画に浸るひととき 

安藤佐和子&渚美智雄


 安藤「『パリは燃えているか』は第二次大戦末期のパリを描いた歴史大作です・・・今見ても、よくぞ作ってくれました、と言いたくなります(笑)」

 渚「今の若い世代は第二次大戦でフランスがナチスドイツに占領されていたことを知らない人が多い。そういう人達には見てほしいですね。この映画は占領者ドイツに対してパリ市民がどうレジスタンスしたのかを描いています・・・」

 安藤「いろいろなエピソードを織り込んで、レジスタンスの歴史経緯を上手く描いている。1944年の8月25日の開放前の一月間に絞った脚本がしっかりしている。あのコッポラ監督(『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』)が脚本を担当してるんですね。1966年の映画ですから、まだコッポラは無名の存在だったんですがね」

 渚「コッポラは70年代から台頭した人ですからね。若い頃から構成力はたしかなものがあったんですね。それがよくわかります」

 安藤「そうですね。この映画はコッポラ監督を研究するにも、はずせない1本です」

 渚「それにしても、よくこれだけスターをかき集めたもんです。今の若い映画ファンには誰も知らないかもしらないけれど。この映画を観ていると、月日の流れる速さを実感してしまいますよ(笑)」

 安藤「分かるのはアラン・ドロンぐらいかな?(笑)」

 渚「それにしても、これだけのスターを並べて演出する監督は凄いですわ。ルネ・クレマン監督という当時のフランスのレジェンド監督というべき人を起用できたのが成功のポイントでしょ」

 安藤「アメリカとフランスの合作というのが珍しいですね・・・。アメリカ側はハリウッドの大作映画に慣れた監督を起用したかったんじゃないのかしら

 渚「そうしたら戦闘シーンはもっと迫力が出たかもしれないけれど、フランス独特のウイット(エスプリ)は出なかったでしょう。アメリカ側は中身は譲ってひたすらビジネスの実を取った、という感じ(笑)」 

安藤「そうですね。多くのフランスのスター達が出ているのは理解できても、なんでジョージ・チャキリスがキャスティングされているのかが分からない。それも3カットだけ。最初がロングで誰か分からないし、次のミドルショットで顔を拝めたと思うと、最期にアップでセリフを一言二言喋ったと思ったら、もうお出にならない。ガッカリ(笑)」

 
渚「明らかにマーケティングですね。当時は『ウエストサイド物語』の世界的大ヒットで、ジョージ・チャキリスは当時、彗星の如く現れた旬の若手スターだった。この人の名前をポスターに乗せるだけで、興行成績が上がるのは間違いなかったですからね(笑)」


 安藤「でも、ちょっとねぇ・・・」

 渚「フランス側の“チョイデ出”スターはいかにチョイ出でも許されるんですよ。いわば、フランスの開放を描いたお祭り映画なんですから、フランス俳優の顔出しにはそれなりの意味がある。一方、やっぱりアメリカ側の大物スターの存在感は流石です。カーク・ダグラスがパットン将軍役で出てきますね。それで、当初のベルリンへの侵攻作戦を変更してパリ開放を先行する配慮をする。影のパリ開放殊勲者です。貫禄といい風格といい文句なし・・・これほどの役者ぶりを出せるのは、他にはジョン・ウエインぐらいでしょう(笑)」



 安藤「でも、ドラマの骨格を形成する俳優は、ドイツのゲルト・クレーベ、ナチスのパリ占領将軍役ですね。彼に対抗するスエーデン領事役を演じたオースン・ウエルズも素晴らしい。『パリは燃えているか』のドラマの骨格は、この二人によって構成されえいます」

 渚「第二次大戦は多国間戦争ですから、各国の利害も複雑に入りこんでいます。外交官の役目は大きいですね」
 
安藤「最終的には、パリという世界文化遺産とも言うべき街を破壊からどう守るかという一点で皆、一致している訳です。それはナチスの将軍にしても本音なわけですね」

 渚「それこそ軍事力でも経済力とも違う“ソフト・パワー”を持つ国の強さです。パリは代表的な例ですね。日本でも京都と奈良がB29の爆撃のターゲットにされなかったのは、やはりソフトパワー。それを理解する人たちがアメリカ側にも居たということでしょうけど」

 安藤「占領されたフランス側の人達が密かにレジスタンス組織を作っている。これは史実ですね。今のウクライナで、ドネスクなんか占領地では、こういうレジスタンスの動きはあるんでしょうかね・・・」
 
