画に浸るひととき 

安藤佐和子&渚美智雄


 安藤「こんな映画があったんですね。私はまったく知らなかったわ(笑)」

 渚「1966年の映画ですからね。私は高校生の時に観たんですから、安藤さんがご存じないのも無理はないです」

 安藤「でも、もう生まれてましたし(笑)。それと、これほどの大作になると何度かリバイバル上映されていても良いはずなのに、そういう記憶もないんです」

 渚「当時は歴史大作ブームで、新約聖書をベースにした映画は幾つもあった気がします。『キング・オブ・キングス』とか『偉大な生涯の物語』とか、イエス外伝と言ってもいい『ベンハー』のような名作もありましたが、旧約聖書を原作にした映画はこれだけかもしれませんね。そこが多少マイナーな扱いになっている理由かもしれません」

 安藤「私、十代の頃まで、聖書の“新約”とか“旧約”って、“翻訳”のことだと思ってました。“新訳”“旧訳”だとばかり・・・。当然、翻訳は新バージョンの方が良いんで新約聖書が中心なんだと・・・(笑)」

 渚「日本人はそう思っている人が多いですね。本当は、“契約”のことなんです。一神教というのは、厳しい砂漠の中で生きる民族が掟という“契約社会”を形成し、そこで成立した宗教なんですね。神と人類との契約(掟)を定めたものです。古い契約を記したのが“旧約聖書”で、新しい契約を記したのが“新約聖書”。契約書が宗教教義書というのは仏教圏では違和感大きいです」

 安藤「神様の言うことを守っていきますから、我ら民族をお護りくださいというのが契約内容なんですね。神の言うことを遵守するというのが“信仰”です。違反すると神から罰を受けます。人間がこんなに理不尽な目に合うのは、人類の祖先が罪を犯したから罰を受けているんだという解釈ですね。“原罪”こそが一神教世界の出発点・・・」

 渚「アダムとイブの逸話は誰でも知っているけれど、その“罪と罰”の深い意味を知らないと、キリスト教もユダヤ教も理解できません」

 安藤「禁断の実を食べたんでしょ。アダムは神に禁じられてることは出来ないといって一度断るけれど、イブは好奇心の誘惑に勝てずに食べてしまいアダムにも強く勧める。女のほうが肉の欲望に弱いのね。これ、逆だったら、説得力がないわよね(笑)」

 渚「神は罰としてイブには出産の苦しみを与え、アダムには、糧なき土地で糧を得る苦しみを与えた。女の罰が出産だというのは実にリアルです。性の快楽の後に来る妊娠の問題は今日でも女性の大きな課題ですからね」

 安藤「働くのは男の仕事という前提もあるのね。労働の苦しみは女にもあるのに、聖書が書かれた昔から、男女の役割分担はあったんですよ。旧約聖書を読むと、そういうことも分かります」

 渚「仏教の場合は、“業(ごう)”とか“性(さが)”という捉え方ですね。人間というのはそういうものを持って生まれてくるんで、契約違反の結果ではない(笑)」

 安藤「“聖書もの”が盛んに作られていた時代というのは、特にアメリカでは宗教が社会に浸透していた最期の時代だったんですね。私、子供のころ『ベンハー』を親に連れられて行った映画館で、何人かの尼僧さんの姿を見かけた記憶が今も鮮烈なんです。まさしく、そういう時代だった・・・」

 渚「旧約聖書は創世記が中心。神が世界を作った過程が記録されている。新約聖書は、イエスの伝記ですよね。神は行いを改めない人類に対して、“神の子”を地上に送り信仰に生きることの尊さを具体的に示したけれど、時の政権(ローマ帝国)によって処刑されてしまう。そこから、イエスのように生きようとする教団が生まれた。つまりカトリック教会ですね。イエスをキリスト(救世主)と解釈した訳だけれど、ユダヤ教徒は、イエスはラビ(律法指導者)の一人であって救世主とは考えない。イスラム教は、旧約聖書的な世界観を持ちながらも、マホメットを神の使いとして政治と一体化したイデオロギーの方向に行った。この三つの宗教は根が近いだけに“近親憎悪”的な関係になりやすい。国際関係の緊迫化のひとつのルーツになっている」

 安藤「だから、旧約聖書の世界観をあらためて共有しあいましょう、という目的でこの映画を作ったのかな・・・(笑)」

 渚「でも、解釈はキリスト教そのものです。ユダヤ教でもイスラム教でもない。何しろハリウッドとイタリアの合作ですからね、製作陣は全員キリスト教徒。特にイタリア人プロデューサーの超大物、ディノ・デ・ラウレンテスが指揮をとったんですから・・・。あの時代のイタリアって力があったんですね(笑)」

 安藤「創世記の映画をカトリック総本山を擁するイタリアが作らずしてどうする・・・という感じ(笑)」

 渚「監督にジョン・ヒューストンを起用したのも凄い。この娯楽映画の名匠を使ったことで非常に分かりやすい、逆に言うと“説教臭さのない”映画に仕上がったのです(笑)」

 安藤「3時間の大作とはいえ、旧約聖書全部はとうてい納まらない。そこで7つの逸話に絞り込んだ。そのメリハリの良さがジョン・ヒューストン監督の真骨頂だと思うわ。前半と後半の二部構成にして、前半のクライマックスをノアの箱舟、後半のクライマックスをアブラハムの試練に集約したのね。そのために総花的にならずにドラマとしての凝集度が増しました」

