「この胸いっぱいの愛を」DVD脚本レビュー

「この胸いっぱいの愛を」映画チラシ★映画基礎データー★
「この胸いっぱいの愛を」
2005年 日本映画
監督脚本 塩田明彦
出演 ミムラ

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舞台は2006年。携帯電話を片手に、急ぎ足の男がいる。
彼の名は鈴谷比呂志・30歳(伊藤英明)。
百貨店のお弁当フェア担当である彼は、
出張で小学生時代を過ごした北九州・門司を訪れる。
久しぶりに味わう門司の空気。
海も街も、そして比呂志が幼い日を祖母と過ごした旅館も、
まったく変わったところがない。
しばし郷愁に浸る彼の前に、ひとりの少年が行き過ぎる。
その瞬間、言葉を失う比呂志。
その少年は20年前の自分“ヒロ”(富岡涼)だった。
「俺かよ!?」比呂志は動揺を隠せない。

新聞の日付を確認するために喫茶店に入った比呂志は、
以前出会った若いヤクザの男(勝地涼)と再び出会う。
そこでふたりは、間違いなく自分たちが1986年にタイムスリップしていることを確認する。
途方に暮れる比呂志だったが、咄嗟にあることを思い出す。
「今日は、婆ちゃんの誕生日だ!」
小学生時代を過ごした旅館の台所を一目散にめざす比呂志。
そこで彼は、ボヤになりかけの火を消し止める。
見知らぬ来客に唖然とする旅館の人々。
20年前・1986年の祖母の誕生日にケーキを焼こうとして
火事を起こしてしまったことを思い出した比呂志は、
その火を未然に消し止めることに成功したのだ。
この出来事をきっかけ行き場の無いタイムトラベラーの比呂志は
ヒロと同じ部屋に暮らし、旅館に住み込みで働くことになる。
なぜか自分の気持ちをよく知っている突然の来客に戸惑いを隠せないヒロ。
「おまえ、なんかムカつくんだよ」「それはこっちのセリフだよ」。
20年前の自分と現在の自分の不思議な同居生活がはじまった。
比呂志が旅館の仕事に励んでいるある日、彼はひとりの女性と再会する。
それは、ずっと比呂志の胸に住み続けていた憧れの女性“和美姉ちゃん”(ミムラ)だった。
東京からやってきて友達ができず、
ひとりぼっちの淋しい日々を過ごしていたヒロにとって、
近所のお蕎麦屋さんのひとり娘・和美は、唯一の友達だった。
音大を卒業して半年後に門司に帰ってきた和美は、
ヒロの将棋友達であり、ヒロにヴァイオリンを教えてくれる優しいお姉さんだった。
しかし、和美は難病にかかっており、手術を拒否してこの世を去ってしまう。
大好きな和美姉ちゃんを救えなかったことが、ずっと心にひっかかっていた比呂志。
まだ、その事実を知る由もないヒロを前に、彼の胸には複雑な思いがこみ上げる。
大人になった比呂志は、幼い頃の叶わなかった願い−
大好きな和美姉ちゃんを救うことができるのか−。

“原作・梶尾真治、監督・塩田明彦をはじめとする『黄泉がえり』スタッフが再結集し、
ふたたび、人の思いが呼び寄せる珠玉の物語が誕生。”と宣伝コピーにあります。
二番煎じではないか、と散々陰口を叩かれた本作品ですが、
もともと『黄泉がえり』の続編か姉妹編を作ろうということで企画が検討されたのが
制作の始まりです。
映画『黄泉がえり』のエンディング直前に主人公の話の続きがあるような
ナレーションが挿入されていますし、梶尾真治は「黄泉びと知らず」という番外編を書いてもいます。
「黄泉びと知らず」は阿蘇山周辺で死者が蘇る話を聞きつけた離婚夫婦が、
事故で亡くした子供を生き返らせるべく、再会し熊本へ向かう、
再生への祈りを込めた旅路を描く短編ですので、続編や姉妹編の制作は予定されたようなものでした。
―で、同じ梶尾真治の4篇のタイムトラベル・ロマンスがおさめられた『クロノス・ジョウンターの伝記』
(朝日ソノラマ刊)の中の一篇「鈴谷樹里の軌跡」をベースに
『黄泉がえり』のモチーフを生かして大幅に脚色しなおすことで制作のゴーサインが出ました。
(塩田明彦監督も脚色の中心的役割を果たし、他の3篇のエッセンスも織り交ぜながら纏めたといいます。)
ただし、トリッキーな部分が『黄泉がえり』の逆転アイディアであることは、
ネタばれになる為、正面切って姉妹編であることを公表して宣伝することは止めざるをえませんでした。

