画に浸るひととき 

安藤佐和子&渚美智雄


 安藤「良くできた寓話ですね。ジャンルとしてはファンタジー映画でしょうが・・・内容は大人向きで深いものがあります」

 渚「今から四半世紀前、2000年の映画です。20世紀最期の年に作られたんですね。節目の年にこういう“歴史文化的視点”を持つ映画が撮られた意義は大きいと思います」

 安藤「冒頭、“昔むかし、フランスに小さな村がありました”というナレーションが流れただけで、これは油断出来ない映画だと思いました。そもそも、おとぎ話の始まりですよ、と念押しするのが怪しい(笑)」

 渚「非常に保守的な村社会で、守旧派の村長さんが実質的“支配者”なんですね。彼は警察といった暴力機構は使わない。この映画の奇妙さは、警察や役所といった行政機構が一切登場しないこと。彼はカトリックの教義だけで村人を支配している。教会だけが“管理”機関として際立っているんです」

 安藤「村の広場には村長さんのお父さんの銅像があって、かつての宗教改革時代にプロテスタントと戦った勇者ということになっている・・・。村人たちは、日々のつましい暮らしに不満を持つこともなく、“清く正しい暮らし”を続けている。少なくとも表面的には・・・」

 渚「昨日のままの今日があり、今日のままの明日が来る・・・成長ゼロの超停滞社会ですよ(笑)」

 安藤「そんな村に、母と娘の流浪の民が流れてくる。チョコレートのワークショップを開き、彼らが売り出すチョコレートが村人を変え村を変えていくという・・・。北風の中を赤いマント姿の親子が現れるだけで、これは絵本のような映画だろうな、と思わされる」

 渚「カラーの映像が美しい。それでいて陰翳が深い・・・そこが絵本との違いですね」

 安藤「内容もシンプルです。いくつもの主題が対照的な構図で整理されているからでしょうね。“定住”と“放浪”という人間の暮らし方のコントラストが基底にあって・・・

 渚「そうですね。“拘束”と“自由”とか、“禁欲”と“快楽”とか・・・。最期には、“迷信”と“信仰”という意味深な主題が顔をのぞかせます」

 安藤「これは、カトリック教会を否定する映画ではないかいなと・・・(笑)」

 渚「確かに際どいんですね。チョコレート自体がカトリックから見れば、“異教的”なものでして・・・。どこか秘薬、というか媚薬のような妖しささえ潜んでいる」

 安藤「ヒロインは、それを調合する魔女のような・・・(笑)」

 渚「当然、村長とは対立する。断食期間にショコラ・ショップを開店すること自体、罪深い。それに、ヒロインは教会には行こうとしない訳ですからね。こういう村では、無神論者は異教徒とか、変人扱いをされる・・・下手をすると要注意人物として警戒されたり、疎外さたり」

 安藤「でも、村人たちは好奇心を抑えきれずに店に来るのね。ヒロインは占いをして、“あなたに必要なチョコはこちらでございます”という感じで、オーダーメイドのチョコを提供する・・・。すると、不思議に村人たちはハッピーになっていくわけで、抑圧的な暮らしから開放されていく」

 渚「原作を書いたジョアン・ハリスは英国の女性作家で、長く教師生活をしてきた人なんですが、実家はお菓子屋さんで、した。『ショコラ』の舞台になるチョコレート屋さんは、少女時代に彼女が夢想してきたイメージが投影されている」
 


安藤「リアリティがあるのは、そのせいなんですね。この映画を観ていると、本当にチョコレートが食べたくなってくる(笑)」

 渚「キャンデーやクッキーでは、この感覚は出ませんよね。やはり、カカオという怪しげな成分が大事なんですよ(笑)」

 安藤「異郷の地にやってきて、ショコラを広める彼女は、“カトリックとは別の意味での宣教師”なんですよ。そりゃ、村長さんから見れば、非常に危険な人物ですわ」
 
渚「この村長さんは寂しい人なんですよね。禁欲生活に耐えられなくて奥さんはベニスに旅行に行ったきり帰ってこない・・・。奥さんに逃げられたらしいことは村人は皆知っているんだけれど、“孤独な独裁者”はこの試練に耐えている」

 安藤「私は、ベルリンの壁が崩壊したのを思い出しましたよ。当時の東ドイツは西欧のロック音楽を堕落と考えて試聴を実質的に禁じていたらしいけれど、ラジオを通じて若者はいくらでも聞いていて、ロック会場に出かけたくて仕方なかったらしい」

