「アイデンティティー」
★映画基礎データー★「アイデンティティー」 2003年 アメリカ映画 監督 ジェームズマン・ゴールド 脚本 マイケル・クーニー 出演 ジョン・キューザック |
嵐の夜、田舎のモーテルに偶然居合わせた10人の男女。
ひとりまたひとりと死んで(殺されて)いくが、その手には
番号順のモーテルの部屋の鍵が。。
一見何の繋がりもないようにみえたが、宿泊者の誕生日は偶
然にも同じだった..ジョン・キューザック主演のスリラー「アイデンティティー」。
ハリウッドでは無名のマイケル・クーニーのオリジナル脚本を
製作のキャシー・コンラッドが“見つけて”、旦那のジェームズマン・ゴールド監督
に、
見せたのが映画化の発端です。
よく“脚本を見つける”という言い方がされますが、
これは一体どういうことなのでしょうか?
日本の映画界では、脚本の著作権は発生主義で、
つまり執筆と同時に執筆者が自動的に著作権者となりますが、
ハリウッドの場合は、これが登録制となっていて、
版権管理協会に登録して初めて版権が主張できます。(※)
オードリー・ヘップバーン主演の「シャレード」(1963)は映画会社の事務員の
ミスで、
版権登録がされていないそうです。
つまりリメイクはただで出来ると言う事です。
話が脱線しました。
プロデュサーたちは、版権管理協会に登録されている有名無名脚本の山から、
これはといった脚本を探し出すのが最初の仕事となるわけです。
「ライフ・オブ・デビット・ゲイル」もそうして“見つけられた脚本”でしたし、
この「アイデンティティー」もしかり。
(※版権、著作権に関する注釈)
この件についてアメリカ在住のメーリングリスト参加者より、以下のコメントを頂いてます。
「米国の著作権法も随分と改正され、現在ではほとんどの先進諸国同様、
発生主義をとっており、その効力発生に著作権局での登録を要しません。
法律上、大きな区切としては77年までのもの、78年から89年
3月1日までのもの、それ以降のものって感じですかね。」
なるほど、ハリウッドの考え方も時代と共に変化してるんですね。
ジェームズマン・ゴールド監督は「コップランド」「17才のカルテ」「ニューヨー
クの恋人」などのメガホンを取った人で、
取り上げるジャンルは毎回異なりますが、大作とはいいがたいプログラムピクチャー
を手堅く演出し、そこそこ映画会社を儲けさせている人です。
「アイデンティティー」もまあ、モーテルのセットを撮影ステージに組み立て、
(普通の映画はセット数が約50)
そこに雨を降らせ続けて約四十日で撮り上げた作品だそうで、
キャストがジョン・キューザックにレイ・リオッタにアマンダ・ピートでしょ。
そりゃみなさん芝居の出来る人たちですけど、偉く地味地味なキャストですよね。
映画ファンを別とすれば、ネームバリューで客の呼べるキャスティングじゃないです
ね。
“ここに集まったのではない、ここに集められたのだ”という宣伝コピー。
「アイデンティティー」というタイトルそれ自体、オチから逆算すると、実にそのま
んまの内容ではあります。
途中でオチが読めるか? といったらまず読めないです。
といいますか、どんどんミステリーの定石から外れていって、話がホラーががって来
る。
ふりはありますけど、トリックを暴くための伏線はどんどんぶった切っていく展開で
すからね。
じゃあ、つまらないかと言うと、そんなことはない。
ねたばれ改行です。
話の頭に出てくる、死刑判決の出た事件の再審が、明日死刑と言う前夜に
法廷以外の場所(?)で夜遅く開かれるというのが嘘っぽいですね。
州ごとに刑法が違うにせよ、
こういうことは本当にありえるんでしょうか?
私はこれは何かの例えか、トリッキーなネタのひとつかなと思いまして、
本当に法廷の再審なんだとは、クライマックスのネタあかしまで信じてなかったで
す。
それをもう少し素直に信じていれば、結論に早くたどり着けたかもです。
メンバーがモーテルに集まるくだりが、時間経過を前後に入れ替えていたりして、
本当は偶然に集まった人達のはずなのに、何かいわくありげに集まっている。
ここいらへんは見せ方が上手いです。
4人目が死ぬまでがサスペンス風で、
見ているお客の側は、アリバイなんかをあれこれ考えているんですが、
遺品のルームキーがカウントダウンされていたりしてきて、
どうもインディアンが昔虐殺された場所だとか、話がオカルトじみてくる。
一方で逃げた凶悪犯の追跡劇がそれなりに盛りあがったり、
レイ・リオッタが案の定、偽刑事だったり、
モーテルの支配人も偽者だったりと、
サスペンスの部分も依然として継続している。
話がどっちの方向に向かって進むのか、読めないまま進むあたりが楽しいのですが、
これはどんどん加速して行って、
誕生日が全員同じだったり、苗字が各州の名前だったりと、
因果性がありそうなんだけど意味不明のヒントがころころ出てくる。
死体が次々に消えるにいたって、見ている側は完全に訳がわからなくなる。
そこで冒頭の事件の再審の話の続きが出てきて、ネタばらしがある。
これがぶっ飛びもののトリックで、「なるほどねぇ」と、
お客は呆れるやら、感心するやら。
再度、ネタばれ改行です。
重大なトリックを明かしてしまうので、少しでも映画を見る気がある方は、
この先は決して読まないで下さい。
しかし、催眠術師などが登場しているわけではないのに、
どうして“彼”は、田舎のモーテルで分裂人格の全員集合が可能となったんでしょう
か?
すっぽり説明がないし、実際にはこういう荒療治は成立しないのではないかしらん。
―と首をひねりつつも、
ジョン・キューザックとレイ・リオッタの対決は見入ってしまう。
いろいろ映画的な反則技を繰返しているのですが、
何を描きたいかテーマがはっきりしていて、そのためにああいう脚本を書いたんだ、
演出したんだという事が分かるので、
一杯食わされても腹ただしいという気分にはならなかったです。
でも子供の再登場は手前で読めてしまうし、
彼がああいうサイコパスになった訳が、幼児虐待を受けたため、というあたりが
みょうに平凡で、すわりは良いのですが、「あっそう」で終わってしまう一番の理由
ですね。
これは全編で90分の内容です。あれっ、そんなものか?と思いましたが、
どんでん返しが繰返し出てきますので、もっとボリュームがあったように感じたので
すね。
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