「ココ・シャネル」

「ココ・シャネル」映画チラシ■作品基礎データ
「ココ・シャネル」
2008年 アメリカ・イタリア・フランス映画
監督:クリスチャン・デュゲイ、
脚本:エンリコ・メディオーリ、
コスチューム・デザイナー:ピエール=イヴ・ゲロー
出演:シャーリー・マクレーン バルボラ・ボブローヴァ

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1954年・パリ。
空白の15年を経て、復帰コレクションを用意した
ココ・シャネル(シャーリー・マクレーン)のオートクチュール店には
たくさんの評論家や顧客が詰め掛けていた。
しかし、コレクションは不評に終わり、
落胆するココと、ビジネス・パートナーのマルク・ボウシエ
(マルコム・マクダウェル)。
ココは、孤児からお針子となり、
デザイナーとしての地位を築いた日々を回想する。
それは、ファッションへの野心と燃えるような愛をつらぬき生きた、
世界で最も有名なデザイナーである彼女の伝説の物語。

シャネルを演じるのは、オスカー女優 シャーリー・マクレーン。
「ずっとシャネルのファンだった」という彼女が、
空白の15年を経た1954年のシャネルを再現。
そして、お針子から、キャリアをスタートさせる若き日のシャネルを
バルボラ・ボブローヴァが演じます。
彼女たちのために用意された衣装は70着。
ヴィンテージの宝石やバッグもたくさん登場いたします。
それぞれの時代のシャネルファッションもあわせてぜひお楽しみください。


「ココ・シャネル」劇場で見てます。
ハリウッドのメジャー作品だと思うけど、
日本ではミニシアター系での公開なのは意外。
メジャーものの劇場は「G.I.ジョー」なんかに取られてるのか。
いやですね、これだから夏休みは。

今年と来年でシャネルにまつわる映画が三本。演劇が二つ上演されるそうです。
いちおう今年はシャネル生誕125周年だそうですが、
企画はいずれも数年前から始まっており、
シャネル・ブランドと提携しているのは
九月公開でオウドレィ・トトゥ主演のフランス版「ココ・アヴァン・シャネル」
(「シャネルになる前のココ」と言った意味で、
もっぱら若き日の下積み時代を描いた作品)
だけだそうです。

つまりシャネルものが重なるのは、
偶然の一致。
この作品は、第二次大戦でナチの協力者としてフランスを追われた
ココがパリに戻って復活を遂げる70歳を名優シャーリー・マクレーンが
貫禄で演じるハリウッド版のシャネル映画です。

「ファッションへの野心と燃えるような愛」などと
コピーが付いていますが、
まさに“現実は小説より奇なり”を字でいく波乱の人生を
送った人の話で、見ていておよそ飽きるということがなかったです。

70歳の復活劇と若い時代の“人には言えない下積みの苦労”が
交互に出てきます。
若い頃を演じたイタリアのバルボア・ボブローヴァは
はじめて見ます。
なんとなくデビューの頃のオウドレィ・トトゥを思わせる風貌の女優ですが、
とても魅力的です。

若い頃のココは、内気で転んでもただでは起きないタイプ。
おばあちゃんココは毒舌家で殺しても死なないタイプ。
映画で見ている分には楽しいけど、
親戚とかにあんな人がいたら大変だろうなあ、という人ですね。

敵も多かったけれども、
味方もまたたくさんいます。
本人は一匹狼を自負しているのだけれども、
ここ一番にははせ参じる男たちもいますね。

若い頃からプライドの高い暴言女なのだけれども、
魅力はありますね。
かわゆいと言う範疇を超えるアブナイ魅力だから、
財力や権力を持ってる男じゃないととても太刀打ちできませんが。

大戦前の生まれ、といったも第二次ではなくて、
第一次世界大戦というから随分昔の人には違いない。
デザインの専門教育をする学校というのが
当時なかったのかどうか知らないですが、
映画のココはお針子から出発し、
特定の先生というのもいなかったようです。

親に捨てられ、
孤児院代わりの修道院育ちということは、
本人は生前決して明かさなかったようですが、
映画はそこいら編の事情も描いています。

歌手になる夢というのもあったようですが、
何せ婦人の職業選択の幅のない時代ですからね。
ココと言うのは彼女の愛称で本名ではないのだけど、
唯一の持ち歌のタイトルから来ているというのは
この映画ではじめて知りました。