渚「個人レベルではあるかもしれないけれど、組織化されたレベルではないと思う。あったら、ネットの不朽している時代ですから何らかの情報や訴えが届いているはずです。少なくともパリ開放の時のような明確な運動はないということでしょう。プーチンもゼレンスキーも信じられないという住民も多いのかもしれない。ロシアのソフトパワーは、ウクライナも含めた“ロシア”でしょうから、分断の果てのような“内戦”の悲劇ですね」

 安藤「この映画がどこか明るく、前夜祭のような雰囲気があるのは、文化的な意味での共同体を舞台にしているからかもしれない・・・。パリには分断の兆しもない。レジスタンス組織どうしの作戦面での不一致があるだけ」

 渚「誇らしいですよね。レジスタンスを誇りにしているというより、フランスが築いてきた文化(政治文化も含めて)に対する誇りです」

 安藤「それはしばしば、解放軍として実力行使したアメリカ人をして、我々に対する感謝が足りないのではないか、と思わせるほど・・・(笑)」


渚「確かにね、アメリカとフランスがぶつかる時には、根底にそれがあるのかもしれない。フランス人は自分たちで国土を開放したという思いがあり、アメリカの方は開放してやったという恩着せがましい思いがある。でも、私はフランスのそういう姿勢を肯定したい。日本のように卑屈になることはないんです。敗戦国としての立場でも、ドイツはやはり憲法は我々で作るという気概を見せましたし・・・」

 安藤「そういうことが出来る国は他国の主権も配慮できる訳で、やはり太平洋戦争末期における西欧各国と日本では、国民の政治意識の面で劣っていたことは認めざるを得ないのね・・・」

 渚「この映画の製作では、ドゴールもいろいろ口を出したようですね。特に共産党のレジスタンス活動は極力抑制的に描くようにと注文を付けたらしい。1960年代の世界はロシアの勢力は強く、冷戦の盛りだった。西欧諸国は社会主義勢力を非常に警戒していたことがよくわかる。開放時点ではソ連は連合軍を構成していた味方だったのにね・・・」



 安藤「共産党員の活躍もフェアに描けばいいんですけど・・・この時代ではそうはいかない。すべての歴史映画は国家イデオロギーを無視できない訳でしょう。でもそれを描くと、話が複雑になって、コッポラさんをもってしても、ここまで鮮やかな構成の映画にはならなかったかもしれない(笑)」

 渚「レジスタンスの犠牲者についても抑制的にしか描かれていませんね。前半で、レジスタンス幹部の夫がナチスに連行されドイツに移送される列車のホームで後を追ってきた奥さん(レスリー・キャロン)がドイツ兵によって射殺されるシーンが一番痛ましい」
 
安藤「前半に悲劇的なシーンを集約して、後半になるほど開放に向けての前夜祭的な気分が高まり、後半のドラマの中心は、ナチスの目を逃れてパリ侵攻を連合軍に訴えに行くレジスタンスメンバーの行動が中心になる。サスペンス中心の演出は前半とタッチがちがったりするけれど、この工作が成功して連合軍のパリ侵攻が決定するシーンは素晴らしい」

 渚「連合軍がパリに入って、ナチスの残存兵との戦闘が行われ、フランス側では、御大、イヴ・モンタンが、アメリカ側では新人スターのアンソニー・パーキンスが戦死する。ここらも米仏平等の描き方でした(笑)」

 安藤「最期にナチスのパリ占領将軍が降伏し、蜘蛛の巣が張っていたノートルダム寺院の鐘が4年ぶりに鳴るシーンは感動的でしたね。破壊されなかったフランス文化の象徴として巨大な鐘が誇らしく鳴り続ける」

 渚「ここでモーリス・ジャールのテーマ曲が高らかに奏でられるんだけれど、主題部分が『戦うパンチョピラ』そっくりで、これにはちょっと興覚め。アメリカ流のクロージングじゃなくて、シャンソンを流してくれたら良いんです。背景はパリ市街の俯瞰撮影だけれど、パリの街は俯瞰で撮影しても美しくないですよ。日常的なセーヌの光景とか、モンパルナスなんかを日常目線で描いてくれたらよほど良かったと思う。まぁ、アメリカとの合作となれば、やはり最期はアメリカンスタイルで劇的に納めざるを得なかったんでしょうね。そういう限界をもってしても、『パリは燃えているか』は名作と呼ばれるに値します・・・(笑)」


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