「クロノス」(仮)というタイトルで用意された脚本準備稿は、
舞台が函館のイメージで出来上がっているものでした。
ただそのイメージは撮影を予定している1月〜2月にかけての「冬の函館」ではなく
「冬ではない函館」のものでした。

北海道の中では雪が少ない函館でも、1番の雪の季節に撮影に行くという
リスク負わなければいけない程函館でなければならない話なのかと、
プロデューサーらは頭を抱えたようです。
公開スケジュール等から逆算して、春まで待つ、という選択肢は取れなかったようです。
(劇場公開は秋でしたが、主役のミムラが「いま会いに行きます」、
伊藤英明も「海猿」のそれぞれテレビドラマ版の主役で長期拘束が予定されていたこと等、
本来ウリになるSFXを割愛しホスト・プロダクションを短縮しても
全体スケジュールの調整が不能だった為)

「行ったことはないけれど、ちょっとにおいがするので行ってみたい」と
北九州の門司の地名を出したのは塩田監督でした。
ロケハンに行くまえ、関係者は下調べをしています。
2, 3年前から「北九州のフィルムコミッションは優秀よー」という噂は
東宝制作部でもよく耳にされていたようですが、
実際コミッションがプロモーションDVDまで作っていたのには驚かされたといいます。

最終的には函館と北九州2カ所にシネハンに行き、
北九州に決まったことは、その後の空港カウンターや飛行機中の撮影セットのこと、
ロケ受け入れ体制や天気のことなど、沢山の利点と結びつき、
良い結果に繋がっていったようです。
余談ですが、実際の撮影で北九州への移動の日、
時期外れの台風が襲来し(2月です)すべてのスタッフが
「函館にいってなくて良かったー」と監督の「雨男」パワーを再確認したとか。
(塩田監督は業界でも有名な超絶「雨男」なのです。)

私は予備知識ほとんどゼロの状態で見ています。
素のまま見れば、それなりに感動できる映画ですが、
生半可な知識があって『黄泉がえり』とどんな風に関わりがあるのだろう、等と
邪推しながら見ては半分も面白くは無かったろうと感じますね。
『黄泉がえり』も、死者の集団復活がなぜ起きたのかはどうでもよくて、
仮にそういうことが起きた場合、私たちはどう受け止めるのだろうか、
という事が軸にドラマが作られていましたが、
「この胸いっぱいの愛を」も同じです。

伊藤英明という男優は、そう細やかな演技の出来る人ではない。
むしろ本人の人柄で役を自分に引き寄せるタイプのタレントだと思っていますが、
今回の比呂志も、彼のぶっきらぼうさとナイーブさが混在したようなところが
上手く嵌っていて、見ていて気分がよかったです。
本人は、どの部分が難しかったかとインタビューで尋ねられて
「ミムラさん演じる“和美”と初めて出会うシーンは難しかった」と答えています。
比呂志にとって和美姉ちゃんは初恋の人。
初恋の人のイメージというのは、顔とか容姿とかだけではなく、
その人の雰囲気や自分がその時に抱いていた想いなどから出来ている
ということはないですか。
つまり初恋の人というのは、自分の想い出そのものだと思うんです。
その人と再会する。しかも時空を超えて。
そして今回の場合は、その人が死んでしまうことを既に知っている上に、
自分は一度その死から逃げてしまっている。
そんな状態で、初恋の人・和美姉ちゃんと出会う時の感情はどんなものだろうと、
悩みました。
…なるほどそれは確かに難しそうです。