 渚「特にノアの箱笛の部分は映画史上に残る出来栄えですね。あれだけの動物を集めてきて撮るんですから、巨大セットの中は動物園のようになったはず(笑)」

 安藤「動物の群れの中に人間(俳優)を入れなきゃいけない訳で、今ならデジタル処理で合成するんでしょうが、当時はそんなものありませんから。本当に動物と共演しなきゃいけない・・・ライオンのような猛獣もいるわけで・・・」

 渚「特にノアの役は危険ですよね。俳優が皆、尻込みしたのも分かります。だから、ヒューストン監督自らが演じた、凄い監督ですよね・・・(笑)」

 安藤「この人、動物好きで有名なんでしょ。チンパンジーとかオランウータンを飼っていて、長期ロケでホテルにステイする時には、スイートルームにチンパンジーを連れていくという・・・(笑)」

 渚「ノアに扮して動物と触れ合うシーンは本当に嬉しそうです。この映画は、ジョン・ヒューストンという名匠にして名優の存在がなければ成立しなかったでしょう」

 安藤「ノアの箱舟の逸話は、絵本にもなって子供たちにもおなじみですが、この映画のこのシーンは“動く絵本”として子供たちに見せたくなったわ(笑)」

 渚「ノアの箱舟の内部は動物マンションですからね、にぎやかで、まさしく人間と動物の共生の空間です。本来、一神教の神は世界の造物主ですからね。アダムとイブの原罪以前はエデンの楽園でこんな風に動物と人間は一緒に暮らしていた訳で」

 安藤「神の怒りで世界が洪水に沈んでも、信仰厚いノア一家だけは動物たちと一緒に生き延びさせてもらえた訳でしょ。上手いなぁと思ったのは、普通なら洪水に翻弄される箱舟のシーンを撮るのに、ヒューストン監督は撮らないのね。ひたすら箱舟内部の閉鎖空間だけで不安感を観客と共有させる。そしてガッツンと大きな衝撃が来て、箱舟は陸に乗り上げる。水が引いたんですね。その新世界に再び動物たちを開放するシーンは素晴らしい」

 渚「遠くに虹がかかりますね。二度と過ちをせず信仰に生きよという神からのメッセージの象徴、新しい神との契約がなった印ですね。ジョン・ヒューストン監督の演出は骨太で分かりやすい(笑)」

 安藤「メソポタミア全域で大洪水があったというのは歴史的事実らしいですね。ウル遺跡(ユーフラテス河下流域にあったシュメールの都)の発掘で3メートルほどの粘土層があって、その下から古代地層が現れた。これが大洪水の考古学的な証拠で、その規模はペルシャ湾から北西640キロ、幅160キロと推定されてます。当時の人々からすれば世界を覆いつくす大洪水だったはず。箱舟が着いたのはトルコのアララト山で、ここには箱舟の残骸らしきものまであるらしいけれど(笑)」

 渚「大洪水が史実とすれば、舟を作って逃げようというのは自然な発想ですからね、多くの舟が作られたと考えるのが自然です。ただ、一神教の信仰を持つ民族だけが、この災害を“神の怒り”だと解釈した訳ですよ」

 安藤「この映画は休憩をはさんで後半に入るけれど、人類は反省しないのね。天に届く巨大な塔(バベルの塔)を建て、背徳の都(ソドムとゴモラ)では逸楽の限りを尽くす。再び神の怒りをかって世界は破壊される。今なら大地震が起こったと考えるんでしょうが、一神教徒は人類が神との契約に違反した結果だと解釈し続けます」

 渚「この大スペクタクルシーンもヒューストン監督は実にあっさりと流して、神との最後の和解である“アブラハムの試練”にドラマツルギーを集中させる。神は罰として実の子供(イサク)を生贄としてさしだせと命じる。アブラハムは神を疑い葛藤するが、最期は神に従おうとする。日本の歌舞伎でも、忠義のため主君の代わりに自分の子供の首を差し出すような物語(例えば『菅原伝授手習鑑』の寺子屋の場など)があるけれど、人間には最も過酷な試練ですよ」

 安藤「子供の命を奪う岩山への道行の場面で滅亡したソドムの廃墟を通過させる演出が素晴らしい。アブラハム(ジョージ・C・スコット)は神の怒りの凄まじさを痛感し、犠牲者の遺骨の陰から蛇が現れるのを見て、人類の原罪の深さに絶望するという・・・。覚悟を新たにし、わが子に手をかける瞬間に神の声が聞こえる・・・息をのむようなサスペンスです」

 渚「神はアブラハムの信仰心をテストしたんですね。そこで、二度とお前たち一族の信仰心は疑わない。永遠に庇護すると。このアブラハムがユダヤ民族の祖となって、ユダヤ人は神に選ばれた民族という“選民思想”が生まれていった・・・。正しきことを行ない神に認められた民族という自負が、その後の歴史を左右していった訳ですね。そして今も歴史を揺さぶっている。私はこの映画をあらためて観て、ラストシーンに今日のガザ地区の惨状を重ね合わせずにはいられませんでした。この『天地創造』という映画は、スケールの大きさに感心するだけでは済まない。今日の世界の様々な問題をあらためて考えさせてくれる映画でもあるのです」


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