画に浸るひととき 


『エデンの東

安藤佐和子&渚美智雄


 安藤「『エデンの東』は“神話”として語り継がれてきた映画だと思います」

 渚「そうですね・・・“名画”とか“古典的名作”といった言い方より、“神話”というのは的確です。いかに時代が変わっても神話というのは生き続けますからね・・・。たしかに『エデンの東』は、そういうところがある(笑)」

 安藤「やっぱり主演のジェームス・ディーンの個性というか存在感でしょうか」

 渚「作品自体が旧約聖書を下敷きにしているということもあります。原作はジョン・スタインベック、監督はエリア・カザン。文学と映画の二大巨匠が創り出した世界ですし、脚本が優れている。ムダがない。全編、名場面といった印象が強い。しかし、ジェームス・ディーンがいなかったら、これらのすべては色あせていたでしょう」

 安藤「一人の俳優がこれほど作品に命を吹き込んだ例はないですね。しかも、新人俳優で、これがデビュー作品だった・・・」

 渚「まさしく鮮烈のデビューでしたね。当時ハリウッドにこういうタイプの俳優はいなかったからね」

 安藤「ディーン以前には、映画には“大人”と“子供”しかいなかった。その中間の思春期の未成年者というのがいなかったんですね。そういう年代の人物を主役にして映画が出来るとは考えられていなかった。だから『エデンの東』は青春映画の元祖であり、ジェームス・ディーンが世界で最初の青春スターなのね(笑)」

 渚「この映画の後、『理由なき反抗』と『ジャイアンツ』の二本に出演しただけで、交通事故で亡くなってしまった。24歳の若さですよ。こういう悲劇性というか未完性というか、それらが彼を“永遠の偶像”として神話的存在にしたんだね


 安藤「映画を観てない今の若い人でも、彼の写真を見ただけで、“ジェームス・ディーン、常識でしょ”みたいな顔をしますからね。まぁ、アイコン化してるわけよね(笑)

 渚「そのために『エデンの東』という映画は、内容が偏って受け止められているところがある。私も長い間、これは“父親に理解されず愛されない若者の孤独の哀しみと反抗”を描いた映画とばかり理解していましたから・・・(笑)」 

安藤「本当は“人間の原罪を問う映画”なんですね・・・」

 
渚「ベースは旧約聖書ですし、“エデンの東”というタイトル自体がそうですからね。創世記では神がアダムを造り、そのあばら骨からイブを追加で創ったわけです。二人は楽園に住み満ち足りた生活をしていた。でも蛇にそそのかされてイブが禁断の果実を食べたことから、神の怒りを買って楽園を追放されてしまった。二人が移住したところは糧を得るのも困難な荒野だった。この地こそ“エデンの東の地”なんです」


 安藤「今、私たちが住んでいるこの世界なんですね。食べていくのに汲々として互いに争いあって・・・なぜ、人はこんな苦難の人生を送らねばならないのか、それは親(先祖)が犯した罪(原罪)のためなのね」

 渚「アダムとイブは兄弟を生むんですが、どういうわけか、兄は可愛がられ、弟は嫌われた。弟はねたんで兄を殺してしまう・・・人類初の殺人ですよ。この事件を現代のドラマとして描いたのが映画『エデンの東』なんです」

 安藤「舞台はカリフォルニアの農園、時代は第一次大戦が始まって数年経過した1917年です・・・」

 渚「ちょうどアメリカが参戦を決定した時期です。嫉妬から発生した人類初の殺人は、今や大量殺人を行うようにさえなっていった時代・・・原罪はいよいよ深くなり・・・ドラマの背景として実に意味深で効果的です」

安藤「ジェームス・ディーンの父親は“アダム”という名前を与えられていますし・・・キリスト教の文化圏の人なら、この“カインの兄弟殺し”を直ぐに思い浮かべるんですが、日本のような仏教圏ではそうはいかない(笑)」



 渚「“原罪”を仏教でいう“業”のようなものと考えれば、とも思うけれど・・・。ただキリスト教では人間の不幸の原因を人間自身に求め、改悛を人間に常に求めていく。仏教では“因果”という言い方をして、罪という概念は出てこない。キリスト教と仏教の大きな違いですね・・・」


 安藤「この映画が秀逸なのは、ディーン兄弟の実の母親をアダムと離婚して離れて暮らしている老齢女性としている。イブのなれの果てなんですね。父親のアダムは息子たちには、お前たちの母親は死んだと言っているんですが・・・」
 
