「真珠の耳飾りの少女」
★映画基礎データー★「真珠の耳飾りの少女」 2003年 イギリス、ルクセンブルク映画 監督 ピーター・ウェーバー 原作 トレイシー・シュヴァリエ 脚本 オリヴィア・ヘトリード 出演 スカーレット・ヨハンソン コリン・ファース |
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「真珠の耳飾りの少女」は
17世紀オランダの天才画家フェルメールの肖像画をモチーフにしたベストセラ
ー小説の映画化です。
妻子のいる天才画家と、彼と運命で結ばれた少女のプラトニックでありながら
も官能的な愛の物語が展開します。
名画「真珠の耳飾りの少女」(青いターバンの少女)のモデルとして描かれる
主人公グリートを演じるのは
『ロスト・イン・トランスレーション』のスカーレット・ヨハンソン。
フェルメールは『ラブ・アクチュアリー』のコリン・ファース。
17世紀オランダを再現した美術や衣装も必見です。
1665年、オランダのデルフト。
タイル職人の父親が失明したため、
家計を支える役目を負った17歳のグリート(スカーレット・ヨハンソン)は、
画家ヨハネス・フェルメール(コリン・ファース)の家へ奉公に出されることに
なった。
フェルメール家は、気位の高い妻のカタリーナ(エッシィ・デイビス)、
彼女の母で家計を取り仕切っているマーリア(ジュディ・パーフィット)、
そして6人の子供たちという大家族。
フェルメールが1枚の絵を完成させるのに3カ月以上の期間を要するため、
家計はつねに逼迫した状態にあり、そのことをめぐる夫婦間の口論も絶えなか
った。
広大な屋敷には、夫を非難するカタリーナのヒステリックな声と、
走り回る子供たちの足音が、昼夜を問わず響き渡っている。
しかし、その喧噪を唯一免れている場所があった。フェルメールのアトリエ
だ。
カタリーナから、アトリエの掃除を命じられたグリートは、
そこに置かれた完成間近い絵の美しさに強くひきつけられる。
舞台はオランダですがセリフは英語です。笑
出てくるのはフェルメールの家とその周辺る市場に郊外のまきば。
活劇なく、セリフ少なく、肌の露出なく、の“3ない”映画です。
当時19歳のスカーレット・ヨハンソンが17歳のヒロインを演じてます。
「ロスト・イン・トランスレーション」が22歳です。まちがっていたらご指
摘願います。
特に名演技ではないのですが、ふつうに当たり前にその役になりきっていると
いうのは
恐ろしい女優さんです。
ある日、フェルメール家では、パトロンのファン・ライフェン(トム・ウィル
キンソン)を招いて盛大な晩餐会が催されることになった。
マーリアとカタリーナは、その場でファン・ライフェンの注文を取ろうと必死
だったが、
当のフェルメールは、「次に何を描くか決めていない」と言い、妻と義母を大
きく失望させる。
しかし、それからほどなくしてフェルメールは新作を描き始める。
きっかけを与えたのは、グリートだった。
彼女がアトリエの窓を掃除したことによって生まれた微妙な光。
その色の変化が、フェルメールを創作に駆り立てたのだ。
窓を拭くグリートの姿をインスピレーションの元に、
カメラ・オブスクラを使ってデッサンを始めるフェルメール。
その現場に足を踏み入れたグリートは、「光がイメージを作り出す」というフ
ェルメールの言葉に、
深い感銘を受ける。
やがて、グリートが優れた色彩感覚の持ち主であることに気づいたフェルメ
ールは、
アトリエのロフトで絵の具を調合する仕事を手伝わせるようになる。
骨灰を磨りつぶす棒に添えられたフェルメールの手の感触に、思わず男性を意
識してしまうグリート。
使用人の仕事についてから、彼女は肉屋の息子ピーター(キリアン・マーフィ
ー)と交際を始めていたが、
彼に対する気持とは異なる崇拝と畏れが入り交じった感情を、グリートはフェ
ルメールに抱くようになる。
