「ゆれる」
★映画基礎データー★「ゆれる」 2006年 日本映画 監督脚本 西川美和 主演 オダギリジョー |
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写真家として活躍する早翔猛(たける オダギリジョー)は、
母の一周忌のために帰郷する。仕事に追われ母の葬儀にも立ち会わず、
頑固な父、勇(いさむ 伊武雅刀)とも折り合いの悪い猛だが、
温厚な兄の稔(みのる 香川照之)は何かと猛を気遣ってくれていた。
実家では父と稔がガソリンスタンドを経営しており、
幼なじみの智恵子(真木よう子)もそこで働いていた。
法事を終えて稔と一緒にスタンドに寄った猛は、
食事がてら智恵子を送るといいながら、彼女のアパートに上がりこむ。
猛が夜中になって案家に戻ると、
稔がひとり洗濯物をたたみながら猛のことを待っていた。
翌朝、兄弟と智恵子は蓮美渓谷に向かう,子供のようにはしゃいで川に入っていく稔。
河原では、東京に行って猛と新しい人生を始めたいと匂わす智恵子の言葉を、
猛ははぐらかす。
ひとり山道を登り、吊り橋を渡る猛。
やがて智恵子が吊り橋に着くと、背後から稔にしがみつかれる。
稔は高い位置でゆれる吊り橋が怖いのだ。
河原の草花に夢申でカメラを向けていた猛が、ふと顔を上げると、
吊り橋の上で稔と智恵子がもめているのが見えた、
猛の表情が凍りついた次の瞬間、
吊り橋の上には、膝をついた稔がひとり、激しく流れる渓流をおろおろと見下ろしていた。
それは事故だったと決着がついたが、ある目、
言いがかりをつけてきた客に逆上した稔は警察の取り調べを受け、
そこで自分が智恵子を突き落としたとロ走ってしまう。
猛は、東京で弁護士をしている父の兄、早川修(おさむ 蟹江敬三)に弁護を依頼する。
拘置所に入った稔は猛に言う。
「お前の人生は素晴らしいよ。
自分にしか出来ない仕事して、いろんな人に会って、いい金稼いで。
俺見ろよ.仕事は単調、女にはモテない、
家に帰れば炊事洗濯に親父の講釈、
で、そのうえ人殺しちゃったって、何だよそれ」
兄をかばうため猛が奔走する中、稔の裁判が始められる。
事故だったのか、事件なのか。
猛の前で、稔は次第にこれまでとは違う一面を見せるようになる。
兄は本当に自分がずっと思ってきたような人間なのだろうか。
当たり前と思い疑いもしなかった:事柄の裏面が見え隠れし、
裁判が進むにつれて猛の心はゆれていく。
やがて猛が選択した行為は、誰もが思いもよらないことだった――。
監督は、『蛇イチゴ』の西川美和。
『誰も知らない』の是枝裕和監督の支援で映画監督としてデビューした人で、
「ゆれる」自体、カンヌ映画祭の監督週間で披露され、好評だったそうです。
『蛇イチゴ』未見だったもので、
ミニシアターの入りの良さも、オダギリジョー目当ての女性客の動員に
よるものと決め付けていましたが、トンでもない勘違いでした。
2006年上半期のベスト邦画を「嫌われ松子の一生」だと思っていましたが、
「ゆれる」を見て、こっちも捨てがたいと感じました。
松子は映像や音楽の楽しさで見せる映画的な面白さにあふれた作品でしたが、
人間観察の深さ、怖さではこっちが上です。
演劇的? いやー、どうでしょう。
カメラは必要以上に自己主張すべきではない、
というのが西川監督の演出倫理のようです。
これはこれで理解できるし、
ゆれる、橋の上の見せ方が、
奇をてらってはいないのだけど映画以外の何物でもないし、
留置場の面会室の対話の粘り強い芝居と演出力はたいしたものです。
法廷場面も面白かったなあ。
オダギリジョーは、公開舞台挨拶で「正直、(監督と)同世代の者として、(その才能に)嫉妬しましたね。
20代の締めくくりになるちゃんとした作品だと思って、20代をかけて撮りました。」と答えています。
香川照之も「本を読んだ後に驚いた。というのは若き女性が、
男の兄弟のこういうような話をとても書けるはずはないと。
こんな本をどうして女性が書けるのか、打ちのめされてボーッとしました。」
西川美和監督は「兄弟という血の繋がりというだけで結ばれている関係は、お互いの存在から逃れられない。
人間同志の関係性―希薄さ、危うさ―。兄弟をモチーフにしていますが、
