「アイガー北壁」

「アイガー北壁」映画チラシ■作品基礎データ
「アイガー北壁」
2008年 ドイツ・オーストリア・スイス合作
監督:フィリップ・シュテルツル
撮影:コーリャ・ブラント
脚本:クリストフ・ジルバー、ルーペルト・ヘニング、フィリップ・シュテルツル、ヨハナス・ナーバー
出演:ベンノ・フユルマン(『戦場のアリア』)ヨハンナ・ヴォカレク(『バーダー・マインホフ 理想の果て』)フロリアン・ルーカス(『グッバイ、レーニン!』)ウルリッヒ・トゥクール(『善き人のためのソナタ』)

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ベルリン・オリンピック開幕直前の1936年夏。
ナチス政府は、国家の優越性を世界に誇示するため、
ドイツ人がアルプスの名峰・アイガーの北壁を初登頂することを強く望んでいた。
大いなる期待を背負って、トニーとアンディは恐るべき<殺人の壁>に挑む。
だが、彼らの前にヴィリーとエディというオーストリアの強敵が立ちはだかる。
トニーのかつての恋人であり、いまはベルリンでジャーナリストをしているルイーゼも、
世紀の瞬間を見届けるために現地入りする。
だが、四人のクライマーを待っていたのはあまりにも過酷な運命だった…。

時代に翻弄されながら、前人未踏だったアルプス連峰の難所のひとつ
“アイガー北壁”に挑んだドイツ人クライマーたちの壮絶な運命を、
実話に基づき描いた本格山岳映画『NORDWAND』の邦題が『アイガー北壁』に決定し、
2010年春日本でも公開されました。
本作は、山岳の本場スイスを代表する名峰アイガーの雄大な壮観と、
自然の脅威など細部にまでこだわったリアルな映像によって観る者を圧倒し、
山岳史上最大の悲劇の一つとも呼ばれる実話に基づいた感動ドラマです。

「アイガー北壁」試写会で見ました。
ドイツ映画です。もしかして「グッバイ・レーニン」以来?
「ヒットラーの最後の21日間」以来かな?

日本での公開作品数は少ないですが、それだけに選ばれた作品揃いです。

本作品もそう。
もとの話は、登山家史に知られた悲劇のようです。
それを重厚な味わいで映画化しています。

どこまでが実写で、どこからが特撮なのかはわからないですけれど、
自然の猛威に、まざまざとした恐怖を感じる映像の力強さがありました。

ゲストに登山家の某氏。
それらしい服装で登場し、山を語ってました。
特に驚くような話があった訳ではありませんでしたけれど、
前説としては、なかなかに映画の雰囲気をもり立てていました。

以前、競馬の映画試写会でプロのジョッキーがゲストというのがありましたけれど、
それに負けない企画でした。

ナチスが勢いを増す1936年、
アルプスで当時「殺人の壁」と恐れられたアイガー山の北壁踏破を目指す
登山家の戦いと死を描きます。

若者達は祖国の威信を背負い前人未踏の北壁に挑みますが、
肝心の国からは何の支援もなく、
アルプスへは軍に休暇をもらって
(そう、彼らは一兵卒なのです。)
自転車をこぎ、テントで寝起きして
アイガーに向かいます。

ライバルを出し抜こうと、夜明け前にこっそり出発。

ちょっと待って、そんな夜逃げみたいな登山の始め方じゃ
北壁を踏破したって誰も信じてくれないでしょにと心配すると、
たちまち、登山口下のホテルが騒がしくなって、
テラスは望遠鏡を覗く野次馬でいっぱいに。

「剣闘士の戦いのようだ」

コロシアムのグラディエーター同様、
ホテルの観光客は飲めや歌えのドンチャン騒ぎで、
ロッククライミング見物を楽しみ、
登ってい姿を見られるクライマー達は死にそうな目にあっている。
その対比の残酷さ。
(アイガー北壁が一望できるクライネシャイデック展望台に建つホテルのこと。
1842年に山小屋としてオープンし、改装を経て、1914年頃に現在のホテルの形となる。
1912年のユングフラウ鉄道開通により、観光客が飛躍的に増加。
1920年代にはイギリスで空前のスキーブームがおこり、大成功をおさめる。)

ユングクラウヨッホの山頂に通じている坑道鉄道が、
アイガーの山中を貫いていて、北壁側に窓が開いているのですが、
あろうことか、怪我人を連れて下りて来る主人公達が
その窓のすぐ傍にいることが分かります。

