
安藤佐和子&渚美智雄
安藤「『駅馬車』は西部劇の代表作でもあり、ロードムービーのお手本でもあり、という映画ですね」
渚「映画を観ない人でもタイトルは知っているし、主題曲を聞けば、あああれがそうか、という感じです。それに有名なクライマックスのインディアンの襲撃シーンは何度も切り取られてテレビでやってますからね、部分的には“観てる”訳ですよ(笑)」
安藤「西部開拓でのインディアンとの抗争を話題にした番組になると、このシーンが借用されている。小説の文章もそうだけれど、全体の文脈があってこそ味わえる訳で、このシーンもそうですよ。騎兵隊の手が回らなくて護衛なしで不安な旅を続けてきた駅馬車の一行が目的地(ローズバーグ)到着まぎわでインディアンに襲われるから、その非情さが観客の同情をかきたてる。そういう心情でこのシーンを観るからこそ凄まじい感じがするんでね。ゆめゆめこの活劇シーンを観ただけで『駅馬車』を観たとおもってもらったら困るのね(笑)」
渚「1939年の映画ですからね。私も安藤さんも生まれていない頃の映画。映画ってフイルムに焼き付けられて完成するので、キャンパスに絵具が塗られて完成する絵画同様、保存性がある訳です。ただ文化財として保存しなきゃという意識は当時は希薄だった。この映画は大ヒットしたのに、映画館での上映が終了すると用なしになって、フイルムが行方不明になっている。戦後、映画関係者の間で出来のいい映画は保存しなければもったいないという声が大きくなってライブラリイが作られた。『駅馬車』は主演したジョン・ウエインがフイルムを持っていて、名画殿堂に寄贈して、当時生まれてもいなかった安藤さんも私も見ることが出来る訳です」
安藤「フイルムでの保存ですからスペースも要るし管理もタイヘンだったんですね。今ではデジタル化してデータとして保存できるから楽になりましたが、おかげでモノクロなのにカラーになっていたりする・・・(笑)」
渚「そうそう『ローマの休日』もそうだけれど、『駅馬車』も映画会社が興行的価値が低いとみなして低予算で撮らざるを得なかった訳で、“カラー化”された自分の作品を観て、監督のジョン・フォードが生きていたらどう思うかな? モノクロで計算された画面ですからね。カラーで撮れるんなら、ああいう撮り方はしなかったぞ、と思うんじゃないかな(笑)」
安藤「世界的観光地のローマを舞台にした『ローマの休日』(ウイリアム・ワイラー監督)も本当ならカラーで撮られてこそですし、『駅馬車』だってモニュメントバレーの西部の荒野はカラーで撮りたいと監督は思っていたことでしょうね。でも、さすがにモノクロならモノクロの美しさがあるという芸術性を発揮している訳で、ドキュメンタリーに着色するのとは訳が違う。当時はカラーフイルムは貴重品だったんですね・・・。だから、当時はモノクロかカラーかでAクラスの映画かBクラスの映画かが区分けされた」
渚「そういう意味では『ローマの休日』も『駅馬車』もB級映画だったんですね・・・。有名スターにギャラが払えなかったことでオードリー・ヘプバーンという新人女優が誕生したし、『駅馬車』のジョン・ウエインは10年近くも下積み俳優だった。実際、A級映画として企画された段階では『ローマの休日』ではエリザベス・テーラーの主演が予定されていたし、『駅馬車』はゲーリー・クーパーとマレーネ・デートリッヒだったらしいですね」
安藤「もし映画会社が当たると踏んで、当時のトップスターが起用されていたら、その後の大スター、ヘプバーンもジョン・ウエインもいなかった(笑)」
渚「『駅馬車』では特にね・・・感情移入していますから、クライマックスのインディアンの襲撃で殺されていたらとか、決闘で負けていたらとか思って、ジョン・ウエインが本当に生き残っていてくれて良かった、と思います(笑)」
安藤「今見ても迫力がありますからね。ドラマツルギーがしっかり計算されているから、そういう感情移入が生じるのね・・・」
渚「若きジョン・フォード監督の才能が発揮された映画ですよ」

安藤「この年のアカデミー賞では『風と共に去りぬ』という超A級映画が各賞を総なめにする勢いの中で、B級映画代表の『駅馬車』が、助演男優賞と音楽賞という主要二部門を取った・・・これは快挙といって良いですよ」
渚「助演男優賞は、酔いどれ医者を演じた男優(トーマス・ミッチェル)に行った。この人物は『駅馬車』の人間臭さの象徴といっていい。それまでの西部劇は、勧善懲悪もので人間ドラマの性格は薄かった。『駅馬車』は活劇場面も素晴らしいけれど、人間ドラマとして秀逸なんですね」
安藤「ユーモアがあって人情味があって、このキャラがなければ、『駅馬車』はこれほど魅力的な映画にはならなかったと思いますね。黒澤明監督がこのキャラにヒントを得て、『酔いどれ天使』という佳作を作ったり・・・世界的な影響を与えたんですね」
