「寝ずの番」DVD脚本レビュー
★映画基礎データー★「寝ずの番」 2006年 日本映画 監督 マキノ雅彦 脚本 大森寿美男 出演 中井貴一 |
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上方落語界の重鎮・笑満亭橋鶴(長門裕之)―今まさに、臨終のとき。
弟子たちが見守る中、一番弟子の橋次(笹野高史)が言った。
「師匠、何か心残りはありませんか?
最期に、これはやっておきたかったということはありませんか?」
橋鶴の口がもごもごと動いた。
「そ、そ○が見たい…」
「!」「!!」「!!!」
“おそ○”とは京都弁で女性のあそこのこと。
皆が呆気に取られる中、橋次はおとうと弟子の橋太(中井貴一)に言った。
「お前、ちょっと家へ帰って、嫁さんを説得してこい」
「あの、なんですか。うちの女房にそのう、師匠におそ○を見せろと言うんですか?」
「そうや」
「……」
兎にも角にも、師匠の最後の願いを叶えるため、家へ帰り、
嫁の茂子(木村佳乃)と対峙する橋太。
キップはいいが、気に食わないと口より手や足や物が飛ぶといった気の強い茂子。
「でも、それやったらどうして、
志津子ねえさん(橋鶴の奥さん)のを見せてあげへんのよ?」
「志津子ねえさん?あの人ははっきり言ってばばあやぞ。
BABA(ビーエービーエー)ばばあやぞ。
師匠かて、いまわの際にそんな婆さんのもの見たくないに決まってるやないか。
お前みたいな美人のおそ○が見たいのは当たり前やろ!
お前みたいな美人のおそ○やないと、あかんのや!」
その言葉にくらっと来た嫁の茂子は、ポンと胸を叩いて言った。
「わかったわ。あたしかてこう見えて咄家の女房よ。
師匠のご臨終に恥ずかしいもへったくれもないわ。
見せましょう、こんなおそ○で良かったら」
茂子の到着と入れ替わりに、病室を出て行く弟子たち。
その場には橋太、そしてなぜか橋次が残った。
「ほな師匠、いきますよ」というなり、橋鶴のベッドに上がって、
相撲取りのように股を割る茂子。
そのまま、橋鶴の顔の辺りまでにじり寄る。
師匠の目は、茂子の股間にじっと注がれていた。
役目を終えて、ベッドから下りる茂子。橋次が、師匠の耳元で囁いた。
「どうでした、師匠、そそをお見せしましたが」
すると橋鶴は、顔で、弱々しく首を振った。
「……そとが見たいというたんや……」
「……そと?……外!」
「……」
―その3分後に、師匠は亡くなった。
師匠の通夜で“寝ずの番”を勤めることとなった弟子たちは、
茶子は茶子でも“淡路島のチャコの海岸物語”とか
橋太の“初体験の相手はあの魚のエイやった”事件や、
“ハワイの芝生マリファナ・パーティ”やらで盛り上がった。
亡き骸を引っ張りあげて落語“らくだ”のカンカン踊りが始まる有様。
そして橋次兄さん、志津子ねえさん(富司純子)がポックリいっちゃいまして、
そんなお通夜の席でおもろい噺、せつない噺。
志津子ねえさんの元彼(堺正章)が現れて、
その元彼が唄うエッチでシャレた座敷歌に、負けじとばかり皆が皆歌いだしてしまいます。
マキノ省三を祖父に、マキノ雅弘を叔父に持つ日本映画界を代表する俳優
津川雅彦が、マキノ家3代目監督“マキノ雅彦”として初メガホンを取りました。
2004年7月、52歳の若さで急逝した中島らもの短編3部作「寝ずの番」が原作です。
ベストセラー作家であり、劇団の主宰者であり、ロックバンドのリーダーでもあった中島らもが、その独特な語り口で上方落語界の人間模様をお通夜を通して描いた洒落気たっぷりの物語です。
三代目マキノ監督は日本映画が忘れてしまった“洒落と粋”の世界を蘇らせるべく
構想3年を掛け、完成させています。
全体が落語の小噺三部作のような作りです。
通夜の席、通夜の晩が舞台で、語られるエピソードに野外シーンが出てくる程度で、
全編の8割が座りっぱなしの室内シーンです。
これを固定カメラで捉えて、観客に退屈させないように見せるというのは、
なかなかに大変なことです。
尺が90分と最近の映画では短い方ですが、
内容が内容だけに、これが緊張感の維持できるギリギリの長さです。
ヌードが出るわけでもないのにR指定です。
言葉のHネタがてんこ盛りで、そりゃやっぱりR指定でしょ。
伊丹十三の映画に「大病人」というのがありました。
「お葬式」でなくて「大病人」の方の話です。
余命一年と宣告された三國連太郎がジタバタする。
あれは死をテーマに伊丹監督が、人生の末期、死に様、翻って命とその意味を
あれこれ考察しています。
「お葬式」は儀式としての葬式を取り仕切る遺族のバタバタを描いてますので、
「寝ずの番」と入れ物としては同じだけれど、
中身が違いますね。
「お葬式」は
死そのものには当事者意識はなくて、
変な弔問客とか、おかしな葬儀屋とか生きている奴の方に興味が行ってます。
「寝ずの番」の方が、もっと死を引き寄せている。
「大病人」てのは霊体離脱した三國連太郎が病院の天井で、
電撃ショックで蘇生される自分にぶん回されたり、
クライマックスの劇中曲カンタータ「般若心経」だとか、
死と葛藤している。
葛藤している、戦っている、というのは伊丹監督が、熟年だったから。
雅彦監督はお年寄りだから、もっと醒めた感じですね。
でもまだ黒澤明の「まあだだよ」ほどには枯れてなくて、
だから、“おそ○”なんて危篤老人にしゃべらせている。
(でもクレジットに“文化助成基金事業”とかなんとか出てきますので、
文部科学省から金が出てるんですか?
ゴールデンタイムにテレビ放送されそうもないんだけどねぇ)
死の意味を問うことは、ちょっと怖い。
死の手前で戯れている、そんな作品ですね。
ネタばれ改行です。
「寝ずの番」は
オチがないんです。落語の小噺のようですが、とどめの一言がない。
最後の中井貴一の一言「それじゃあ、また誰かの寝ずの番で会いましょう」というのは、
逃げですね。
総括しない。出来ないのかもしれないし、したくないのかもしれない。
結論なんてないんだよ、と言い切っているわけでもない。
序盤から中盤が飛ばしていて、ラストが弱いという感想を持ちました。
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