姿を見ることもできれば、声を掛け合うこともできる距離で、
助けることができない。

私は昔、家族旅行でスイスに行ったことがあり、
坑道鉄道にも乗っています。

スイッチバックで坑道内を上がって行く、
アイガーの8合目辺りのスイッチバック中継基地に外に開いた窓がひとつだけあって、
鉄道はそこで必ず停車します。

空気が薄くなるので、乗客に身体を慣れさせる意味のある停車だと思います。

窓の外は断崖絶壁で、北壁の様子は逆に分からなかったです。

そこが殺人の壁とは。
(1896年着工、1912年に開通した、全長9.3kmの山岳鉄道。
トンネル全長は7.4キロメートル。日本で最も急な勾配がある区間より、
さらに3倍ほど急な傾斜を登る。)

主人公のふたりの青年はとても寡黙で、
それゆえ、多くの思いを内に抱え込んでいるようにも見えます。

出発の前夜、ヒロインとのドアごしの抱擁は、
それだけにせつないです。


ネタタバレ改行です。





いまの時代に、主人公が死んで終わり、挑戦は挫折して終わり、
という映画は企画が通りにくいだろうと思います。

それをあえて映画化した関係者の英断に敬意を表します。


アイガー (Eiger) は、ベルニーズアルプスの一峰でスイスを代表する山。
ユングフラウ、メンヒと並び、いわゆるオーバーランド三山の一つ。
標高、3,975 m。アイガー北壁は、高さ1800mの岩壁で、
グランドジョラスのウォーカー側稜(ウォーカーバットレス・北壁)、
マッターホルン北壁とともに困難な三大ルートの一つとして知られ、
三大北壁と呼ばれている。
1935年~1958年までに25回の登頂が試され、死者は15名に及んだものの、
13回67名が登頂に成功している。

アイガーの登頂歴
1858年、チャールズ・バリントンが初めて登頂し、1871年南西稜が、
1876年南尾根が登られ、唯一つ北東山稜だけが残った。
この北東山稜は1921年夏、日本の槇有恒の隊によって初めて登られた。
その成功はアルプス登山史上に一期を画しただけでなく、
日本の登山に大きな影響を与えたという点でも高く評価できる。

アイガー北壁の登頂歴
1935年8月21日
マックス・ゼドゥルマイヤーとカール・メーリンガーが史上初のアイガー北壁挑戦を
試みるも、第2雪田と第3雪田の間で遺体で発見される。
それ以降、この場所は「死のビバーク」と呼ばれるようになった。

1936年、ドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツ、
オーストリアのエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーが挑み、
死のビバークの先の難しいトラバース(ヒンターシュトイサー・トラバース)に成功、
しかしザイルを回収してしまったことが仇となって悪天候とアンゲラーの負傷の際に
退却できず、何とか脱出を試みるもクルツを除く3人が墜落などで相次いで死亡、
クルツも救助隊の元にザイルで下りる際にカラビナにザイルの結び目が引っかかるという
悪夢にみまわれ、体力を消耗していたために結び目を外すことが出来ずザイルに
ぶら下がったまま、「もうダメだ」の一言を残してわずか数m上で力尽きた。

1938年7月24日 アンデレル・ヘックマイヤー、ルートヴィヒ・フェルク(ドイツ人隊)
ハインリッヒ・ハラー 、フリッツ・カスパレク(オーストリア人隊)がアイガー北壁
初登頂。
両隊は登頂開始時は別々のパーティだったが、後から登頂に挑んだドイツ人隊が
オーストリア隊に追いついた時点で同一パーティを組み、初登頂に成功した。

1963年 芳野満彦らが日本で初めてアイガー北壁に挑む
1965年8月16日 高田光政が日本人初登頂
登頂まであと300mと言うところでパートナーの渡部恒明が墜落・負傷したため
救助を求める際に山頂を経由した際に達成、しかし渡部はその間に謎の墜死を遂げた。
一説には骨折の痛みと孤独に耐えきれずに自らザイルを解いたとも言われている。
これをもとに新田次郎は「アイガー北壁」という小説を書いている。

1969年8月15日 加藤滝男・今井通子・加藤保男・根岸知・天野博文・久保進
(夏期世界初直登)
冬期直登ルートが夏場通れないため、「赤い壁」を経由、現在でも最短直登ルートとして
名が残っている。加藤滝男が山頂直下でザイル無しで墜落したが運良く固定ザイルに
引っかかって九死に一生を得た。
1970年1月27日 森田勝・岡部勝・羽鳥祐治・小宮山哲夫(アイガー北壁冬季日本人
初登頂)

