「ヴィレッジ」DVD脚本レビュー
★映画基礎データー★「ヴィレッジ」 2004年 アメリカ映画 監督脚本 M・ナイト・シャマラン 出演 ブライス・ダラス・ハワード エイドリアン・ブロディ ホアキン・フェニックス ウィリアム・ハート シガニー・ウィーバー |
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『シックス・センス』のM・ナイト・シャマラン監督が
森の奥の小さな村を舞台に描くスリラー「ヴィレッジ」。
村の平和を維持するために義務づけた掟が破られる時、
村人たちに迫る危機とその正体は!?
シャマラン監督作品は
「シックス・センス」で魂消て、「アンブレイカブル」で呆れ返り、
失望のあまり「サイン」は見もしなかったです。
ですから「がっくりした」というコミュニティ(旧メーリングリスト)の投稿に、ああ、やっぱりと思っていたです。
しかし興行成績が週間二位!これは一体どういうことか?
見ないで否定するというのは趣味に合わないので、とにかく出かけました。
まったくオチに期待しないで出かけると、結構見られます。
主演に本作画デビュー作となるオスカー監督、ロン・ハワードの愛娘でもある
ブライス・ダラス・ハワード。
共演は『戦場のピアニスト』でアカデミー主演男優賞を受賞した
エイドリアン・ブロディと『サイン』のホアキン・フェニックス。
ほか「蜘蛛女のキス」のウィリアム・ハート、
『エイリアン』のシガニー・ウィーバーなど豪華キャストが脇を固めています。
シャマラン監督は映画のプロモーションのために海外まで来ることは
めったにないのですが、初来日しています。
マスコミ嫌いとして有名な監督は、今回の来日について
「本作は文化的背景からいって、日本の皆さんにとって理解しやすいと思う。
この映画だからこそ来日したんだ」と語っています。
ともに来日したブライス・ダラス・ハワードは、映画初出演の新進女優。
父親のロン・ハワードに映画の感想を聞くと
「素晴らしい作品に出演できて、おまえはラッキーだ」と
お墨付きをもらったようです。
映画は村のダニエル・ニコルソンの葬儀から始まります。
墓石に刻まれた碑に「ダニエル・ニコルソン 1890−1897」と刻まれている。
1897年のこの年、ダニエルはわずか7歳で他界した。
彼の死はルシアス・ハント(ホアキン・フェニックス)という知恵遅れの青年の
《外の世界》に対する情熱に火をつけ、
結果として、村の平穏な日々に終止符を打つことになる…。
この小さな村は、深い森によって完全に外界から隔絶されている。
村人たちは森に足を踏み入れることを固く禁じられていた。
森は《口に出してはならない存在(Those We
Don’t Speak Of)》のものであり、
彼らの聖域を冒せば、村に恐ろしい災いがもたらされると信じられているからだ。
村と森に住む《彼ら》との間には、長年にわたり一種の《掟》が存在し、
村と森との境界を越えない限り、《彼ら》が村人たちを脅かすことはなかった。
ねたばれ改行です。
ある夜、森の監視台から警報の鐘が打ち鳴らされ、怪物が村の中に姿を現す。
村人たちは悲鳴を上げて家々の地下室に逃げ込むが、
翌朝、村の家々の扉に、不気味な赤いマークが記される。
それは、《彼ら》からの警告…。
長年にわたる和解は破られ、村は見えざる敵の恐怖に支配されることになる。
以下、コミュニティ(旧メーリングリスト)の参加者とのやり取りを再録します。
>開けてはいけない箱も、結局はただの写真だけ??
(Mさん)
Mさんがオフ会のときに持っていたチラシは、いまでは配布されてませんね。
箱の件もさほどインパクトのある前振りをしていたように見ていなかったので、
「痛みの記憶」だけで私は十分泣けました。
たぶん、第一世代の人は、外の世界に戻りたい誘惑に駆られる都度、
箱の中身を読み返して決意を新たにしていたのではないでしょうか。
戒めのためというより自らを振るい立たせる道具として、
箱をそれぞれの家庭で保管していたんでしょう。
>ノアが”怪獣?”に扮して、アイヴィーを
襲ったのは、彼にしてみればいつものおふざけの
つもりだったのでしょうか。
(MSさん)
違うと思います。かわいさあまって憎さ百倍。殺意があったと思いますね。
かれはほら、たいした事でもないのに刃物を持ち出す男でしょう?
それに、その方がドラマとしてイタイではないですか。
>中盤からちらちらと出てくる”語られざるもの”は
なんだか不思議と怖くなかったですね。
村の「自然なんだけどどこかいびつ」に比べれば
なんとなーく現実的。
(Tさん)
同感です。
1897年という時代はどこからきているのでしょうか?