いっぽうミムラの方は、
“和美”と自分自身、似ていると思いますか?と聞かれて
「和美は素直で、思ったことをすぐに口に出してしまう。
そして自分がこうだと考えると、決してそれを曲げようとしない。
信念が強いとも言えるけれど、時々それがデメリットにもなる・・・。」
と分析し、
台本を初めて読んだ時から、私に近いというか、非常に似ていると思っていました。
演じる時に自分を織り交ぜながらお芝居するのが難しくもあり
楽しくもあったのですが、
役が自然と自分に馴染んでくるという感じで、
今まで私が演じてきた役の中では一番私に近い役柄だったと思います。
もしかしたら私が感じている以上に私に似ていて、
家族が見ると、そのままだと言われそうです。
と、コメントしています。
ふーん、これまでテレビで演じてきた役などでは、
人がよくて、人前で声を荒げることなど気が弱くて出来ないような
役が多かったですが、本人は別のようです。

映画のようにどこかの時代に戻れるとしたら、
監督はいつにタイムスリップしたいですか?と問われて塩田監督は、
作品のテーマにも言及するように
「小学校6年生の時に我が家に“ムック”という犬が来たんです。
小さくてかわいい、だけど背骨が曲がっていてまっすぐ走ることが出来ない雑種。
僕が「ムック!」と呼ぶと、彼は懸命に走ってくるんですが、
背骨が曲がっているから僕からどんどん逸れて行く。
でも顔だけは必死に僕に向いている、そんな愛おしい奴でした。」
と話を切り出しています。
偶然でしょうが映画にも老犬が出てきますね。

中学校に上がって引越しをしたのですが、
それを機にムックを室外で飼うことになったんです。
そして僕も中学生活に必死で、次第にムックとの関係が薄くなっていったんです。
ある朝、ムックの調子が悪い。
直感的に、彼を病院に連れて行かなくてはと思ったんですが、
両親は仕事に行かざるを得ない。
連れて行けるのは僕だけだったのに、なぜか学校に行かなきゃ。
帰ってから病院に連れて行こうと考えてしまったんです。
帰宅するとムックは死んでいました。
なぜ自分はあの時学校を休んで病院に連れて行ってやらなかったのか。
学校なんてそれまでも時々ズル休みしていましたのに、
なぜあの時に限って学校を優先させてしまったのか?
今考えると、その朝ムックを見た瞬間、
コイツは死ぬってことが直感で分かっていたんだと思います。
しかしそれを認めたくなかった。
自分はムックの死から逃げてしまった。
今もし過去に戻れるなら、その瞬間に戻って、
どんなに反対されようと、ムックを病院に連れて行ってやりたい。
今でも時々夢を見るんです。
ムックが遠くにいて、僕が「ムック!」と呼ぶと懸命に走ってくる。
でも背骨が曲がっているから、
進路からどんどん逸れて、やっぱり僕の手元には戻ってこない。
この想い出は、今回の映画に色濃く影響を与えていると思います。

人生の失敗をやり直したい、という願望はどんな立派な成功を収めた人にも
ひとつやふたつあることでしょうが、
ここでやり直したい事柄は、登場人物により大小さまざまです。
そこが面白いですね。
実は人の真実とはそういったものではないか、という共感を
呼び起こさせる内容になっているので、
この映画はタイムトラベルものとしては、
かなり乱暴なつくりになっているにも関わらず、合格点を挙げることが出来ます。
ネタばれ改行です。







ラストの和美は設定上40代中盤の筈ですが、
60以上のシニアに見えます。
大病を得た人は老けて見えることが多いとも言いますが、
それにしても老け作り過ぎますね。
一人台所でオレンジを落として…、あの演出は悲しすぎます。
生きることは、楽に死を選ぶより厳しいというメッセージがあるのかもしれませんが、
エンディングの登場人物の時空を超えた再登場は、天国の情景だと思っていたら、
脚本では“誰かの夢”と云う事のようですね。
あのラストがないと、幕切れが悲劇になってしまうので必要で仕方ないとは思うのですが。



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