1977年3月9日 長谷川恒男 (アイガー北壁冬季単独初登頂)

アイガーを舞台とした小説・映画
北壁の死闘(ボブ・ラングレー) -
主人公は前項のヒンターシュトイサー達が遭難した登山行に参加する予定であったが、
恐怖心から直前になって参加を諦めた(代わりにアンゲラー達が参加したことになって
いる)経歴の持ち主である、という設定。主人公の回想シーンで遭難事故の状況が史実に
沿った形で語られている。救助隊の目前で凍死したクルツの悲劇的な最期が詳述されてい
る。
アイガー・サンクション(トレヴェニアン)
アイガー北壁(新田次郎)
アイガー北壁(2008年 ドイツ映画)

2007年『善き人のためのソナタ』、2008年『ヒトラーの贋札』と、
2年連続してアカデミー賞外国語映画賞を獲得し、世界の注目を集めるドイツ映画界から、
再び壮大なスケールの作品が誕生した。
1930年代、「ヨーロッパ最後の難所」として伝説と化していたスイスの名峰アイガーの北壁
を舞台に、国家の大きな期待を背負って初登攀を目指す若き登山家たちの壮絶な挑戦を
描いた『アイガー北壁』である。
2008年スイス・ロカルノ国際映画祭にてワールドプレミア上映後、
10月に本国ドイツで公開されるとロングランヒットを記録。
かつてドイツがリードした<山岳映画>の伝統を継承しつつ、最新の技術を駆使し、
無慈悲なほどの自然の脅威と極限に置かれた男たちの壮絶な闘いを克明に描き出す。

スイスを代表する山であるアイガー。その北壁は最も困難なルートのひとつとして
知られている。
ヨーロッパでは、1930年頃までに高峰のほとんどが競うように制覇され、
アイガー北壁は「最後の難所」とみなされるようになっていた。

1936年、本作で描かれるドイツのトニー・クルツと
アンドレアス(アンディ)・ヒンターシュトイサーらがオーストリアの2人のパーティと
共にアイガー北壁に挑む。
折りしもベルリン・オリンピックを目前に控えてナチス政権下のドイツが国家発揚に盛り
上がるなか、ヨーロッパ中の注目を集め、その挑戦は始まった。

1936年7月18日、
南ドイツのバイエルンからやってきたトニー・クルツとアンディ・ヒンターシュトイサー
(2人は当時23歳)、オーストリアからのヴィリー・アンゲラー、エディ・ライナーの
計4名の若き登山家たちが北壁を登り始めていた。
その10日ほど前、アンゲラーとライナーは、北壁下部を行く新しい抜け道をすでに
偵察していたが、悪天候によりいったん下山。
マスコミたちは“最後の難所の初征服”が近いことをかぎつけ、沸き始める。
北壁の全貌が臨めるアイガー麓の高級ホテルには、
ジャーナリストや観光客が詰めかけ、テラスに悠然と座りながら、
北壁登攀の様子を眺めることができた。

その日、2組のザイルパーティは別々に北壁を登り始めたが、《赤壁》の下あたりで集合し、
1本のザイルへと連なる。トップのヒンターシュトイサーが《第一雪田》へのトラバースに
成功(後に「ヒンターシュトイサー・トラバース」と名づけられる)、
4人は驚くべき速さで着実に高度を上げていったが、
落石によるメンバーの負傷や悪天候に見舞われ、退却することができずに死亡してしまう。
なかでもトニー・クルツの最期は、アイガー北壁登攀における最も痛ましい悲劇として人々
に記憶されることとなった。

70年前に実際に起きた物語を映画化するにあたり、その撮影は容易なものではなかった。
山でのロケーションでは、先に機材とスタッフをザイルで縛って登山して準備。
その後、スタントらが登ってシーンの撮影に移るが、リアリティを追求するために数時間
待つことなどはざらだった。その日のうちに、求めている空模様にならなければ撮影は
翌日に延期。登るだけでも半日以上かかるというロケを何度も繰り返し、
ようやくリアルな屋外シーンを撮ることができた。また、酷寒の北壁アタックシーンでは、
キャストとスタッフが、実際の北壁同様の超低温に設定した巨大な冷凍庫に入って撮影を敢行。
機材が凍ってしまうほどの過酷な状況の中、キャスト達は熱演した。
自然の壮絶さを迫りくるほどリアルに描き出すことにこだわった映像、
そして限界の状況下の友情と愛を描いた本作は、山岳ファンのみならず、
すべての人々の心を揺さぶるに違いない。

