画に浸るひととき 

安藤佐和子&渚美智雄


 安藤「『サイコ』はヒッチコック監督の最高傑作と言われていますが・・・」

 渚「傑作であることは間違いないですが、ヒッチコック映画を代表する作品かというと決してそうではないと思いますね」

 安藤「異端の傑作ですか・・・突然変異みたいな(笑)」

 渚「ヒッチコックの才能が突然、変異したことは確か・・・。問題は何故、変異したのか、ですよ(笑)」

 安藤「ヒッチコックの正統な作品群・・・代表的なのは、『めまい』とか『北北西に進路をとれ』とか、少し古いところでは、『見知らぬ乗客』とか、あるんですが、一方で、非常に大胆な実験的作品があります。『ハリーの災難』とか『ロープ』ですが、『サイコ』はこの異端系に入れるべき映画だと思うんですね」

 渚「賛成です! そして異端作の中でも圧倒的に成功した訳で・・・正統的作品群が霞んでしまうほどに・・・(笑)」

 安藤「だから最高傑作なんですね。でも、代表作とは言えないという不思議な映画・・・」

 渚「ヒッチコックは、この映画の前作、『北北西に進路を取れ』の大成功で監督として名声も富もあらゆるものを得た訳です。こうなると、ある意味、今までやってきた映画の作り方が嫌になるんですよ。全部ひっくり返したくなる(笑)」

 安藤「時は1960年・・・テレビが映画を圧倒していった時代です。そういうこともあって、ヒッチコックはこの新しいメディアを研究していた。テレビで『ヒッチコック劇場』というシリーズもやってましたし、テレビの作り方は効率的で映画のムダなシステムとは大違いだった。要するに“安あがり”なシステムなんですね

 渚「そこがとても気に入ったんだと思う。ヒッチコックは英国人らしい倹約家でしたからね。“何も、たいしたカネをかけなくても映画は作れるじゃないか”という訳です」

 安藤「そこでテレビのスタッフで劇場映画を作ろうとしたのが『サイコ』です・・・。まず、猟奇的な犯罪を描いた大衆小説(ロバート・ブロック原作)をネタにしようと考えた。ヒッチコックは自分の名前を隠して映画化権を買い取るんです。わずか9000ドルですよ(笑)」

 渚「登場人物も少ないし、スケールの大きな活劇場面がある訳でもない。最も安上がりで作れる内容が気に入ったんでしょうね」

 安藤「おまけに白黒フイルムで撮る・・・とにかくお金をかけない(笑)」

 渚「今でいうインディーズ映画なんですよ。出版でいえば自費出版・・・それがとんでもない大ヒットになった」

 安藤「全米の映画館の前は長蛇の列。キャッチフレーズの“最期の30分間の内容は決して話さないでください”というのが話題になったんですね。『サイコ』は“ラストのどんでん返し”を売りにして大成功した映画だったのね」

 渚「普通、そういう映画って、結末が分かれば、もう一度見るなんてことはないですよ。ところが、『サイコ』は公開から65年経っても見られ続けています。世界の映画学校でもサスペンス演出の教材として取り上げられていますしね」
 
安藤「そもそもこれって、ホラーなのかスリラーなのか、ジャンルも特定しにくいし(笑)」

 渚「前半だけで言うなら“クライム・サスペンス”でしょう。OLが勤め先から4万ドルを横領して逃げるという・・・」



 安藤「既婚男と出来ていて、この男と一緒になるためには、男の離婚費用とかいろいろとカネが要る。そこに突然、4万ドルもの大金を銀行に預ける仕事が自分に振られる・・・これはもう運命的な犯罪誘導状況ですよ」

 
渚「つまり素人の犯罪だからこそ、サスペンスが盛り上がる。車を運転して男の所に行こうとするプロセスが素晴らしい」

 安藤「途中、ハイウエーパトロールの警官に不審がられたりね。見ていて、もうちょっと落ち着きなさいよ、って声をかけたくなるほど(笑)」

 渚「要するに魔が差した素人の犯罪というのは、こんなものなんですね、計画性がないし準備も出来ていない」

 安藤「ジャネット・リーという女優さんは良いですね。今までのヒッチコック好みの女優(例えば、グレース・ケリー)とはまるで違う。そもそもそこからして『サイコ』は異端なんですよ(笑)」

 渚「この女優さんは『サイコ』に出たことで、映画史上に残る存在になりました。被害者(殺され役)演技は映画史上最高と言って良いでしょう(笑)」

 安藤「モーテルに泊まって、そこで何者かに殺されてしまう・・・。映画が始まってまだ前半だというのに・・・」

 渚「グレース・ケリーならあり得ない(笑)。主演女優は何も最期まで生きている必要はないという、これも従来の映画の約束事の破壊なんですな」

 安藤「彼女がシャワーを浴びているところで何者かに襲われて絶命するシーンはあまりにも有名ですね」

 渚「ナイフで切られるんですが、普通、ナイフの場合、突き刺すのが普通です。それがこの男(?)はもっぱら切りつける。大量の血が流れていく。ヒッチコックはこの大量の血が、排水口に流れ落ちていくシーンが撮りたかったんだと思う」

 安藤「カラーで撮るとエグすぎる。だから白黒フイルムで撮ったのね。単なるケチではなかった(笑)」

 渚「やがてその排水口が絶命したジャネット・リーの見開かれた瞳孔にオーバーラップする。とてもシュールですね。『サイコ』が傑作だとされるのは、そういう映像表現の大胆さであり、独創性なんです」
 
安藤「ヒッチコックは最も多く殺人シーンを演出した監督ですが、間違いなくこの“シャワー殺人”シーンが最高です。これ以降、どれほど多くの映画監督がこのシーンの影響を受けたことでしょう・・・」

 渚「どんどん猟奇的になっていってね・・・。刺激過剰になったが『サイコ』のこの残酷美ともいうべき表現を超えるものはなかった」



 安藤「この映画は変質者の犯罪を描いた先駆的な作品でもありましたが、死体愛好という性癖を見事に視覚化しえた。シャワー室でのジャネット・リーの死体もそうだし。モーテルの管理人(アンソニー・パーキンス)の部屋にある鳥の剥製もそうだし・・・最期には白骨化した死体が観客に衝撃を与える」

 渚「いずれも白黒映像だからこそ衝撃の中に美しさを感じさせる。但しドラマを期待してはいけない。窃盗犯の女性が殺されるのは全く偶発的な事件です・・・。登場人物の間に因縁があり、事件はすべてそこに収斂されるように出来ている訳ではありません。ヒッチコックはテレビドラマの制作で、そういう“割切り”を学んだんだと思う。即物的な殺人事件の再現(ドキュメント)に尽きても、それで十分だという・・・。その結果、“アートとキワモノの分水嶺”を学ぶことが出来る貴重な映画になりました。やはり、秘密は白黒映像にある。写真芸術の出発が白黒ですからね。モノクロ映像は現実が写されているようでいて現実にはどこにも存在しない世界です。その特性がどれほど巧みに使われているかを研究したいものです。『サイコ』は怖がってばかりでは非常にもったいない映画でもあるんですよ・・・(笑)」


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