時代が彼女に味方したというのは事実でしょう。
ファッションというのはそれまでは貴婦人の独占物で、
庶民のものではなかった。
それが世界大戦で風穴が開き、
名も力もない無名の若い女にもチャンスが巡ってくる。

しかしながらチャンスは、
その時代の全ての人にあったのだから、
それをしっかり掴んで桧舞台に駆け上がった彼女は
やはり並の人ではなかったはずです。

この映画はおおもとはテレビドラマシリーズだそうです。
再編集もののようには見えませんでしたが、
映画版「ココ・シャネル」という位置づけなのでしょう。

なので面白おかしく描けてはいても、
破綻なくストーリーが整然と語られ、
どこか人物像も脚本レベルでは類型的です。
そこにオリジナリティという命を吹き込んだ俳優たちの功績は大きいです。

本作が面白かっただけに
9月公開のフランス版も是非みたいです。


ココ・シャネルのプロフィールを紹介します。

(Coco Chanel、
本名はGabrielle Bonheur Chanel:ガブリエル・ボヌール・シャネル、
1883年8月19日~1971年1月10日) フランスの女性ファッションデザイナー。

生い立ち

フランス南西部オーベルニュ地方ソミュールの救済病院で生まれる。
12歳の誕生日を迎える前に母親が他界、
父に捨てられ、孤児院や修道院で育つ。
「ココ」は愛称で、田舎町ムーランでお針子として孤児院を出た後、
当時つきあいの有った将校たちに連れられ、赴いたカフェで、
芸能界への熱意に目覚める。
情熱を実行すべく、お針子仕事の傍ら、
歌手を志してキャバレーで歌っていた「Ko Ko Ri Ko(コケコッコウ)」と、
「Qui qu'a vu Coco dans le Trocadero(トロカデロでココを見たのはだれ)」
という歌の題名にちなんでつけられたもの。

シャネル起業

「シャネル・モード」の帽子(1912年)
その後芸能界への道はひと時あきらめ、
この頃交際していた将校であるエチエンヌ・バルサンに伴われてパリ郊外へ移り、
友人達の社交場となった彼の牧場で過ごす。
退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、
バルサンの援助により、1909年、マルゼルブ大通り160番地で、
帽子のアトリエを開業する。
1910年に、パリのカンボン通り21番地に
「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。
このときバルサンと別れ、
同じ輪の中にいた、一生涯愛す人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの
交際をはじめる。
カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。
1913年に、ドーヴィルに二号店を開店。
翌年に第一次世界大戦が開戦。
1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。
翌年コレクションを発表し大成功を収める。
ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。
1918年に、第一次世界大戦が終戦。
カペルがわずかな期間であった政略結婚を悔やみ、
ココと幸せになろうと決意した矢先、翌年にカペルは事故死してしまう。
アーサー・カペルはココが生涯最も愛した人で結婚を切に願ったが、
ココと共有していた上昇志向によって、
カペルが政略結婚に対する欲望を持っていた為に、
これまでかなわなかった。