ベルリン・オリンピック開幕直前の1936年夏。
ナチス政府は国家の優位性を世界に誇示するため、アルプスの名峰アイガー北壁の
ドイツ人初登頂を強く望み、成功者にはオリンピック金メダルの授与を約束していた。
山岳猟兵のトニー(ベンノ・フュルマン)とアンディ(フロリアン・ルーカス)は、
難攻不落の山を次々と踏破し、優秀な登山家として知られ始めていた。
2人は世間の盛り上がりに戸惑いながらも、《殺人の壁》と恐れられていたアイガー北壁へ
の挑戦を決意する。
麓には、初登頂を目指す各国からの登山家や、世紀の瞬間を見届けようという報道関係者
や見物客が集まってきていた。その中にはトニーのかつての恋人で、新聞記者をしている
ルイーゼ(ヨハンナ・ヴォカレク)の姿もあった。天候を待つこと数日。ある晩、トニー
とアンディは北壁への登攀(とうはん)を開始する。彼らのすぐ後をオーストリア隊が
追い、4人は快調に高度を上げていくが、メンバーの負傷や急な悪天候に見舞われ、
彼らは想像を絶する状況へと追い込まれていく……。

フィリップ・シュテルツル監督のインタビューを採録します。

Q:監督はオペラのプロデュースや、ミュージックビデオ、CMを手がけていらっしゃいま
すね。アイガーに関する映画を撮ろうと思いついたきっかけは何ですか?

A:この映画のアイデアを最初に思いついたのは、プロデューサーの
ボリス・シェーンフェルダーです。
彼はこのプロジェクトの監督を探していて、私に脚本を送ってきました。
トニー・クルツの物語は、すぐに私の心を捉えました。
1つは、4人の男たちが山で繰り広げた、厳しい死闘だったということ。
もう1つは、ナチの時代に登山がイデオロギーのために利用されたという歴史的な
側面です。この2つの要因が組み合わさり、この物語を特にエキサイティングなものに
していると感じました。

Q:この物語の歴史的背景について、特に何が魅力的であると思いましたか?

A:1920年代から30年代にかけて行われた命懸けの北壁登攀は、
非常に重要な意味を持っていました。人生に何の展望を持てない若者たちが、
何らかのゴールに到達するために、山の麓までの何百キロを自転車で目指した。
自分のためのゴールです。そのゴールのためなら、死んでもいいとまで覚悟を決めていた。
これはナチ神話に出てくる模範と見事に合致します。こうした彼らの行為がイデオロギー
に利用され、英雄的な行為とみなされるようになりました。KdF(ナチの歓喜力行団)を
率いた人物の、「ドイツの若者は山との格闘で、たくましさと男らしさを身につけ、死に方
を学ぶのだ!」という言葉にも表れているように、理念や神話のためにすべてを捧げ、
必要ならば命をも犠牲にすること、これこそ「英雄的な死」であると持ち上げた。
だからナチは登山に興味を持ったのです。これはドイツがウラル山脈に向けて行進を始め
た小さな一歩だととらえることもできます。

Q:『アイガー北壁』は、過酷な状況で撮影されましたが、最大の問題は何でしたか?

A:映画撮影は決して楽なものではありませんでした。たとえ撮影現場がカフェであっても
です。機材を運び込み、部屋を照明で照らし、俳優たちにメイクし、衣装をつけさせる。
非常に限られた時間で多くの作業をこなさなければなりません。さらに、山では、
すべてが2倍も3倍も大変になりました。わずかなセリフしかないシーンでも、
作業には苦労しました。まず関係者をザイルで縛り、それから撮影現場まで登って行かな
くてはなりません。着いた時点ですでに半日が経過しています。
その後、現場での撮影のための準備を整える。設営が出来た途端、雨が降り始めたことも
あり、フラストレーションがたまりました。
ルイス・トレンカー(山岳映画の巨匠として知られるドイツの監督、俳優)と
その仲間たちが映画を撮り終えるのに何年もかかったのには理由があったのだと
思いました。

Q:「自分はいったいなんてことをしているんだ?」と思ったことはありましたか?

