「真夜中の弥次さん喜多さん」映画製作裏話

「真夜中の弥次さん喜多さん」映画チラシ★映画基礎データー★
「真夜中の弥次さん喜多さん」
2005年 日本映画
原作 しりあがり寿
監督脚本 宮藤官九郎
出演 長瀬智也 中村七之助

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劇場公開時に新宿で座ってみましたが、結構人が入ってました。
長瀬ファン? いえ、クドカンさんのファンじゃないのかな。
ディレクター・チェアの背中に「クド監」と書いてポーズとってる写真が、
パンフに載ってましたが出世しましたねぇ。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』をベースにしたしりあがり寿の傑作マンガ
『真夜中の弥次さん喜多さん』とその続編『弥次喜多in DEEP」
「小説 真夜中の弥次さん喜多さん」を、
人気脚本家の宮藤官九郎が映画化しました。
主演はTOKIOの長瀬智也と中村七之助。
お伊勢参りに向かう弥次さんと喜多さんをユーモラスたっぷりに描きます。

よく知らないと時代劇コメディのように見えてしまうかもしれません。
ところが弥次さんと喜多さんは
“リヤル探し”つまりは究極の“自分探し”の旅に出かけるのです。
原作本の一巻目がマガジンハウスから出たのが97年です。
そういえば、流行りましたね“自分探し”。
2005年の今となっては手垢の付いたやや古いテーマです。
でもこれまでのクドカンさんの書いたものをみてみると、
結局、テーマが自分探しに行き着くのではないかと思いますね。
「池袋ウエストゲートパーク」から近作「タイガー&ドラゴン」にいたるまで
ドライに笑い飛ばしながら、何か探して彷徨っている主人公たち。
弥次さんと喜多さん「リアル探しの旅だぜぇっ」と勇んでお江戸を飛び出しますが、
そもそも二人の言う“リアル”って何ですか?
劇中では“現実”と訳されていますが観念的です。
きわどい目にあわないと生きている気がしない?
結論らしきものは、最後には手の指の間をすり抜けて行く。

江戸、とあるボロい長屋。ワイルドで男らしい商家の若旦那、弥次さん(長瀬智也)。
そして美貌でヤク中の役者、喜多さん(中村七之助)。
二人は男同士で愛し合っている。
喜多さんが“おかま”(女役)のカップルですね。
喜多さんのヤク中を治すため、そしてリヤルを探すため、
二人はお伊勢さまを目指して旅に出る。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんが“おホモだち”だという
話は学生時代に聞いたことがあります。
しりあがり寿のオリジナルではないのですね。
しかし喜多さんのヤク中というのは新しくて、
特に前半、ヤク中ギャグが、これでもかこれでもかと出てきて、えらく笑えます。

弥次さんにはちゃんとお初(小池栄子)という女房がいます。
喜多さんは、弥次さんが最後には男の自分を捨てて女房のところへ帰っていくんだろうと
おびえています。
弥次さんは「惚れているのはおめえだけ」と百万べん誓いますが、
誓われれば誓われるほど疑いは増すばかり。
出口の無い苦しみに喜多さんはのたうちまわり、クスリに走ります。

私にはゲイの心境なんて分かりっこないですけど、
でも愛する弥次さんにおびえて、喜多さんが現実逃避したがる弱さは分かる、
というか分かるようにドラマになっている。
ひとことでいうと、惚れた弱み、ですよね。
自分ひとりなら、失うものが無いから人は虚勢を張ってでも生きれるんです。
でも人を好きになると、か弱くなってしまう。
失うものが出来ると人は弱くなってしまう。
(男だと子供を生むって言う“あがり”“ゴール”が無いじゃない?
恋敵が女だとゲイは途端に弱気になるんじゃないのかな??)
その脆さ、危うさ。
それが痛々しくて泣かせますねぇ。
つかみは十分、デス。

筑紫さんの報道番組にクドカンさんがゲスト出ていて、
「真夜中の…」について語りあってました。
「恋愛映画ですよね」と筑紫さんが問いかけて、「そうです。純愛映画です」と
クドカンさんが答えてます。

中村七之助は『ラストサムライ』の天皇役をやってました。
中村勘九郎の息子で歌舞伎の人です。本作で初の親子映画共演してます。
勘九郎の役が“アーサー王”っていう変な奴なんだけど。
天皇役より喜多さん役のほうが遥かに感情のアップダウンは激しいですし、
なかなかきわどい役でしたが、七之助はうまく演じています。
ひとつ間違えるとただの“いっちゃった奴”になりかねないのですが、
上手いこと男の弱さと悲しさを演じてますね。
さすが名門歌舞伎役者。

ふたりが江戸を飛び出す動機がいまいちぴんと来かねるのですが、
ともかく行きづまった状況打破には違いない。
ふたりして大型バイクに飛び乗って江戸を出発。
んんん、考証上、バイクはだめでしょう、というんで
いったんもどって徒歩で出直し。

辿り着いたのは箱根の関所。
ここがなぜか通称“笑の宿”ということになっています。
関所を取り締まるのは鬼の番人、木村笑之新(竹内 力)。
ネタを披露して笑いをとらないと、通ることはまかりならない。
なぜ“笑い”なのか、という説明はありません。
とにかくおっかない顔したお奉行様を笑わせなきゃ、箱根の関所は通れない。