絵の具の調合というのが、化学実験のようであり、また魔法使いの魔法の支度
のようでもあり
面白いです。
カメラ・オブスクラというのは映画で見る限り、フィルムの入っていない写真
機のようなもので、
箱の中のすりガラスに、レンズのむこうの情景が映っている。
フェルメールがこのカメラ・オブスクラをつかって絵画の下絵を描くのに、あ
るいは色をつけるための参考に使用していたことは、美術研究者の間では知ら
れた事柄だそうです。
フェルメールは生涯に三十幾つかの作品しか描いてなくて(確認されている数
です。未確認分も含めても四十数点)。コアな美術ファンは各国美術館の収蔵
品を見て歩く、“フェルメール巡礼”までするというからたいした人気です。
とりわけ贋作騒動の多い作家でして、ヒットラーがベルリンへ作品を持ち去っ
たとか、
IRAが奪った作品を破壊するぞとイギリス政府を脅したりとか、世界史に踏
み込むエピソードも数多く、それらを基にしたいろんな小説が数多く書かれて
います。
冬がめぐってきたころ、グリートはアトリエのロフトで寝起きをし、
家事労働の合間のわずかな自由時間を、絵の具の調合に費やすようになってい
た。
彼女の美的な感性はますます研ぎ澄まされていった。
表面的には主人と使用人の距離を保っていたものの、もはやふたりの関係は、
芸術上のパートナーと呼べるものだった。
そして、その親密さが、フェルメールの家族の間に波紋を引き起こす。
フェルメールの娘コルネーリアは、グリートに泥棒の濡れ衣を着せようとし、
かえってフェルメールの怒りを買う。
そんなフェルメールの態度に嫉妬心を露わにし始めたカタリーナは、
グリートに「疫病神」という侮蔑の言葉を投げつけた。
ただひとり、フェルメールの創作意欲に対するグリートの影響力を見抜いてい
たマーリアは、
グリートの存在を容認する立場を取っていた。
この調子でフェルメールが絵を描き続けてくれなければ、
一家は破産の運命をたどることになってしまうからだ。
映画の冒頭近くで、グリートが洗濯をする場面が出てきますが、
巨大な鉄鍋に水飴のでっかい塊みたいな石鹸を入れて棒でかき混ぜる。
あるいはまるであわ立たないというの砥石のような石鹸で、
全身の力を込めて洗濯板に汚れ物をこすりつけている。
また会食の裏方でものすごい大忙しをしながら料理の支度をやっている。
電気家電のない当時、家事をこなすというのはとんでもない重労働だったこと
が伺われます。
それでいてグリートはものすごく虐げられていて、
いじめに近い目に毎日合わされている。
封建社会のいやぁなところがどっと出てきます。
カメラはグリートにへばりついていて、彼女の目から見たフェルメール一家、
17世紀オランダを描いている。
グリートがご主人様のフェルメールと口を利くようになるまでのイントロが
全体の尺からするとかなり長いです。
コリン・ファースは暗ったい部屋の中で、気難しそうに黙り込んでアトリエに
引きこもって
絵を描いている。
「プリジット・ジョーンズの日記」「ラブ・アクチュアリー」では純朴な青年
役が多かったですが、
それとはがらりと違った役どころです。
スカーレット・ヨハンソン同様、彼も名演というわけではないのでしょうが、
上手いこと作品意図と本人に対する演出が的確に機能していてはまり役に見え
ます。
そのマーリアが、絵の注文を取るためにファン・ライフェンを屋敷に招いた
のは、
それからまもなくのことだった。
グリートの存在が家族間に不穏な空気をもたらしていることに気づいたファ
ン・ライフェンは、
晩餐の席で、グリートをモデルに加えた集団肖像画を描いてはどうかと、フェ
ルメールを挑発する。
それは、たちまち町の噂になった。
というのも、以前、ファン・ライフェンは、
フェルメール家に雇われたばかりの使用人をモデルにした絵を発注し、
その後で使用人を手込めにしたことがあったからだ。
その話を使用人仲間から聞かされていたグリートは、不安のまっただ中に立た