A:正直に言うと「その通り」です。特に悪天候で待機を余儀なくされたときは
そう感じました。私のように我慢強くない人間にとって、待たされるのは苦痛でした。
トニー・クルツとアンディ・ヒンターシュトイサーがベルヒルスガーデンの山を
登頂したシーンでは、太陽の光が欲しいと思っていました。
日が照れば美しく華やかになり、本作の後半で繰り広げられる雪の中の死闘と対極に
なると考えたからです。1日目はどんよりとした曇りで、1日中待ちました。
結局1フィートもフィルムを取らずに下山しました。
2日目は、さらに雲が厚くなりましたが、2分から5分くらい、
合間に少しだけ日が差し込んだのです。
その間にそのシーンを撮影しました。撮影はうまくいきました。
うまくいってくれなければ困るんですけれどね。
それにしても、なかなか撮影に入れない、というのは、皆にとって、
特に俳優にとって辛いことです。
アイガーで、ひどく落ち込んだことがありました。
そのことを考えると、今でも胃がきりきりと痛み、惨めな気持ちになるくらいです。
撮影作業がほとんど終わった頃、氷原で代役の俳優をヘリから撮影する必要が
出てきました。プロデューサーたちがそのために再度資金を調達してくれたのに、
その日は気温が高すぎました。気温が高いとアイガーでは落石の危険が出てきます。
アイガー北壁の麓、クライネ・シャイデックに座り、
太陽を浴びながら滅入る自分の姿をよく覚えています。
必要なものはすべて揃っていました。
真っ赤なヘリを2機、衣装をつけた代役の俳優にカメラマン…。
けれど、気温が高すぎたのです。その資金は無駄になり、チャンスを逃してしまいました。
映画というものは、内側に命を秘めた生き物です。
そしてチャンスという要素は思いのほか大きい。
特に山岳映画の場合、チャンスにすがるシーンが多いのです。

Q:『アイガー北壁』を見ると、この映画がカメラマンにとっては
決して楽な仕事ではなかったことが想像できます。
このプロジェクトはどんな挑戦でしたか?

A:私たちは本作で、とにかく可能な限りリアリズムを追求しました。
登山のシーンにリアリティがなく、スタジオで撮影したかのように見える娯楽映画では
なく、『運命を分けたザイル』(2003年英)のようなドキュメンタリー映画を
お手本にしました。この映画を見ると、まるでカメラがアルピニストたちと一緒に
登っているかのような印象を受けます。
戦闘の真っ只中で写すカメラマンのように。もっとも山岳映画のジャンルでは、
このようなアプローチは新しいものではありません。
往年の山岳映画の監督、アーノルト・ファンクやルイス・トレンカーなどは、
ドキュメンタリー的な視線で山と向き合っていました。
山岳映画は、大げさなほど崇高に仕上げるのが当然であった中で、
彼らは人工的なものを作り出すのではなく、あるがままの姿を撮ろうとしたのです。
私たちはドキュメンタリー的リアリズムを基本とし、手持ちカメラによる映像を選び
ました。このほうが荒っぽく撮れ、山のシーンにリアリティが増します。
昔の時代を描いた映画は、その装置や衣装、ヘアスタイルなどで必然的に絵画のような
華やかな雰囲気が出るものですが、そうした山以外の華やかなシーンにも負けず、
荒々しい映像がかえって映える効果もあります。

Q:ドキュメンタリー的リアリズムとなると、現地での撮影ということになります。
しかし、山での撮影は危険をはらんでいることで知られています。特に天候がそうです。
落石、雪崩などによっても撮影が困難になります。かつての山岳映画の監督たちは、
そういった事情により、撮影に何年もかかったと聞いています。

A:それに関しては当然、別の方法をとらざるをえませんでした。
今日、何年もかけて映画を撮るという贅沢は許されません。
それ以外にも、保険の関係で、出演者を拘束できる時間には限りがあります。
そのため、私たちは計画を立てました。まず、代役と小さな撮影隊で山に登り、
可能な限り当時の状況に近い天候の中で多くのシーンをあらかじめ撮影する。
次に、山でも比較的危険の少ない場所や、撮影所に作り替えた冷凍倉庫で俳優に演技を
してもらっての撮影。そして、事前に撮っておいた山のシーンと合うように配慮しながら
撮影を進めていきました。この計画は、とてもよかったと思います。
山での撮影では、凍傷などの特殊メイクはうまくできなかっただろうと思います。
また、山であらかじめ撮った映像も、他の場所では絶対に撮れなかったと思います…




以下はネタバレとなるのでmixi独身映画ファンコミュニティ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1299114
にて『アイガー北壁』の頁をご覧下さい。



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