「ドッグヴィル」映画製作裏話
★映画基礎データー★「ドッグヴィル」 2003年 デンマーク映画 監督脚本 ラース・フォン・トリアー 出演 ニコール・キッドマン ポール・ベタニー |
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山麓の寒村ドッグヴィルの若者トム(ポール・ベタニー)は、
ギャングに追われる謎の美女グレース(ニコール・キッドマン)と出会い、
村全体が協力して匿うことを提案する。
村人全員に賛成してもらうために2週間の猶予を与えられたグレース
は、村人のために働き始めるが……。
カンヌ映画祭のパルムドール受賞作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の監督トリアーが
ニコール・キッドマン主演で贈るダークで実験的な新作。
マフィアに追われる美女グレースを匿ったことから、
寂れた村“ドッグヴィル”にとんでもない悲劇が訪れる。
お芝居のリハーサル会場のようなセットを村に見立てた異様なビジュアルと、
クライマックスの怒涛の展開が強烈です。
冒頭で、倉庫の床にドッグヴィルの街の全貌がラインで書き込まれている姿が
俯瞰されます。
衣装を着た役者たちが、「ハウス」と書かれて白線で囲まれた場所で起居し、
「ストリート」と書かれたエリアで子役たちが遊んでいます。
壁はなく、家具も椅子や寝台が申し訳程度に並ぶだけでほとんど何もありません。
この舞台演劇のような環境で、ニコール・キッドマンをはじめすべての役者たちが、
ドラマを演じ、それがフィルムに納められています。
しかし私の見たところ、「ドッグヴィル」の脚本は、
通常のロケセットで撮影することを前提に書かれた準備原稿を演出方法の変更
に応じて、
必要な改稿が重ねられたもので、
あくまで通常の映画ドラマの作劇理論の上に構築されているものと読み取れます。
また演出においても、あれは舞台演劇の手法ではなく、
通常の映画のカメラワーク、カット割りがベースとなっていると判断して良いでしょう。
舞台演劇は、舞台と客席の直線あるいは曲線の境界を挟んで向かい合う
通常の屋内舞台劇場のスタイル
(これを額縁型劇場と呼んでいます。美術館で絵画を鑑賞するように平面的に
舞台と向かい合うのです。)は無論、観客が舞台周辺を取り巻きスタジアムの
ように見下ろす円形劇場のような野外公開劇場であっても、観客の居場所を
「下手」と想定して、
演技者の立ち位置(演技をする場所)を「上手」と定め、
ドラマが常に上手から下手に対して見せるよう演出されているものですが、
「ドッグヴィル」はカメラの前が「上手」であり、それ以外がすべて「下手」
という演出がなされています。
カメラは天井に張り付いて町全体を俯瞰したり、ベッドの脇に置かれたりして
自在に移動します。
回り舞台のように装置が可動して「上手」「下手」を移動させる仕組みも演劇
にはありますが、
カットごとに天地左右が不連続的に移動することは出来ません。
また「ドッグヴィル」はパースを付けたカメラやクローズアップもあり、
いわゆる主観描写と客観描写が短い間隔で混在しています。
人物のこころの内面を捉える主観描写と
神の目線で世界を見渡す客観描写の入れ替わりは、
幕間の切り替わりや、スポットライトの使用などで一部が演劇にも取り入れら
れていますが、
数秒のインターバルで主観と客観が入れ替わるのは、演劇の技法では不可能です。
(もしかしたら最新の演劇技法では、
この限界を突破する技術が開発されているかもしれません。ご存知の方がおら
れましたら投稿願えると嬉しいです。)
大不況時代のアメリカの山裾にある戸数が五、六件、総人口が23名ほどの貧しい村、
ドッグヴィルに外の世界からの闖入者グレースが現れると、
保守的で世間の狭い住人たちは彼女を排除しようとします。
追い出されれば生命の危機にも関わりそうで、自称「作家」の青年トムが彼女
の身の上に同情して外界から匿ってやろうではないか、と提案します。
教会に集まった村人たちは相談して、
「二週間後に受け入れるか、追い出すか判断する」と決定します。
トムはグレースに、村人たちに受け入れられるよう進んで働きかけるべきだと
提案します。
グレースはそれぞれの家庭に入り込んで勤労奉仕を始めるのですね。