渚「物語がよくできてますよ。原作はイギリス人作家(アーネスト・ヘイコックス)による短編小説なんですが、これを長編映画の題材にふさわしいと見抜いたフォード監督の才覚ですよね。当時の西部社会というのは無法社会から法秩序社会への移行過程ですから、いろんないかがわしい男女がいた訳です。ばくち打ちとかカウボーイ崩れの賞金稼ぎ、酒場の女・・・保安官だって銃の腕前を買われて町の住人に雇われた元無法者が多かった。しっかりした公的な存在じゃない訳で信頼感も十分じゃない」
安藤「そういう一癖もふたくせもある人達を一台の駅馬車に詰め込んで、過激派のインディアンリーダー、ジェロニモに率いられたインディアンが跋扈している荒野を旅していく。これはもう西部社会の縮図のようなものですね」
渚「きしみながら揺れながら行く馬車の不安定感は、当時の社会の不安定ぶりを象徴しています。ジョン・フォード監督が“これは映画になる”と見抜いたのはそこだったと思う訳ですよ」
安藤「背景に広がる厚い雲にも不安がかきたてられる。この監督さんは映像派と言われるけれど、ドラマの効果として映像を使う名人な訳でしょ・・・」
渚「しかも、それが美しくて印象的なんですね。叙情派とか映像派の監督として多くのファンができた」
安藤「馬車に乗り合わせた人達に団結心が生まれるのは、妊婦の女性の出産ですね。予定が早まっての出産ですから大騒動です。皆が何とかして出産を成功させようとします。あの酔いどれのお医者さんが必死で酔いをさまして奮闘するシーンはケッサクですよ。フォード監督はコメディ映画を多く撮って来た人ですから、こういう切迫したシーンでもユーモアがあって観客の気持ちは救われます」
渚「早く目的地に行きたいのに、妊婦と新生児の回復を待たねば動けない。搭乗者には先を急ぐそれぞれの事情がある。中には、預金横領をしていて早く逃亡したい銀行家もまじっていて、再び集団の中に葛藤が生まれる」
安藤「インディアンにいつ襲われるか分からない訳で先を急ぎたいのは皆同じなんですけれどね。ここらあたりから終幕にかけてのサスペンスの盛り上がりは素晴らしいですね」
渚「新生児を無事に生かすというのは人間社会の成員が共有する基本的感情ですね。それがなければ社会は持続しない訳で社会的本能と言っても良い。しかし、そこには温度差もある・・・。それをまとめてひとつの意思を形成するのが政治の機能ですが、西部開拓の時代はそれが未熟なんです。個人の欲望と社会的コンセンサスの葛藤が今の時代より露骨に出ます。西部劇の魅力はそこにあるんですよ」
安藤「個人間の欲望の衝突の多くはガンファイトで解決されるわけですね。それを裁く司法機能も十分じゃない。決闘の当事者が司法を牛耳っているケースも少なくなかったほど。この映画のラストもそうじゃないですか、殺人の動機が悪党への復讐だから“自力救済”で無罪にしていいと保安官が勝手に考える。観客はそこに人情を感じたりして救われた気持ちになる。社会機構の未熟状態だからこそありうる話。でも今のアメリカには、その時代の残り香のようなものがあるんですよ。陪審員制度だって、裁くのは東部のエリート教育を受けた判事じゃなくてコミュニティの市民だという考え方が反映してる訳でしょ」
渚「ジョン・フォード監督は戦後になってから、もう一度、荒野での出産を描いた『三人の名付け親』を撮りました。銀行強盗たちが産み落とされた新生児を死んだ産婦に代わって護ろうとする物語。ジョン・ウエインも大スターになっていて、この映画はカラーでした・・・(笑)」
安藤「フォード゙監督の西部劇は、人間の生活の営みを描こうとしますからね・・・。単なるガンファイト映画とは違う。『駅馬車』は、終着地で敵と3対1で決闘するジョン・ウエインの姿を描く」
渚「インディアンの襲撃からのがれて、一難去ってまた一難という訳で、観客はなかなか安堵感を得られません。映画の磁力が増して観客はスクリーンに一段と強くひきつけられる、その頂点の場面」

安藤「ジョン・ウエインは馬車に同乗した夜の女の、出産での献身的な働きに惚れこんで求婚した。その女が決闘の結果を待っている」
渚「観客はその女に感情移入してジョン・ウエインの無事を祈る・・・。こういうところで当時まだ無名の青年俳優だったジョン・ウエインの起用が効果を発揮します。後のジョン・ウエインなら勝って当たり前で、誰もハラハラしません(笑)」
安藤「決闘の詳細を描かずに銃声だけで描きますからね、どちらが勝ったのか分かりませんしね。待っている女性の不安はマックスに高まる・・・。しかも敵の男は平然とした顔で酒場に現れるし・・・」
渚「主人公の方がやられたのではないかという、ちょっとあざとい演出はその後の世界中の映画にどれほど影響を与え続けてきたことか・・・。スターになってからのウエインだったらこんな演出は出来ないでしょうね。彼のガン裁きを観客は期待するでしょうから。刑務所に戻る覚悟のジョン・ウエインと女を馬車に乗せて、逃がしてやる酔いどれ医者が最期にもう一度ヒーローになる。法が浸透しきっていない時代ならではの行動ですが、不思議に人間への信頼を強く印象付けるラストでした。牧場を経営しようとする二人が馬車で走り去るラストシーンに開拓者時代の明日の夢が見える。『駅馬車』こそは、人間ドラマとしての温かみを持った西部劇の元祖といえるでしょうね」