お奉行様の御前でふたりは必死のパフォーマンスを演じますが、
喜多さんがヤク切れの発作を起こしてダウン。
弥次さんのみ通行許可が出て、
関所の向こうに追いやられて、喜多さんと泣き別れになってしまう。
何故か喜多さんは監獄行きにはなりません。単に「通行不可」で
関所の大阪側に行けないだけ。
つまり、“笑い”はどうでもよくて、
弥次さんと喜多さんの泣き別れが見せたかっただけ
だという演出意図が分かります。

前後の宿の場面で喜多さんが悪夢にうなされて、
喜多さんのおかまは、幼年期のトラウマが発端になっているらしい
ほのめかしが出てきます。
ただ、このトラウマについてはあとあと深く追求されることは無いです。
同じく関所で泣き別れになってしまった浪速ホット・サンドという親子芸人と
それぞれ知り合い、再度関所突破に話が進みます。
“裏関所”だなんていう都合の良い設定が出てきて、
愛を取るか、クスリを取るかの誘惑に打ち勝った喜多さんが関所突破に
成功して弥次さんと手を取り合って旅を再開します。

モテモテ奉行、金々(阿部サダヲ)は殺害されたお初(小池栄子)の下手人を
弥次さんと睨んで東海道を追っかけてきます。
なんで阿部サダヲが“モテモテ奉行”なのか分からないです。
やってることは岡っ引きの下手人探し、それ以上でもそれ以下でもないのですが、
江戸の岡っ引きが、東海道を延々と追跡してくるというのは、ありえないので
便宜上“なんたら奉行”としてあるのでしょう。
金々の推理はあたっていて、お初を殺したのは弥次さんです。
弥次さん喜多さんの情事を妬んだ女房のお初と喧嘩になって、
うっかり殺してしまう。
男らしさがウリの弥次さんが、とんでもなく男らしくない、真似を
したものですが、そのことはのちのちとんでもなく高くつくことになります。

美術は『愛を乞う人』の中澤克巳。
撮影は『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』の山中敏康。
CGは『ピンポン』の曽利文彦がそれぞれ担当しています。

行きすがりの町娘に磯山PとTBS宣伝部の青山女史
が出演してます。
ソノシートデビューをした「たわぁ麗講堂」の店主に原作者のしりあがり寿、
バーテンダー役に「ピンポン」のARATA、
その妻に麻生久美子。
瓦版屋に生瀬勝久、時代考証に詳しい岡っ引きに寺島進、
ラジオ番組そのまま毒蝮三太夫、笑いの宿の女将に森下愛子、宿の番頭役に岩松了。
ひげのおいらんは松尾スズキ、
清水の次郎長が古田新太なのは分かりましたが、妻夫木聡が何の役出てていたのかは
分からないままです。知ってる人がいたら教えてください。
プレスには「豪華キャスト」と紹介されていますが、
本当はクドカンさんと磯山Pの「知り合い全部呼んだ」キャストですね。笑

“お伊勢参り”を現代の私たちは江戸時代の庶民の観光旅行のように
とらえていますが、
歴史評論家によると、死後の世界の疑似体験ツアーでもあったそうです。
富士登山は、富士(不死)の霊山に登る、ダークサイド寄りの死後世界の
疑似体験ツアーで、特定宗教の教義色の薄い庶民の霊的宗教行事でしたが、
“お伊勢参り”はライトサイド(という言葉はありませんが、もっと明るく健全な)
庶民の霊的宗教行事であったようです。
(ここいらへんは「真夜中の…」解説本に詳細解説がありますので、
興味のある方はごらんいただくと良いです)
しりあがり寿が原作を書くときにそれをどの程度意識したのかは分かりませんが、
ドラマは弥次さん喜多さんのもどんずまりのホモの恋愛から、
死後の世界と再生の話にくびを突っ込んでいきます。

男だから、女だから、という性差のレベルでの恋愛は、
続く日本髪の女子高校生達が、
会ったこともない清水の次郎長親分を待ち焦がれている“喜びの宿”、
喜多さんがはじめて女性に恋をしたものの、相手は
弥次さんにぞっこんだったという、お初の場合と正反対の三角関係が展開する
“歌の宿”。
あたりで収束します。
そこから先は魂の愛情を語る世界になって、
アーサー王がとろろ汁を振る舞う“王の宿”で
二人はあの世とこの世に引き離されてしまい、
続く“魂の宿”で再び巡り会うために三途の川の水源を辿る旅になります。

実のところ、死ぬの生きるの魂の救済だのというドラマや映画は、
他にいくらでも在るわけで、
何でわざわざ時代劇というステージを使って、
流行ライターのクドカンさんがメガホンを取る必然があったかは、
最終的にはクドカンさんの作家性、内的必然がそうさせたのだろう、
としか解釈のしようがありません。
三途の川の水源で大泣きしているある魂を相手に、
弥次さんはきちんと説得出来ていたのか、
なんとなく人情に訴えて相手が折れてくれるのを期待していたようでもあるし、
喜多さんとバーテンダーのやとりも情感にあふれてはいても
まるっきり筋道がなってないですし、
エンディングも、絵的にかっこは良くても「あれじゃ逃げではないか」と
疑ってもいます。
もともと結論の出しようも無いものなので、あれは最初から
確信犯的にああいうラストにしていたのではないかと今では思っています。

とは言っても“生きる悲しみをお神輿に担いで踊るお祭り”のような世界観
おもろうて、やがて哀しき弥次さん喜多さんの
の構築は、ちゃんとできており、初監督作品としては合格点であったろうと思います。


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