はじめ警戒していた村人たちも次第に彼女に打ち解け、
二週間後の会合で23の鐘を打ち鳴らして喜び合う場面はそれなりに感動的です。
が良いことは続かないもので、
グレースは村人のいじめの対象に転落する。
それがどんどんひどくなっていって、男たちには性的玩具としてもてあそばれ、
その陵辱の様を子供までもがあざ笑うようになる。
たまりかねて逃げ出そうとすると、
今度は首輪でつないで鈴をつけて、重しを引きづらせる。
天下の美女のニコール・キッドマンが犬よりひどい扱いをされて、
奴隷のように肉体労働もさせられているのですから
サドにはたまらん映画ですな。笑
本作品の字幕を付けた翻訳家が「三時間の拷問」と呼んだくらい。
パワフルに虐待しまくるというんではなしに、
彼女に途中途中で少しばかりの希望を持たせてはそれを取り上げるというのを
繰り返します。こういう心理攻撃も巧みな監督です。
ヒロインが思考停止状態になるまで状況が悪くなり尽くしたところで、
ギャングたちが村に現れ逆転劇になる。
「少しばかりの希望」というのは、トムをはじめとする村人の理性と良心への
期待ですね。
いつか良心に目覚めてくれて、彼女を救ってくれるのではないか、
状況が好転するのではないか、という希望です。
が結局、集団心理の悪さでいざとなると臆病風に吹かれて、
結局彼女をいじめるばかり。
仕舞いには、村人たちは“いじめつづけるしかない惨めな自分たち”と
向き合うことへの恐怖から、より過酷な虐待に走るのですね。
日本の観客には校内暴力や職場のパワー・ハラスメントなどをイメージさせて、
嫌悪を催す展開になります。
舞台を白線で引いて抽象化することは、
事件がどこでもいつの時代でも起こりうる出来事である可能性を
示しているはずですが、
トリアー監督は本作を「アメリカ三部作」の第一作目だといっています。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でアメリカの一部マスコミ人に
「アメリカに行ったこともない男にアメリカが描けるものか」という
意味のことを言われて憤慨したのが、「ドッグヴィル」製作のはじめの動機と
されています。これは醜いなぁ。
人間の心理に潜む普遍の真実を探るというのなら、まだしも。
それだとせっかくの演劇手法も考証ミスやドラマの構成不具合を韜晦する
テクニックということになりかねません。
本人はアメリカ評論家の再度の攻撃を迎え撃つつもりか
「わたしごときがからかったところで、
ブッシュのアメリカにはなんともないんじゃないかな」
などと発言しています。
ねたばれ改行です。
クライマックスで現れたギャングは、
グレースの父親(ジェームズ・カーン)とその手下たちでした。
父親のギャング家業に愛想をつかした娘の方が家出していて、
父親はようやく探し出した彼女を連れ戻しにやってきたのです。
グレースは人間は性善説的な存在のはずだと考え、
性悪説だととなえて暴力的手段で搾取をいとわない父親に反発しており、
ドッグヴィルでも忍耐の続く限り村人の善意を信じて献身したのですが、
かえって村人の心の底に潜むに人間の根源的な憎悪感情をあおってしまったようです。
「決着をつける」と言い切り、
グレースは村人を手下たちに粛清させます。
そして最後まで彼女を欺き続けたトムは自ら銃を手にして殺害するのです。
トリアー監督は、このはなしを歌劇「三文オペラ」第一幕「海賊ジョニー」の歌から
ヒントを得たといいます。
海賊がやってきて、それまで下働きをしていた女の望みどおり港町の人々に復讐の
殺戮を及ぼすという内容です。
グレースの粛清は復讐として痛快ですが、彼女自身は自分自身の責任の所在を
明らかにするための行為だと言い切っています。
感情的なレベルでの遺恨返しではないと断言しているのです。
これは寓話として本作品を完結させことに貢献していますが、
トリアー監督自身が、彼女なかの葛藤を肯定しているのか否定しているのか、
分からなくしています。
映画の掲示板のなかには、このラストの寓意性についても、
「評論家に尻尾を捕まれないようにして逃げているだけさ」
と辛らつに否定しているものもありました。
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