急速に産業化が広まった19世紀後半には、「目撃者 刑事ジョン・ブック」に出てくる
アイリッシュの村人たちのように
強欲や腐敗から逃れるために町を離れて”コミュニティ”を築いた人々がおり、
映画の中に登場する村も、こうした”コミュニティ”のひとつと考えられます。
村人たちはここで自給自足の生活を送り、互いに助け合い、
いたわりあう家族のような固い絆で結ばれている。
それは、犯罪とは全く無縁の楽園をめざしたものですが──、
人間にユートピアを築くことが、本当に可能なのだろうか?
そして、楽園の住人たちは、それで本当に幸福なのでしょうか…?
怪物の姿を映さないまま、物置小屋の父娘の対話まで話を引っ張れれば、
倍は怖かったろうと思います。
しかしピントをはずしているとはいえ、いかがわしい姿を途中で見せることで、
観客の注意を、“怪物”そのものから“村人の迷信”へと移そうとしたのではないでしょうか。
銃が無いどころか、貨幣も無い、というのは凄い生活ですよね。
だるまストーブで冬の寒さをしのいで、まったくの物々交換で生活しているようです。
現実的にこのような隔絶した世界を人工的に成立させるためには、
砂漠の真ん中か絶海の孤島にでも村を建設する必要があるでしょうね。
そして秘密基地を作って国際救助に出動する。…冗談ですけど。
人の行き来がないところでないと、ユートピアは成立できないです。
けれど、ヴィレッジはアメリカ本土の中にある。
そこにドラマのトリックが存在します。
クラッシックな生活をおくる小さな共同体があって、
呪術的な儀式で結束を守っている、
というような漠然としたイメージが初めにあったとシャマラン監督は
語っています。
何のための儀式か、というところで外界との交流を絶つためという必然性が
出てくる。
ドラマとしては、村の境界線を挟んで内外に緊張感が高まってく
ストーリーになりますので、
境界線が地平線、水平線のかなたにあるのでは不都合です。
手の届く範囲に目に見える姿で境界線がある。
怪物のいる森という設定に、
黄色い布の旗を付けた柱で囲んで、監視塔まである。
トリッキーな部分ではなく、いまなぜああいう作品を撮ろうとしたのか、
私は9.11以降のアメリカと世界のありようを
マイケル・ムーア監督とは別の視点で、捉えようとしているものと私は解釈しました。
怒りでこぶしを振り上げるのではなく、です。
つっこみどころ満載映画には違いないのですが。
私はこの村の住人が大規模テロの犠牲者家族グループなどの設定ではないかと
疑いました。
共通の不幸の体験者集団なら、
このような一斉エスケープもありうるだろうと思ったのです。
(そういえば似たような設定のテレビドラマが日本でもありましたね)
シャマラン監督はそういった生臭い話にはしないで、
個々の犯罪犠牲者の被害者集団という風に設定しています。
扱っているのは凶悪犯罪ではなく、
あくまで個人の喪の仕事と暮らしの先行きをどうするかですので、
映画の通りの設定で十分なのでしょう。
これが何世代にも渡ってこの村で生活しているということになると、
「猿の惑星」になってしまって、テーマが宗教とか社会体制に行ってしまいます。
それなら別の物語を考え方がよさそうです。
では、何故ヴィレッジは二世代なのか?
当然理由はあると思います。
運命共同体の正体がヒロインの前に明らかになったところで、
そのヒロインが恋人の危機を救うために旅立ち、
映画の終盤へ向けて、この共同体がこの先、存続できるか否か、
展望を語る話になっていきます。
村を作った第一世代は自分たちの悲しみに身も心も捕まえらてしまって、
こう着状態にある。
子供たちの世代が、真実を知った上でどう生きていくかの選択にかかっている。
ヒロインが目が不自由である、というのは象徴的な意味を持っています。
村人全員がいってみれば盲目の人なのですが、
本当の盲人が真実を知りうる立場に立つ。目に見えるものでなく魂の部分で、
彼女は世界を知ろうとします。
この映画のラストは仮の結論でしょう。
ヒロインはファーストコンタクトにさだめし驚いたことでしょうが、
それは塀の向こう側のパトカーの青年も同じだったでしょう。
この時、あれだけの接触で互いがどの程度、真相を知り得たかは不明確ですが、
互いの存在を認め、とりあえずそれぞれの領分を侵さぬこととしています。
この不自然な楽園をこのまま存続させることが、
両者にとってこの先、幸福であるかどうかはわかりません。
それはまた別の機会に、別の作品で語られるべきテーマだと思います。