渚「自分はなぜ父親に疎まれるのか・・・悩んだジェームス・ディーンは自分が母親に似ているからではないかと思い、母はどこかで生きているのではないか、と考える。この母親探しが、この映画の始まりです」

 安藤「ロッキー山脈に隔てられた海側の町(漁村)で母親は水商売をやっているという噂を聞いて、海辺の町を彷徨う孤独なジェームス・ディーンの姿が写し出されただけで、何かただ事ではないドラマを予感させられる・・・」

 渚「内地の農園社会と漁師町では気風がまるで違う。母親(イブ)は農村の閉鎖性に反発して漁師町に出てきて水商売という人間の欲望を開放する商売で成功者として豪邸に住んでいる。しかし、決して幸福ではない。関節炎に悩み、捨ててきた二人の息子のことも密かに気に病んでいる・・・」

 安藤「この映画が素晴らしいのは、この母親像の描写ですね。演じたのは、ジョー・バン・フリート。見事な演技でした。アカデミー助演女優賞をとってます。よく言われることだけれど、もし彼女の演技がここまで卓越していなかったら、主演男優賞にノミネートされていたジェームス・ディーンが受賞していただろうと・・・」


渚「当時は思春期の不安定な若者の心情を表現する俳優なんていなかったからね・・・。ジェームス・ディーンの演技は“彼の地である”と誤解されたんだな(笑)」

 安藤「ジェームス・ディーンはこの漁師町に通うのに、貨物列車の屋根に乗るでしょ。無賃乗車だけど、列車の屋根でうずくまり寒さに身をすくめるディーンの姿にしびれました」

 渚「秒数は短いけれど、非常に印象的な名場面ですね。当時は石炭で列車を動かしてましたから、煙がジェームス・ディーンの周辺にまとわりつきます。そういうリアリティが素晴らしい。セットで列車の屋根を作って撮るみたいなイージーなことをしない(笑)」

 安藤「この映画の最大の大道具は列車ですよ。父親がレタスの冷蔵運送を試みて失敗するのも列車ですし、実の母親の正体を知った兄が自暴自棄になって志願して出征するシーンも舞台は列車ですよ」

 渚「この映画はシネマスコープが発明されて間もない頃の映画ですが、実にうまくこの横長の画面の効果を活かしています。列車の横に長い車列はシネマスコープにぴったりの被写体ですし、夜のシーンでは影を実にうまく配して横長画面に隙を作らない」



安藤「『エデンの東』がシネマスコープ黎明期の最初の傑作とされるのは、そういうことなんですね」

 渚「ロケ撮影の見事な映画が私は好きですが、これは本当にシネマスコープの画格を最大限に活かし、その土地の風土感まで描くのに成功しています(笑)」

 安藤「美しい風景の中をジェームス・ディーンが彷徨い、あの主題曲が流れる。今でも映画音楽のベストテン選出なんていうと、この主題曲は常連になっていますけれど、カリフォルニアとディーンの印象の強さで得をしてますよね・・・。観客はラストでディーンが脳卒中で倒れた父親から介護を許されて“救い”を印象付けて終わるんですけれど・・・果たして本当のハッピーエンドかというと抵抗がありますね・・・」


 渚「まさしくそこですよ。ディーンは数少ない理解者であった保安官からもバイブルの一節をひきながら“お前の罪は許されるようなものじゃない。ここから出ていくことだ”という宣告を受ける。人は自覚的に、また無自覚的に何らかの罪を犯して生きている訳で、それは決して許されるものではないのです。父親はディーンへの“罪”を最期に自覚したけれど、恐らく父はもう長くはない。兄は自暴自棄で戦場に出向いたけれど贖罪が果たせたわけではないでしょう。漁師町で成功者になった母親もしかりです。“罪の連鎖”から逃れられないのが原罪を抱えて生きる人間の宿命なんです。でも、そういう過酷な現実を前面に出して映画を終わらせたら観客はカタルシスを味わえない。・・・美しい映像、甘美な音楽、そしてジェームス・ディーン・・・。『エデンの東』は観るものを痺れっぱなしにする映画だったからこその名作なんですが、非常に深いものを秘めている映画でもある。1955年(昭和30年)のこの映画を観た当時の若者たちは、歳をとり映画を観直すたびに内容の深さに気付かされていった幸福な世代だったと言えます。実に羨ましいですが・・・(笑)」


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