される。
そんな彼女に、フェルメールは言う。「注文された集団肖像画とは別に、君を
描く」と。
デッサンは、マーリア以外の家族には秘密で行われた。
フェルメールに頭巾を外せと言われたグリートは、青いターバンを巻き、
キャンバスの前でポーズを取る。が、何かが足りないと感じたフェルメール
は、
カタリーナの真珠の耳飾りをグリートに着けさせようとする。
「それはできません」と拒むグリート。
だが、フェルメールから描きかけのデッサンを見せられた彼女は、
自分自身の内面までが写し取られたその絵の出来映えに息を呑んだ。
グリートの中の芸術家の心が、そして、画家を愛する女としての心が、彼女に
こう告げていた。
絵の中の少女には、真珠の耳飾りが必要だと。
一見舞台演劇のような脚本ですが、スクリーンでは映画らしく演出されていま
す。
セリフがなくても舞台劇らしいものもありますが、
寡黙でやたら人物のアップの多い作品ですが、これは舞台っぽくないし、まし
てやテレビドラマではありません。
ひとつは音楽ですね。
画がきれいなのだけど、それに比べて音楽がかなり饒舌です。
通常のバランスからすると、もう少しカットした方がよかった筈です。
あれは音で色をつけるのですね。
史実や史上の人物を映画化する時は、よく現代的に解釈するとこうなるとか、
この人物の行動は現代的にはこういう意義がある、といった視点で作品が作ら
れる事がしばしありますが、この作品の良いところは、
そうした現代との対比で作品世界が構築されているのではないということで
す。
あらすじの紹介でもあるような、
家族の中の愛憎の葛藤はいつの時代にもあることだけど、
パトロン無くしては生活の成り立たない当時の芸術家の姿が、
二人の関係にも大きく影を落としている。
以下、ねたばれ改行です。
グリートが人前ではけっして髪を見せないとか、
耳飾りはピアスになっていて、だから耳に穴を開けるのを嫌がるとかは、
意味するところは肉体の愛欲との葛藤ですね。
いろいろあって、フェルメールにグリートが針を渡して、
自分の耳に穴を開けさせる。
「あなたにやって欲しいの」
苦悶に眉間に立てじわ寄せて「いたっ」って、
ストレートにHな場面ですねぇ。笑
脚本段階では、絵が描き終わってグリートがフェルメールのもとを去った後の
場面は、
ごく普通に精肉屋と結婚式を挙げるとか、
ごく平凡に分かりやすいエンディングだったそうです。
脚本のままにいちどは撮影されたようですが、
スカーレット・ヨハンソンの提案で、青いターバンと耳飾りがグリートの元に
届けられる、
という意味深なエンディングに変えられています。
フェルメールからのラブレターのようでもあるし、奥さんからの面当てのよう
でもある。
(私の記憶に違いがなければ、贈り主の名は出てこなかったはず。どちらの可
能性もある)
意味深にはなったけど、でも、何のためのエンディングか
テーマ的に無意味になってしまったようでもあります。
二人の関係を「性愛ではない同士愛」とする意見があって私は首をひねりまし
た。
肉欲ではないことは確かです。
けどいわゆる“男女の友情”ではない。では何かというと、
「世界は二人のためにある」のが愛情ではなくて、
「二人だけの小宇宙を創る」のが愛だと思いますね。
だからふたりはやはり愛し合っていた、と見るべきだと私は思います。
互いを高めあう恋愛がしたい、などとよくいうけど、
これは完成度の高いミクロコスモスを
二人の間で作り上げることのできる関係だと思います。
あのふたりはあの時、“互いを高めあう喜び、その幸せ”を噛み締めていた筈
です。
人はそのとき“永遠”を夢見ます。
絵に描かれたのは少女の画家への想いなのか、画家の少女への想いなのか、
映画を観て謎解きをしてください。
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