「Dolls」
★映画基礎データー★「Dolls ドールズ」 2002年 監督・脚本・編集:北野武 出演:菅野美穂 西島秀俊 深田恭子 |
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映画の掲示板を見て歩くと「乞食がなんであんな綺麗なカッコウをしてるんだ」等
の書き込みがありました。普段でしたら、幼い感想だ、と一蹴するのですが、
この作品に限っては、「何も無い映画で、2時間良く寝た」等も“許す”と。(笑)
とても不幸な恋人達の不幸な話ですので、心身ともに健康な人、今現在ハッピーなカップルに感情移入できなくてもいたしかたないのではないかと思うのです。
私は生きるの死ぬのという大恋愛の経験はありませんが、自分が年寄りになって、週末の公園で一緒にお弁当を食べる相手もいないような孤独な晩年だったら、人生の敗残者だよな、と思って漠然たる不安にか
られて嫌になったです。
テレビCMや予告編で菅野美穂(佐和子)と西島秀俊(松本)が赤い紐で身体を縛って紅葉の下を歩くというのが出てきます。
劇中で「つがり乞食」と呼ばれてます。文楽をモチーフにしている映画と聞いてますので、そういう舞台があるのだと思っていたのですが、違うのですね。
北野武監督が、無名時代、浅草でエレベーターボーイをやっていた頃、そういうカップルが浅草界隈に居たそうです。
「大恋愛した恋人同士らしいのだけれども、女の方が頭がいかれてしまって、どこかに行っちゃうので紐で縛って、ふたりで乞食をしている。印象的だった。」と北野監督。
その話に近松の「冥途の飛脚」という心中ものの文楽を組み合わせて話をつくったそうです。
それだけでは足りないので、老境に立って昔の恋人(松原智恵子)を思うヤクザの親分(三橋達也)の話と、
事故で片目を失うアイドル(深田恭子)と彼女のおっかけをしている孤独な1ファンの若者の話が出てきます。それぞれ独立した話として北野監督は考えていたそうですが、
普通のオムニバスとは違う形でメインのドラマと絡んでいきます。
衣装はヨウジヤマモトさんにすべて任せたそうです。
「ホームレスなのだからアディダスのジャージの擦り切れた奴とかぼろほろのスカートとかを予想してたわけじゃない。
まさか(真っ赤な紅葉で真っ赤な衣装だと)赤に赤を持ってくるとは思わないじゃない」
北野監督はおおいに驚いた様ですが、むしろこれを前向きにとらえ、文楽なんだからオーバーに行こうとハラをくくります。
ヨウジヤマモトさんの方は逆にふたりの身体を縛る紐の太さをどうするか迷って結論が出せなかったそうです。
「本当にせつなくみせるなら洗濯物を干すビニールの紐とかの方がいいかもしれないでしょう?」
衣装に触発された北野監督が編み上げの太い赤い紐で行こうと決断します。
実際、擦り切れジャージにぼろスカートの松本と佐和子が桜の木の下を歩いたら?
それが迫真のドラマをかもし出せたら? ベネチアV2とかカンヌでのグランプリも夢ではなかったかもしれません。
しかし、あまりにきわど過ぎて、実験映画のようになってしまって、観客を集めるのは難しくなってしまったのではないでしょうか?
撮影の柳島さん、照明の高屋さんが対談で、北野映画には人物に影が無い、という話をしていて興味深かったです。
スチルなどには普通に人影が映っているのですが、Dollsに限らず、ひろい背景の中にぽつんと主人公が立っているようなアングルが多いにも関わらず劇中では影が印象的に映り込んでいるシーンというものがおよそありません。
いったいどういう事かと言うと、大抵の演出家は三次元のリアリティをフィルムの中に持ち込もうと努力するのに対し、北野映画は二次元のリアリティをスクリーンに求めている、というのです。
「キッズ・リターン」の時に、本当はモノクロで撮りたかったのですが実現できず、
結局青色ベースの色彩設計になった。
画面の中からよけいなものを取り除けていこうとしたら、それがキタノ・ブルーと呼ばれるようになった、という事です。
今回は日本の四季を撮ろうというので、色合いが鮮やかになっている。カラー調整というのはほとんどやってなくて、地の色で撮っている。
絵コンテ的には、「桜の下でサラリーマンが花見をしているというのでは絵にならない。日本刀を手にした軍人の方がまだ絵になる。それより乞食の方が落差があって面白い。乞食の行進、乞食の道行き」と。
作品のすべてが素晴らしいというわけではありません。松原智恵子の真っ赤なワンピースは、ひとつ間違えると爆笑ものですし、深田恭子のエピソードも春琴抄そのものすぎてもうちょっと話をかえるべきでしょう。
故意か偶然か、愛と言うのは“美しく残酷”、というだけでないのが画面に出てます。
愛の究極の姿はぶざまでみっともなくて、滑稽です。
目を潰して彼女の前に現れるのは「脅迫」だし、弁当作って公園に通い詰めるのは「自己満足」ではないですか。
ここでいう「愛」は自分の心の中にあるのであって、
相手と共有できているのかどうか怪しいものです。
「冥途の飛脚」も死ぬとわかっているから観客は泣くのであって、逃げおおせたら2人は犯罪者でしょ、
と身もふたも無いことを監督は言ってます。
百も承知でカメラを回しているのですから、恐い人だなと言わざるを得ません。
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