画に浸るひととき 

安藤佐和子&渚美智雄

 『北北西に進路を取れ』


 安藤「1年に1度、今年も、ヒッチコックを語る月がやって来ましたね(笑)」

 渚「ついに、ついに・・・この映画にたどりつきました(笑)」

 安藤「今でも娯楽映画のお手本とされてますけど・・・」

 渚「映画が始まると、終わるまで観客は映画に引き込まれて、ハラハラしたり笑ったり、ちょっとエッチな気分になったり・・・とにかく愉悦の世界に遊ばせてくれる。難しいことは何も考えない、優れたマジシャンの技に見とれるような映画体験・・・」

 安藤「“映画とは、人生から退屈な部分をカットしたもの”という有名なヒッチコック監督の言葉がありますが・・・」

 渚「言い換えれば、“映画とは、観客に人生についてのつまらぬこと、悩みごと、心配事、哲学的思考などを忘却の彼方に追いやるもの”と言ってもいいでしょう。この『北北西に進路を取れ』は、そういうヒッチコックの映画信条を見事に具体化したものと言えます」

 安藤「原題は“北北西”(North By North-West)なんですね。日本では“北北西”とか“南南西”とか言いますが、コンパス上にそんな言葉はありません。方位は“北西”“南西”までです。だからこの映画のタイトル自体、謎なんです」

 渚「悪党たちの暗号なんですね。この“方位の謎”がこの映画のプロットの骨格です。主人公は警察関係者でもなければ情報局の職員でもない、善良な一般市民です。彼は何も悪いことはしていないのに抗争に巻き込まれる。好奇心もあって謎を追って旅を続ける・・・文字通り“ミステリーツアー”です(笑)」

 安藤「“ノースウエスト航空で北へ行け”という意味かな、と思ったりして(笑)」

 渚「もともと磁石上の“北”は実際は北北西ですよね。地球の自転の関係で磁石は真北を指さない訳です。つまり、この狂いをタイトルは表現している。北北西は最もミステリーにふさわしい方位なんですね」

 安藤「シエイクスピアの『ハムレット』のなかに、“我は、北北西の風の時に限り、理性を失うのだ”というセリフがありますが、この映画、このセリフを踏まえているという説もありますが」

 渚「“そういう知的詮索は私の映画には似合わない、とヒッチコックに叱られそうですが・・・(笑)」

 安藤「主演のケーリー・グランドが良いですね。お金持ちで腕利きの宣伝マンでハンサムで、しかし、女にも手が早そうな素行の良くないお坊ちゃんタイプ・・・」

 渚「ヒッチコックのこの種の映画で主役を務めたもう一人は、ジェームス・スチュアートだけれど、この『北北西に進路を取れ』はスチュアート向きではない。この軽妙さ、洒脱さはケーリー・グランドでないと出せません(笑)」

 安藤「結構、コメディタッチですからね。ミステリーとユーモアって相性が良いんだなと、この映画で初めて知りました(笑)」

 渚「舞台は大都会、ニューヨークで始まります。あの国連ビルで殺人事件が起こり、容疑者にされたケーリー・グランドは警察に終われ、列車で西に向かう。シカゴまでの寝台列車の場面で観客は完全に映画世界に引き込まれてしまう」

 安藤「“寝台”列車というのが良いわ。グランドは食堂車で“謎の美女”(エヴァ・マリー・セイント)と出会い、彼女のコンパートメントに身を隠すという・・・。グランドは警察に追われながらも女を得ようとする・・・この余裕感が何とも心地いい(笑)」

 渚「サスペンス映画と言えども、緊張だけを強いられると観客はシンドクなりますからね。『北北西に進路を取れ』が成功しているのは、この余裕というか遊びですね。私は、ヒッチコックが創造したこの種のモデルを“トリプルスリー映画”と言ってるんですが・・・」

 安藤「トリプルスリーって野球の話じゃなくて(笑)」

 渚「“Sight Seeing Suspense”です.。つまり観光型サスペンス映画。主人公はあちこちに旅しますから、観客は有名な観光地を思わぬ角度から楽しめます。しかも“謎の美女”の添乗付きで(笑)」