シャネルの興隆から沈黙まで

1921年、本店をカンボン通り31番地に拡張。
前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、
シャネル初の香水「No.5」、「No.22」を発表した。
このころ劇作家のジャン・コクトー、
画家のパブロ・ピカソ、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーなどが
集うサロンを主催するミシア・セールと出会い、
サロンの様々な人物と交際する
(ストラヴィンスキー、身を挺してアヘン中毒から救ったジャン・コクトー、
ロシア風の刺繍やビーズ飾りを使ったロシア・ルックを生み出すなど、
影響を与えたロシアのドミトリー・パヴロヴィチ大公など)。
ココはアーサー・カペルの死後悲嘆にくれたが、
そんな彼女を元気付けようと連れまわしたのがミシアであった。
この頃、同い年である画家・マリー・ローランサンに肖像画を描いてもらう。
しかし、ココはそれを気に入らなかったため、マリーに返す。
この肖像画は現在、パリのオランジュリー美術館に展示されている。
1924年、以降6年間に及び交際することになるイギリスのウェストミンスター公爵と
出会う。
彼から多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。
この間に、後に「シャネル・スーツ」として発表されるスーツの原型がつくられ、
ロシアの詩人だったイリア・ズダネヴィッチが、工場長を務める間、
1931-1934年にツイード生地の開発に取り組んだ。
ウェストミンスター公爵と別れた後交際していた、
ファッションイラストなどを描く売れっ子イラストレータであったポール・イリブとは、
アーサー・カペル以来、結婚まで考えたようだが、
その矢先、1935年にポール・イリブが急死してしまう。
このように愛する人と、忌み嫌う愛人の座を捨てて幸せになろうとする矢先に、
ことごとく相手が急死したり破産したりすることから、
こういった運命を「獅子座の宿命を背負った女」と表現する人も多い。
1934年に、企業として順調に成長し続けるシャネル・ブランドは、
アクセサリー部門のファクトリーを開設。
翌年服地専門のファクトリーも開設した。
1939年に、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、
コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキを敢行。
ココはあっさり一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。
以後、同年9月に勃発し1945年8月に終結した第二次世界大戦中と
戦後のスイスへの亡命期(いずれも後述)の15年間、
ココはフランスのファッション界で沈黙を守る。
対独協力と亡命
第二次世界大戦中の1940年にフランスがアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に占領され、
親独のヴィシー政権下となった際に、
レジスタンスとしてフランス人の中にドイツ軍による軍事占領に抵抗した結果、
捉えられた末に拷問されたり戦闘によって命を落としていた人たちがいた一方で、
シャネルはドイツ軍将校と愛人関係を結び、愛人の庇護の下自堕落な生活を送った。
このことから、1944年のシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍と
連合軍によるフランス解放後に、
対独協力者としてフランス中からの非難を浴びて、
愛人とともに戦後の数年間スイスのローザンヌへ脱出し亡命生活を送った。
この様な経緯から、現在でもシャネルを「ナチスに魂を売った売国奴」として
嫌うフランス人がいる。

ファッション界へのカムバック

晩年を過ごしたホテル・リッツ1954年に、
スイスへの亡命生活を終えパリに戻り、
ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構え
ファッション界へカムバックを果たす。
ココの第二次世界大戦時の言動に対する嫌悪感が根強く残っていた当時は
「古臭い」としてヨーロッパではバッシングを受けるなど散々だったが、
「売国奴」と蔑まれたココやドイツへの嫌悪感が
大戦後10年近い年月を経て薄まった上に、
ウーマンリブによって女性の社会進出がめざましかったアメリカでは
熱狂的に受け入れられる。
翌年シャネル・スーツ(ブレードの縁取りがある、ウールのスーツ)の発表。
アメリカで「過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」
としてモード・オスカー賞を受賞。

スイスの墓地 
1971年に、住居としていたパリのホテル・リッツにて、
コレクションの準備中に87歳で亡くなる。
亡骸は第二次世界大戦中のドイツへの協力及びフランスへの裏切り行為によって
高級墓地への埋葬を拒否されたこともあり、
第二次世界大戦後に亡命生活を送っていたスイス・ローザンヌの墓地
「ボア・デュ・ヴォー」(セクション9・No.130)に埋葬される。

デザインに対する姿勢

ココは、コルセットが多用されていた1910年代-1920年代の
女性服に対して抱いていた
「どうして女は窮屈な服装に耐えなければならないのか」
という積年の疑問への回答として、
愛人であったウェストミンスター公爵の故郷である
イギリスの紳士服の仕立てや素材を女性服に応用し、
スポーティでシンプルなデザインの「シャネル・スーツ」を生み出した。
なお、ココ自身は生前にその様な主張をしたことは一度も無いにも関わらず、
シャネルの死後に
「シャネルの服作りに一貫している姿勢は『男に支配される女を徹底的に排除し、
女のからだと心を解放しよう』とする試みである」と喧伝された
(ココ自身の男性に過度に依存した生き方が示すように、
ココはそのような思想をもっていたわけではなく、
「後世のフェミニスト達によってそのような虚像が作られた」との主張が多い)。
これらの姿勢は、ココの後を引き継いだドイツ人ファッション・デザイナーの
カール・ラガーフェルドにも引き継がれている。
なおココはかなり痩せた体型だった。
そのため、モデルとしてシャネルの服を着たココがきっかけで、
現在に至るまで「ファッションモデルは痩せている方が美しい、
という固定観念が生まれた」とされ…

以下はネタバレとなるのでmixi独身映画ファンコミュニティ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1299114
にて『ココ・シャネル』の頁をご覧下さい。



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