「死ぬまでにしたい10のこと」映画製作裏話
★映画基礎データー★「死ぬまでにしたい10のこと」 2002年 スペイン・カナダ映画 監督・脚本 イザベル・コヘット 出演 サラ・ポーリー |
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ある日突然、ガンで余命2ヵ月の宣告を受けた若い母親アン(サラ・ポーリー)。
生きているうちにしたい10個の事柄をリストアップした彼女は、
それを実行に移そうとします。
そのなかには、幼い娘たちに愛を伝え、
夫以外の男と恋に落ちることも含まれていました。
間近に迫る死期を知らされた若い母親の、残された日々を描く人間ドラマ「死ぬまでにしたい10のこと」です。
残りわずかな生を、
家族や自分のためにするべき10個の事柄についやそうとするヒロイン。
『トーク・トゥ・ハー』のペドロ・アルモドバル監督が脚本を気に入り
製作を買って出たという注目作です。
以下、ネタばれ改行です。
映画は雨の中に一人立つアンのモノローグからはじまり、
「my life without me」のメインタイトルが出ます。
この映画はナンシー・キンケイドの短編
「Pretending the Bed is a Raft」
を原作にしていますが、その小説ではヒロインが病気を周囲に告白しています。
監督で脚本を書いたイザベル・コレットは、
「ヒロインが病気を秘密にしたらどうなるか」
という着想を得て構想を膨らませたそうです。
オープニングでひとり雨の中に立ち尽くすヒロインは、
死の宣告により、己を見つめ直します。
家族に告げず、内面に向かう事は、観客に賛否の両論を呼んでます。
「身勝手である」
「否、幼すぎて死を理解できない二人の娘に語ったところで、
そして彼女をひたすら信じ愛しつづける夫に痛恨の打撃を与えるに忍びないから」
難しいところですが、
私自身は、彼女が自分自身死を受け入れる、向き合う覚悟を決めるまでの
モラトリアム期間をドラマにしただけではないか、という風にも考えています。
余命2、3ヶ月なら、これははじめの1月ほどのドラマ。
からだが動けなくなってなお、家族に死の病を隠す事など物理的に不可能ではないか
?
劇中「家族には黙っていよう」などと決意を述べる場面など無かった筈、
というのが直接の根拠ですが、
監督で脚本を書いているイザベル・コヘットが映画テーマとしたかったのは、
本人の「喪の仕事」だったのではないか、と考えています。
1.感情麻痺の時期:ショック、否認
2.思慕と探索の時期:悲しみ、探索行動
3.混乱と絶望の時間:怒り、恨み
4.脱愛着と再起の時期:諦め、受け入れ
死の宣告を受け、直ちに家族友人に情報開示してしまえば、
本人が喪の仕事に取り掛かるいとまも無く、現実の後始末に
もみくちゃにされてしまうので無いか?
病院から戻ったアンは、母親と夫に貧血だ、と説明します。
彼女は事実を隠そうとした?