 安藤「典型はクライマックスのロシュモア山ですね。歴代の4人の大統領の顔が巨大な岩壁に彫られている観光地(笑)」

 渚「あそこでグラントとエヴァが悪党に追われて急峻な岩場を逃げ降りるシーンは凄いね。あの観光地でそんなことを発想する監督はヒッチコックぐらいでしょうな(笑)」

 安藤「考えてみれば、悪党たちは“ソ連”(?)のスパイで、追ってるのはアメリカの情報局(?)なんですね。この映画は冷戦時代の国際諜報戦を扱ったスパイ映画なんです。だからクライマックスは、アメリカ大統領たちの巨大な彫像群を舞台にしたとも考えられます。国家機密を盗もうとする者も守ろうとする者も、偉大な大統領の巨大な顔に比べると、あまりに小さいという皮肉な視覚効果に感心しました」

 渚「そういう裏読みは、ヒッチコック映画を観るときには、エチケット違反かもしれませんよ(笑)」

 安藤「恐怖シーンの後に、再び主人公の男女二人がニューヨークに戻る寝台列車の中で愛し合うという演出は憎いですね。恐怖から一転して快楽の頂点へジャンプする・・・観客は二人を羨みながらも映画と別れることになります。何か夢から覚めたような余韻がありますね」

 渚「『サイコ』とか『鳥』とかの、悪夢から覚める感じじゃないんです。むしろ甘美な夢の余韻が残るみたいな。覚めないでほしかった夢・・・人生において、そう多くは見ることは出来ない(笑)」

 安藤「この映画は後に続く“連続活劇”タイプの映画に大きな影響を与えたと言われてますが、特に007(ボンド)シリーズですね。最後はボンドがボンドガールといちゃつくシーンで終わるじゃないですか・・・あれって、間違いなくこの映画の影響だと思うわ(笑)」

 渚「最後に列車がトンネルの中に入っていくシーンでエンドマークですけれど、ヒッチコックは“私が撮った生涯最高の猥褻ショット”と言ってますが、こういうシンボリズムも冴えてますね。大人向けの極上の娯楽映画」

 安藤「うるさ型の評論家連中の採点でも、平均点が“10点満点中、9.1点”なんですね。オドロキとしか言いようがないデス(笑)」

 渚「そこまで高評価なのは、この映画の本質が恋愛映画だからだと思います。きわどい三角関係の恋愛サスペンス」

 安藤「エヴァは最初は敵か味方か分からない謎の女なんですが、スパイのボス(ジェームス・メイスン)にも、ケーリー・グランドにも惚れられている。このミステリアスな女性が最終的にどちらを選ぶのか、というサスペンスもあるのね。ミステリーのサスペンスと恋愛のサスペンスを重ねて見せたのが、ミソ・・・(笑)」

 渚「そういう意味では、ヒッチコックの初期の名作『汚名』に似てます。あれもケーリー・グランドで相手役は、イングリッド・バーグマンだった。モノクロの地味な映画でしたが、『北北西に進路を取れ』は、あれのリメークと言っても良いかもしれませんね、カラーにして全体を豪華な包装紙で包みなおしたような・・・」

 安藤「私は、あのバーグマンより、この映画のエヴァ・マリー・セイントの方が好きかな・・・。ヒッチコックのヒロインの特徴は二つですね。ブロンド美人ということと、悪女(アバズレ)的な性格。いろんな美人女優が演じてきたけれど、私は、エヴァが一番上品というかエレガントな気がしますから」

 渚「確かにアバズレヒロインだらけですね。『めまい』のキム・ノバックにしても、『裏窓』のグレース・ケリーにしても、『鳥』『マーニー』のテッピ・ヘドレンもね。『サイコ』のジャネット・リンは典型だし・・・。例外は初期の『レベッカ』のジョーン・フォンテインぐらいかな。これにはヒッチコックの女性観もあるだろうけれど、サスペンス映画のヒロインは悪女系でないとダメなんでしょう。サスペンスの道具立てとしてのヒロインは善良な女では困るんですね。“サスペンス映画とは、男が女に振り回されて成立するものじゃから”とでも言いそうですね・・・この監督は(笑)」


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