 渚「西ベルリンでは、ロックコンサートが盛んに開催されている。デビット・ボーイなんか、あえて壁のそばで大出力のスピーカーを東ベルリンに向けて演奏したわけでしょ。東ベルリンの若者は壁に密集してロックを聞いて盛り上がった。こういうことが壁を崩壊させるエネルギーに繋がっていくんですね」

 安藤「文化が政治を変える・・・チョコレートのひとかけらが社会を変える大きなうねりになっていっても不思議じゃない(笑)」

 渚「『ショコラ』で可笑しいのは、赴任したばかりの若い司祭が、プレスリーのハウンドロックを口ずさみながら身体をくねらせて教会を掃除しているシーン。それを村長さんに見つかって気まずくなる・・・あのシーンはベルリンの壁の向こうから聞こえてくるモダン・ミュージックの象徴ですよ。冒頭の“昔むかし・・・”のナレーションはウソなんですね(笑)」

 安藤「そういう細かな村人の隠し持った欲望を描いたうえで、村を変える契機となる事件を描く。流浪の民の一団が川を遡って村にやってくるんですね。日本史流に言えば黒船です。閉鎖社会にとっては凄い衝撃・・・」

 渚「彼らはロマなのかな、日本ではジプシーと呼ばれてますが、欧州にはこういう流浪の民が少なからずいたみたいですね。歌や踊りの文化を持つ人達で子供たちは、“川から海賊がやってきた!”と大喜びで、大人たちも興奮を抑えきれない・・・。彼らと村人との交歓のお祭りの場面は見ている方も嬉しくなります(笑)」

 安藤「それまで、この村ではお祭りと言えば、復活祭とかカトリック教会主催のものしかない訳でしょ。ヒロインのチョコを食べて、村人も自然な欲求を抑えきれなくなっていって・・・。いよいよ壁の崩壊は近い(笑)」

 渚「ヒロインとしては、心強い援軍を得たようなものです。しかも、リーダーの青年との運命的な出会いもある」

 安藤「演じているのが、ジョニー・ディプ! 後の当たり役『パイオレーツ・オブ・カビリアン』のクレイジーな船長と違って、実に魅力的な野生児ですね。ヒロインを演じているのが、ジュリエット・ビノシュで、この二人のラブシーンは出色。『ショコラ』は大人の愛の映画でもあって、この官能性は半端ではないわ」

 渚「ジョニー・ディプは、村人とは違う意味で彼女も“囚われた女”ではないかと見抜く。父親が歴史学者でマヤの文明を研究するうちに、カカオによる官能文明の伝道師の役目をおわされ、それが娘にも継承されてしまって、村々を流浪する暮らしを余儀なくされている訳ですね」
 


安藤「その最大の犠牲者は娘です。流浪生活を嫌い、母親を嫌う。ジョニー・ディプはそれに気付いているけれど、彼女たちと一緒になれば、彼もまた流浪の生活にピリオドを打たねばならなくなる。ジレンマに悩んだ挙句、彼も陸に上がることを決心するんですが・・・」

 渚「村長さんも変わるんですね。ヒロインの作ったチョコがたまたま口に入ってしまって・・・別人のように“さばけた人”になる。村に生気が蘇り、活力に満ちた社会に変わる」

 安藤「教会の説教も一変する訳ね。プレスリーの真似をしていた若い司祭は言う。“皆さんはイエスの復活の話を期待し、その神性を聞きたいのかもしれないが、私はむしろ“人間性”について話したいのです”と・・・」

 渚「かくて村は開放された・・・。こう考えると、これは“革命の物語”なんですね。ウクライナでは“オレンジ革命”(2004年)というのがあったけれど、この映画が描くのは“ショコラ革命”。でも、ショコラも効用だけじゃない。主人公の店の常連になるお婆さんは糖尿病で、チョコを食べ過ぎて亡くなってしまう。名女優ジュディ・ディンチがこういう苦い役どころを素晴らしい存在感で演じています。『ショコラ』が優れた大人の映画であるのは、こういうところなんですね。20世紀の最期に作られたこのメルヘンは、21世紀のバラ色の社会変革を願うオマジナイ映画だったんでしょうか・・・。今見返して、そのオマジナイが効くことを切に願いたくなりました・・・(笑)」


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