ることもできるオートバイ)で
単独走破。
1951年 オートバイで南アメリカをまわる旅に出る、ラテンアメリカをつぶさに見聞。
1952年 南米旅行の最終地点ベネズエラのカラカスで、帰国と医学部を卒業することを
決意。
1953年
通常6年の課程を3年で終え、医者の資格を取得。フアン・ペロン支配下で軍医になる
ことを避けボリビアへ。ボリビアで農地改革の現実を目撃。第二のラテンアメリカ放浪。
アルベンス社会主義政権下のグアテマラで出会ったペルー人社会主義者イルダ・ガデアの
紹介で亡命キューバ人と知り合う。

1954年
グアテマラのアルベンス政権がCIAの傭兵、カスティージョ・アルマス大佐率いる軍部
(アルマスはこの功績でグアテマラ大統領に祭り上げられる)にクーデターで倒され、
怒りとともにメキシコに亡命。

1955年 イルダ・ガデアと結婚。
1956年
長女イルディタ誕生。メキシコ亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと
出会い意気投合、従軍医として反独裁闘争に参加することを承諾。
グランマ号(10人乗りのヨットに85人)でキューバに上陸(12月2日)、
以後3年間におよぶゲリラ戦に従軍。

1957年
反乱軍第2軍(75名)の指揮官(少佐)、少佐の階級章(一つ星)をつけた
黒のベレー帽は後年チェのシンボルマークとなる。
ベレーには上下を逆にした騎兵章(交差したサーベル)を付ける事もあった。

1959年
バティスタが国外逃亡しキューバ革命成立。キューバの国立銀行総裁に就任。
志願して来たのを迎え入れて以来副官同然だった同志、
アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレと結婚し4児をもうける。
アジア・アフリカの親善大使として来日、12日間滞在した。
このとき、広島市の原爆資料館を訪問し、
「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなり
(対米従属)になるのか」と案内人に語った。

1960年 著書『ゲリラ戦争』出版。ソ連を初訪問。
1961年 工業大臣に就任。故郷アルゼンチンへ8年ぶりの、そして最後の帰国をするが、
滞在時間はわずか4時間だった。
1963年 アルジェリア独立一周年記念式典に出席。
1964年
ベン・ベラ大統領の招きでアルジェリア訪問。12月11日、国際連合総会でキューバ主席
として演説、7月26日運動の合言葉『祖国か、死か!』を紹介する。
1965年
国際的な革命闘争に参加するためキューバを離れる。アフリカ各地を歴訪し、
コンゴでは一時的に闘争に参加。キューバ共産党中央委員会でカストロはゲバラから自分
宛に遺された「別れの手紙」を発表。

1966年
アフリカ・コンゴでのゲリラ戦に参戦後、「一つ、二つ……数多くのベトナムをつくるた
めに」(1967年に公表されたメッセージの言葉)ラテンアメリカに戻り、変装してボリビア
へ。ボリビアでの様子を記した日記は『ゲバラ日記』として死後刊行。

1967年10月8日
バジェグランデ近郊のイゲラ村の近くで捕えられ、
大統領レネ・バリエントス・オルトゥニョの命令で10月9日に処刑(銃殺刑)された。
享年39。
1997年 死後30年目、ボリビアで遺骨が発掘され、ハバナに移送された。

人物
カストロに「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」
と評されるゲバラであるが、実際に誰よりもよく行動し、
革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。
しかし、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、
閣僚だった当時の部下からは
「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、
必ずしも好意は持たれていなかったとされる。
ゲリラ軍に志願して来た農民にも、
資格として読み書きが出来る成年者である事を最低限要求し、
条件を満たさない者はどんなに熱意があろうと容赦なく切った。
一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。
フランスの作家レジス・ドブレは、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を
「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。
他にもジャン=ポール・サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」と称され、
「世界で一番格好良い男」とジョン・レノンに言われている。
チェ・ゲバラは喘息持ちでありながらも葉巻の愛好家として知られている。
葉巻は革命家の象徴であり、ゲリラ戦での除虫にも用いられた。
また、キューバの特産品でもあるため、
これを世界に向けてアピールする狙いもあったとされている。
マテ茶(アルゼンチンの国民的飲料)が好物。
父親がマテ茶をプランテーション事業で手がけていたこともあり、
幼い頃から親しんでいた。
趣味は写真撮影で「司令官になる前、僕は写真家だった」と彼自身が語っている。
カメラは1954年に発売されたニコン S2を愛用していたが、
革命戦争中に同じ部隊にいた軍医オスカル・フェルナンデス・メルに譲った。
代わりに旧ソ連製のキエフを貰った。
S2は現在もハバナのカバーニャ要塞に保管されている。