行動の上ではそうなりますが、
私は
1.感情麻痺の時期:ショック、否認
ではなかかろうかと考えます。
自分自身、納得できない死の宣告を、
大切な肉親にうかうかとしゃべれるものではないではないですか。
夜のコーヒーショップでノートを開いた彼女はまず、
自分の人生の総括を始めます。
――十代で妊娠、結婚。
自分は大学で清掃係り
失業中の夫と二人の娘と母の家の裏庭でトレーラー暮らし、
父親は十年以上も刑務所にいる。
ホテルの厨房づとめの母親は人生を呪っている。――
以上、おわり。
ほんの数十秒で23年の人生は語りきってしまった。
2.思慕と探索の時期:悲しみ、探索行動
振り返るべきものがないなら、
残りをどうするか。
アンは、これから「する」、10のことを書き出していきます。
とはいえ、
するべきことは、これまでの生活、やり残したこと、するべきことなどの
延長線上に生じているはずです。
まずウェイトレスを相手に“思うことを話してみる。”
「整形してシェールになる? 何の意味があるの?」
でもウェイトレスががっかりした顔をしたのですぐ訂正する。
「素敵ね、シェールは最高」
ハリウッドでは、シェールは整形美人としても有名だが、ま、それは余談です。
“爪とヘアスタイルを変える”つもりで出かけていった美容院では、
なぜか美容師にしつこくブレードを勧められて退散する羽目に。
“好きなだけお酒とタバコを楽しむ”ため
“夫以外の男と付き合う”ため
乗り込んでいったクラブで、昼間の美容師と鉢合わせし、女二人で語り合うことに。
悲しみを紛らわすため、あるいは死の孤独を埋めるための探索行動は、
迷走気味です。
妻であり母であるアンは「死ぬ覚悟」で街に出かけますが、
世の中は23の小娘にけして優しくはありません。
骨折り損のくたびれもうけ、
アンがラドリーで眠りこけていると、
その寝顔を覗き込む男がいます。
その男リー(マーク・ラファエロ)が忘れて残していった本には、
電話番号が書かれています。
“夫以外の男と付き合う”
リーとアンは愛し合う関係となりますが、
これはアンの方から仕掛けた不倫であります。
リーの側はともかく、アンは意図的に彼を誘惑しています。
3.混乱と絶望の時間:怒り、恨み
アンははじめてキスした男ドンの子を産み、結婚しているのだから、
他の男を知らぬわけです。
喪の仕事の怒り、恨みの矛先をリーに向けたわけですが、
ここにはもうひとつ、
ドン以外の男と愛し合っていたら、自分にはどんな別の人生が
あったのだろうか?
という疑問に答えが欲しかったのではないか、とも考えられます。
まあ、性欲とかだけなら
“誰かが私と恋に落ちるよう誘惑する”
とは思わないでしょう。
一夜の恋では満足できないわけで、
これは積極的に相手の人生に介入しようと言う考えの現れです。
リーがそこいらのスケベ親父だったら、
アンはさだめしみっともない目に合わされたことでしょう。
あるいはデビット・ゲイルみたいなやつだったら命に関わります。
(という以前に別の話になってしまう。)
イザベル・コヘットが書きたかったのは、
そんな俗な話ではなくって、
アンがより孤独な魂と出会ったらどうするのだ?
という選択肢でした。
世界を測定して歩いたという測定士のリーは、
「恋人が家具を持って出て行ってしまった」というがらんどうで
殺風景な一軒家に少しばかりの本と
姉のCDと共に住んでいる。
二人はしばし傷を舐めあうように互いの孤独を慰めあいます。
4.脱愛着と再起の時期:諦め、受け入れ
ドンと十七歳のときにコンサートでであった時のことを
二人で語り合ったり、
父親を刑務所にまで出かけて会いに行ったりするなかで、
上昇したり下降したりしながら、
身近な人たちひとり独りとの愛を確かめ、別れを確かめる。
とどめが車の中で娘達に残すためのテープの録音で、
十七歳まで来た時、「もう子供じゃないのね」と絶句してしまう。
リーとは、出かけたレストランの表、画面の真ん中で抱き合い、
右と左に別れる。
ふたりは共に生きる者同士ではないし、共に死すべき者同士でもない。
りーはしばし車の中に留まってアンの姿を眼で追うけれど、
ドンと抱き合う姿を認めて去っていかざるを得ない。
“娘達の気に入る新しいママを見つける”
ことは隣人の看護婦アン(レオノール・ワトリング「トーク・トゥ・ハー」の
眠れるバレリーナ)を家に招くことで満たされたかに見えます。
病状が悪化してベッドに横たわるアンは、
ビーズのカーテン越しにドンとふたりの娘と看護婦のアンが微笑む姿を
“自分のいない家族”を目の当たりにします。
“家族でビーチに行く”
のは彼女に任せよう、とアンがめを閉じた時、
喪の仕事は完結します。
本当にアンの肉体が動けなくなり、
朽ち果てるまでには実は、死の宣告を受けてから、
今こうしてベッドに横たわるまでと同じくらいの時間が
必要なのではないかと思うのですが、
語るべき物語は語りつくされてしまったので、
アンの物語は、そこで幕を閉じるのです。
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