安藤佐和子&渚美智雄
安藤「邦題は『甘い生活』です。直訳的にはこうなるんでしょうが、原題のニュアンスは表現しきれませんね。原題の“カルチェ・ヴィータ”は一般語になって、いろんな場面で使われます。“耽美的”とか“享楽的”とか“自堕落”とか“退廃的”とか、あんまり良い意味では使われませんが、この言葉が広く普及したのも、この映画の功績でしょうが(笑)」
渚「そうですね、1960年の映画ですから、大戦の傷も癒えて都市化の拍車がかかったローマを舞台にした“カルチェ・ヴィータな映画”です。まぁ、スキャンダル・シネマ・・・。しかし、巨匠フェデリコ・フェリーニ監督の映画となると、享楽の果てに何かがあるように思えてきて、評価は非常に高い(笑)」
安藤「ハリウッドの有名スター達がローマにやってくる。日本なら“旅の恥は掻き捨て”みたいな感覚で奔放に遊ぶ。それを報道して稼ぐ地元の連中もいて・・・。いわゆるパパラッチですね。この映画は、初めてパパラッチの生態をリアルに描いた映画としても有名なのね」
渚「芸盲人のゴシップって皆、興味を示す訳です。だからジャーナリスト崩れの連中がカネのために、スター達を追いかける。あの『ローマの休日』(ウイリアム・ワイラー監督)もそういう男の物語でした。ただ、あれが傑出したメルヘンになったのは、おっかけられる王女様が本当に純粋無垢だったことで、男を改心させてしまうところでしたが」
安藤「今の日本で言えば“文春砲”ですか・・・(笑)」
渚「この映画の主人公は、そんなパパラッチの一人。本当はいっぱしの作家になるつもりが、自堕落で退廃的な生活を続けている。マルチェロ・マストロヤンニが演っていて、お似合いです(笑)」
安藤「映画の冒頭に“登場人物はすべて架空である”という字幕が出る。こういうことをあえて言うのは、当時の有名人たちがモデルにされているということで、それだけでも当時の観客は面白がれたはずよね。ターザン役で有名だったジョニー・ワイズミューラーとかマリリン・モンローぐらいしか私には分かりませんでしたけれど・・・」
渚「そのモンローさん(アニタ・エクバーグ)と主人公は昔からの知り合いで、ローマの夜を二人で楽しんで・・・。トレビの泉に二人が入り込むシーンは禁断の美しさに満ちていて、ドルチェ・ヴィータ美学ともいうべき優れた映像でした・・・」
安藤「こういうところはイタリア映画の強さですよ、有名観光地であろうが政府はうるさくない。フランスならこうはいきませんよね(笑)」
渚「“ドルチェ・ヴィータ”の気分がローマ中に蔓延っていて・・・世界的観光地特有の虚構性がこの映画のテーマとよく似合っていて魅力的です」
安藤「そうですね。この映画の成功はそこを巧みに計算したことでしょう。夜のシーンが多いのですが、モノクロの撮影技術も素晴らしいわ」
渚「映画は高く評価され、カンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞しています。しかし、一方で批判も多く、賛否両論が今でも続く映画になりました。スキャンダル・シネナにふさわしい(笑)」
安藤「何が原因なのでしょうね・・・」
渚「一言でいえば、“よう分からん”ということです(笑)」
安藤「普通なら、登場人物たちの関係やなれそめが一応説明されますよね。この映画はそこが説明なしなんですよ。“モンローさん”にしても世界的な女優でしょう。それが主人公となんでこうも親しいのか・・・だいたい主人公は、女たちと親しい関係でありすぎます。まぁ下済み生活のころから知り合っていたということなんでしょうけれど」
渚「過去のいきさつ抜きで、ひたすら“今”だけを描く。その刹那性こそ“ドルチェ・ヴィータ”なんでしょうけれど。だからこういう映画を観るとき、観客も“ドルチェ・ヴィータ”でなければイケナイ訳で、そこが理解できない真面目過ぎる観客には難解な映画になってしまうんでしょう」
安藤「出来事があると、それがどのように次につながるのか、因果を理解しようとするのが映画の一般的な見方ですよ。この映画はそこがはぐらかされてしまう・・・要するに意味のないシーンばかり次々と、3時間も付き合わされて、因果的な物語展開を理解しようとする観客には、ワカラナイになってしまうのよね」