ベニチオは本作のプロデューサーでもあり、
脚本家は別にいるもののソダーバーグ監督が本作の原作も担当したと
クレジットされています。
つまり通常の監督と出演者という関係を超えて二人三脚で本作は作られたわけで、
公開プレゼンで来日した二人は、
そのコンビネーションについて共同インタビューで次の通り答えています。

Q:ベニチオは本作のプロデューサーでもあり、チェ・ゲバラについて7年間もリサーチし
た上で演じられたそうですが、そこまで情熱を傾けた理由は?

ベニチオ(以下B):
歴史の真実を描く作品に挑戦したかった。
それに、時間を割いて映画のために尽くしてくれたすべての人たちにも
報いたかったからね。
撮影に入ると、周囲の俳優やスタッフはもちろん、山の上まで水を運んでくれたり、
料理を作ってくれた人々への感謝の思いが気持ちを奮い立たせてくれて、
現場へと向かう大きなモチベーションになったよ。

Q:幅広いジャンルの作品を手掛けるソダーバーグ監督ですが、本作を引き受けた理由は?

ソダーバーグ(以下S):
人生のさまざまな局面において、できればなるべく「イエス」と言いたいと
思っているからさ。
今回は冒険に乗りだすような気持ちで引き受けたわけだけど、
このプロジェクトをやり遂げたとき、自分が別の人間に変わっているのではないか……。
そんな心境だったね。

Q:今、チェ・ゲバラを描く映画が公開されることにどんな意義があるのでしょうか?

B:
今はまさに(映画を公開するのに)絶好の時期じゃないかな? 
もちろん、計画が始動したのはずっと前だけど。
2008年はチェ・ゲバラが生きていたら80歳の誕生日を迎えるし、
2009年はキューバ革命50周年。
チェ・ゲバラが革命を目指した最終地であるボリビアでは、
2006年に、先住民だった人が国民投票によって大統領に選ばれた。
さらにアメリカでは、アフリカ系アメリカ人が初めて大統領に選出されただろう? 
その歴史的転換の中、プエルトリコ出身のおれが、たまたまハリウッドで、
(共同プロデューサーの)ローラ・ビックフォードと出会って、
一緒にチェ・ゲバラの映画をやることになって……。
今思うと、おれたちの手の及ばないところで、何か大きな力が働いているようで、
不思議な結びつきを感じるよね。

Q:世界的に人気があり、英雄視されているチェ・ゲバラを演じるにあたって、
プレッシャーがあったのでは?

B:
確かに、プレッシャーにつぶされそうになった時期はあった。
だがソダーバーグ監督のオフィスに行ったとき、
彼は僕の目の中にある恐怖を読み取って
「チェ・ゲバラを描き切るのは無理だ! でも、それを承知した上でチャレンジしよう!」
と励ましてくれてね。
彼のその言葉で、完ぺきなんて絶対無理だけど、
自分なりのベストを尽くせばいいんだという風に気持ちを切り替えることができたんだ。

S: ベニチオは僕よりプレッシャーが大きかったからね(笑)。

Q:ベニチオは大幅な減量などもあって大変だったと思いますが、お二人が特に苦労した点は?

B: 減量も含めて、すべてが苦労の連続だったね。
とにかく無事に撮り終えることを目標にひたすら頑張ったよ。

S: 実は第2部の方を先に撮り終えたんだけど、
その2部の撮影が終わった直後が精神的に一番つらかったかな。
これまでで一番大変な撮影だったのに、
これからより困難な第1部の撮影が待っていると考えると……。
「あ~! もう逃げられない!」って追い詰められている感じだったよ(笑)。

B: おれもそのころプエルトリコに戻っていて、
次の第1部までの準備期間が10日間しかない! という状態でかなり焦っていて、
最悪だったなぁ(笑)。

S: でも、あらゆることを全部気にかけると自殺したくなるから、
とにかく目の前の仕事に集中するだけにして(笑)。
パニックになっても何も解決しない、と自分に言い聞かせながらやっていた感じだね。
スタッフのためにも、なるべく冷静になろうと。

B: 誰でもパニックになるときはあったよね。僕は枕を投げたくらいさ!