人間が関わっていくことで可能性をみつけることができるのか?ということを描けたら、と。」と作品の狙いをのべています。
撮影は、富士吉田市の市立病院、民家、ガソリンスタンドなどが使われたほか、
市議会議所を法廷に見立てての撮影横町バイパスや市道中央通り線なども使用されました。
この地での撮影期間は、2005年10月中の延べ16日間行われ、これに渓谷のシーンや
都内の場面などが追加されて完成しています。お金…かかってないですね。
二時間サスペンスで、フェリーに乗って温泉つかってうまいもん食べて、
ついでに殺人事件解決しちゃう奴の方が予算高そうです。爆
お察しの通り、事件の真相を巡るサスペンスは「羅生門」のように展開していくのですが、
後半、それが崩れていよいよ凄い話になってくる。
キム兄こと木村祐一が検察官で出てきますが、こいつが本当に嫌な奴でね。
キム兄ってこんなに芝居が上手かったのかって驚いたですが、
あれは監督の演出だと思う。
弁護士役の蟹江敬三はもちろんベテランで芝居の出来る人ですが、
兄弟の叔父という枷が上手い具合に嵌っていて、
あっちゃこっちゃと振り回される様子が可笑しい。
ぜんたいオダギリジョーと伊武雅刀と香川照之が、
母親が死んで男3人の家族で一緒に台所のちっこいテーブルで晩飯食べてるってのが、
テンで絵になんなくて、かっこ悪くて、シリアスな場面が悲惨なほど笑えます。
いい歳した男ばかりってのは、何て哀れっぽいんでしょう。哀愁漂い過ぎ…。
いったい監督はこの話をどんなところから発想したのか、
インタビューでは「夢から」と答えています。
「夢の中で友達が人を殺して、私が唯一の目撃者だったんです。
私は友達をかばおうと努力するけれど、
一方では殺人者の友達を持つことになった自分を心配していました。
目を覚ました時はがっかりした気分で、自分の中の違う姿を見た思いでした」
普段は気づくことのない自分の中の闇、
自分では分からない自分の姿を改めて刻むことのできる作品にしたかったという。
また、作品を通じて特定のメッセージを伝えるというよりも、
人間というものを暴きたかったのだと話しています。
「一番苦労したのはキャラクターなどの形成とかではなく、構成自体。
重苦しいテーマの話なんで、観客がいかに不快になったり、
もういやだって思って途中で投げ出さず、
最後までついてきてくれるかっていう部分で、時間がかかりました」
最終的には兄弟のありようを通じて、
「人間関係の脆さや危うさ、信頼っていうものも曖昧なんだとか、
すごく形にはしにくい、抽象的なのもを描きたかった」ということなのだけど。
…だけどやりたいテーマだけを漠然と描いていると、
観客は飽きてしまったり、ついてこれなくなるだろうと感じ、
途中まではサスペンスフルな作品しようと、構成にしこたま時間をかけ、
脚本の推敲、実に20稿!
そしてひとつ書き換える毎に、読み込みに付き合わされた是枝監督。
「“あなたが言ったから直したのに、最終的には第1稿になってる”っていうこともあって。
忘れていくんですよね、他人事だからですかね(笑)。」とエピソードを語ってくれた。
稔と猛の兄弟は、一見まったく違う性格に見えるが、根本的には思考回路が似ている。
ヤキモチ焼きで、人に対して恐怖心も強く、シャイ。
優しい一面も持ってるけれど、
その表現の方法がお互いが生まれ育ってきた環境や自分に科された役割などで変わってきて、
それがかみ合わなくなっていくだけなのだ。
かみ合わずにはおれなくなるところが人の業(ゴウ)というところか。
この作品にはふたつ弱点があって、ひとつは女が魅力ないこと。
女が書けてないなんて黒澤明だ。笑
女は女に魅力を感じないということですかね。
もうひとつは、業の悲しさを抱きしめてしまっていることが
判ってしまうようなラストであること。
葛藤に結論はないのだから、最後は抱きしめるしかないんでしょうが、
あそこまで闘われると、ぽんと時間が飛んで再登場した時に、
何かどんでん返しでもあるのではと期待してしまうではないですか。
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