渚「しかし、我々の日常は非因果的な時間浪費がほとんどです。だから、人生の本質は“ドルチェ・ヴィータ”なんです。何の意味もないような行為が積み重なっていくのが人生・・・フェリーニ監督はそれを感覚的に観客と共有したかったんでしょうな」
安藤「共有できた人には最高作でしょうし、出来なかった人には、超駄作に見えてしまう。昔、ヒッチコック監督は“映画とは人生から退屈な部分をカットしたものである”と言いましたが、ヒッチコック監督にこの映画の感想を聞いてみたいわ(笑)・・・」
渚「ヒッチコック流の映画論なら、この映画は“NGカット集”でしょうね。物語というのは時間経過ですから時間軸があって、順番に場面(逸話)が提示されていくわけです。絵画でもキャンバスに描かれたものは、そういうひとつの場面ですよ。映画はそういう場面が効果的に次々に提示されて観客を魅了する訳で・・・、でも『甘い生活』は巨大な壁画なんです。多くの場面は同時的に多くのピースとして描かれている。観客はどこから目をやっていってもかまわない」
安藤「この映画の一見何でもない多くの場面は壁画のピースにすぎない訳ですね。全部しっかり見なくてもいいし、あるピースを時間をかけて凝視することも許される」
渚「どういう見方をしようとも、巨大な壁画の存在感を感じ感服してしまう・・・。そんな映画は今までなかったでしょうね。スルーする場面があっても良い訳で、ヒッチコックのように“スルーして良いような場面は存在してはならない”という考え方に立つと、『甘い生活』ほど困った映画はないでしょうね」
安藤「マルチプルな見方が出来るということね。今はマルチスクリーンで複数の画像を同時に“見る”ことが出来る時代ですから・・・『甘い生活』は時代に先駆けた実験的な映画だったかもしれない。3時間分の画像をマルチスクリーンで提示して、気に入ったところをクリックすればそれでいいみたいな映画がこれから流行るかもしれない。早送りして映画を観る観客が増えている時代ですから(笑)」
渚「でもイントロの場面とラストシーンだけは必須にしてもらいたいな・・・。『甘い生活』は入口と出口にすべてのメッセージが籠められている作品ですから」
安藤「最初の場面は、ローマ市街の上空をヘリコプターに釣り下げられたキリスト像があたかも市街を見下ろすように飛んでいく・・・。意表を突く光景だし、象徴的ですよね。キリストがドルチェ・ヴィータな街の生活を監視し裁くかのような」
渚「これから始まる映画をそのような視点で見てほしいというフェリーニ監督のメッセージなんですよ・・・」
安藤「そうするとラストシーンが意味深になるわけね(笑)。主人公たちがセレブの別荘に闖入し乱痴気騒ぎで夜を明かした後、夜明けの海辺に出て網にかかった大きな怪魚の亡きがらを見つける・・・」
渚「あのグロテスクな魚は何を象徴しているのかが、この映画を観た人達で必ず論争になります。安藤さんはどう思われました?」
安藤「自分たちの自堕落な姿を見せられたんじゃないんでしょうか。ドルチェ・ヴィータ(甘い生活)の成れの果ての象徴です」
渚「そういう解釈が一番多いようですが、あれは冒頭のキリスト像の成れの果てだという人がいます。つまり、主人公たちの“ドルチェ・ヴィータ”な生活を自分が身代わりになってしまったという・・・」
安藤「そう解釈すると、この映画は“現代版のソドムとゴモラ”とも言える訳です。旧約の背徳の街は神によって滅ぼされましたが、ローマは滅ぼされない。“キリスト”の犠牲(身代わり)のおかげでローマは今も存続できている・・・」
渚「フェリーニ監督はカトリックの信仰家ですから、そういう思いを込めてこの映画を撮ったとも考えられる。しかし、そうなら乱痴気で自堕落な場面をもっと冷たく突き放して描いたことでしょう。しかし、実際は実に生き生きと喜んで撮っている(笑)。フェリーニ監督の中に“ドルチェ・ヴィータ”に魅せられているところがあるからでしょう。『甘い生活』が第一級の作品なのはそこなんです。説教的な映画というのは偽善的になりやすいけれど、この映画はそうではない。人間の欲望を否定しない。ニーノ・ロータの主題曲に支えながら、“ドルチェ・ヴィータ”に耽溺する。それが人間の本質でもあるんですよ。そういう人間への愛すら感じさせられます。こんな風に考えると、マストロヤンニの主人公の姿はフェリーニ監督自身の姿にも見えてくるんですね。この映画が歴史的傑作とされるのも、従来の映画監督の枠を超えた作家性の発露があったからだと思います・・・」