ソダーバーグ監督の単独インタビューで製作過程について次のような情報があります。

──チェ・ゲバラの男としての魅力、人間としての魅力は?
「ベニチオ・デル・トロも納得しているんだろうが、伝記映画史上、
俳優よりも実物のチェの方がハンサムな最初の例だと思う(笑)。
そのカッコ良さが彼が世界中の憧れであり、アイコンであり続ける理由のひとつだと思う。
彼と同じように死んでいった革命家はいっぱいいるのに、
美貌とカリスマ性で彼にかなう男はいないし、Tシャツにもなっていないんだからね。
興味深いことに、人間は美しさに惹かれるものだ。
ところが、チェが目指して世界では“美のための美は存在しない”。
彼はパブロ・ネルーダ(『イル・ポスティーノ』に描かれたチリ出身の亡命詩人)の詩が
大好きだったが、他の芸術分野にはほとんど関心を示さなかった。
彼は芸術そのものよりも、それを形づくる“機能”にのみ関心があった。
映画も好きじゃなかった。
彼が目指した世界だったら、ぼくには仕事はなくなっていたかもしれないね(笑)」

──デル・トロが最初に軍服を着た時、どんな感想を持ちましたか?
「実は一番最初に撮ったのは国連の会議場での演説で、2006年1月のことだった。
なぜかというと、国連ビルが改装されることになったから。
当時はまだ脚本も固まっておらず、資金繰り的に製作のめどはついていなかったけど、
白黒のポラロイドカメラを持っていって、彼を撮った。
そして映画は現実となった。
いろんなアングルから撮ったんだが、
本物のチェの白黒写真と見分けがきかないぐらいだったので、
この映画は成功すると確信した。実際、その写真でお金を集めることができたしね(笑)」

──「トラフィック」でも組んだ、デル・トロにはどんなアドバイスを?
「『パニクらないように』と、それだけだ。彼のことはよく知っている。
彼は役づくりに時間と熱情をかけて取り組むタイプの役者で、
銃をクリーニングする場面があるとすると、1日かけて練習をする。
その熱情のおかげで素晴らしい演技ができるわけなんだ。
ところが今回は彼もプロデューサーで、
銃のクリーニングをたった10分間で切り上げなければならないことも理解してくれていた。
撮影に入る前から、ベニチオにとって、これが最大の試練になることはわかっていた。
だからこうも言った。
『映画を作って失敗するほうが、作らないよりもよっぽどましだ』とね。
信じてくれたかどうか知らないが、彼のプレッシャーが軽減されたと信じたい」

──キューバ革命でゲバラたちが乗船する8人乗りのボート、グランマ号のシーン
(82名の革命軍同志が相乗りした)がほとんどなくて残念でした。
「それは、お金がなかったからだよ。ワンシーンだけ劇中にもあるが、
それでも予算はギリギリだった。
当初の脚本は素晴らしいもので、グランマ号のキューバ上陸のシーンや、
キューバ革命の最初の6カ月を描いていたんだが、長すぎたので泣く泣く切った。
すでに、チェがニューヨークの国連で演説するシーンを盛り込むことになっていた。
チェの人生絶頂の時で、最も情熱をほとばしらせ、
世界への影響力を持っていた時であり、世界中から取材も殺到していたんだ。
だが、その時点で脚本を縮めなければならなかったので、
対比させるようなキューバ革命での最悪な時期、
つまりはぜんそくに悩まされながら、
現地のガイドとともに進軍するさまを描くことに全力を傾けた。
しかし、シーンを削除するのはとても…


以下はネタバレとなるのでmixi独身映画ファンコミュニティ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1299114
にて『チェ 28歳の革命』の頁をご覧下さい。



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