
安藤佐和子&渚美智雄
安藤「映画史上屈指の巨人、ジョン・フォード監督の最期の作品と言っていいのでしょうか・・・」
渚「フォード監督は79歳で亡くなりましたが、この映画は70歳のときの映画です。日本流に言えば“古希”ですね。自分の集大成の作品を撮りたいという思いはあったでしょう。後で触れますが、この2年後にもう一本、本当の最期になった映画を撮りますから、遺作というのは正しくない」
安藤「集大成にふさわしく大型予算の超大作なんですね。フイルムも70ミリですしね。ファンにとってはたまりませんよね。あのモニュメントバレーがカラーの大画面で見られるんですから(笑)」
渚「でも、功なり名を遂げた大家にありがちな自分の世界に閉じこもった作品では決してない。いや、むしろ今までの自作を否定しようとした映画でもあるんですね・・・そこが凄い」
安藤「アメリカ人にとって先住民の問題は非常にナイーブですが、それを正面から描こうとした。いわばアメリカの恥部を晒したわけで、ここには西部開拓時代のアメリカ人の栄光を誇りをもって描いてきた大監督の自己否定のようなものまであるのね・・・」
渚「制作されたのは1964年。ベトナム戦争末期ですよ。その時代のアメリカ社会の気分が反映しているとも言える」
安藤「舞台は1880年代の西部。南北戦争が終わって20年近くたち、先住民たちは白人が一方的に定めた“居住地”に押し込められている」
渚「そこへの移住条件として白人たちは様々な甘言を弄するのだけれど何一つ守られない。我慢の限界でシャイアン族は居留地を去り自分たちの故郷に帰ろうとする。1000キロ以上に及ぶ帰還行を描いたのが、この映画です」

安藤「雄大なロードムービーなんですね」
渚「フォード監督の西部劇は、高名な『駅馬車』にはじまってすべてロードムービーと言っても良い、集大成の作品だけにその距離は凄まじい(笑)」
安藤「でも、あんまりロードムービーの印象がないのよね・・・」
渚「そこにこの映画の特徴があります。苦難の旅を続けるシャイアン族は主役ではなくて、この事件に振り回される白人側に焦点をあてているからですよ・・・」
安藤「そうか・・・旅する側ではなく、それをどう管理するかの側にドラマの主軸があるんですね」
渚「この時代になると、先住民の隔離政策は完成し、それを覆す動きはトラブル以外の何物でもない。政治家たちは、この忙しいときにやっかいごとを起こすなという態度ですしね。現場の治安部隊である騎兵隊は、はじめから秩序破壊した先住民は暴徒扱いで、圧倒的な軍事力で制圧しようとする」
安藤「面白いと思ったのは、クライマックスの舞台になるロビンソン砦を統治する騎兵隊の指揮官がポーランド人だったということ」
渚「この時代になると、東欧からもかなりの移民が来ている。酒場の女性も〇〇スキーなんてスラブ系の名前になっていますし(笑)」
安藤「先住民を封じ込める一方、世界中から白人移民を受け入れていったのが当時のアメリカなんですね」
渚「この映画が優れているのは、その時代の空気感が上手く描かれていることです。蒸気機関車で兵器が移送され、町では新聞が売られている・・・。一方でシャイアン族の暮らしは昔のまま。そこにも白人側の優越感がある」
安藤「でも、彼らの暴力性を恐れてはいて、シャイアン族が居留地を離れてこちらの方面に移動しているという噂だけでパニックになる。まるで凶悪犯が脱獄したみたいな話ですよね(笑)」
渚「そのドタバタぶりを、この映画では真ん中の“息抜き”に、“ダッチシティのパニック”としてコメディタッチで描いている・・・」
安藤「全体としてシリアスなトーンの中に“コメディ”パーツを放り込むんですから、作品の全体のトーンは壊れる。批判されがちなところですが、フォード映画の集大成というからには、コメディ要素は欠かせませんし・・・」
渚「それとね、ワイアット・アープを登場させるでしょ。あれは意趣返しなんだと思う。ダッチシティの名保安官伝説というのは当人が吹聴したもので、相当の眉唾だったんですが、フォード監督はアープを尊敬していて友人付き合いだったんですね。それで彼の言うことを鵜呑みにして『荒野の決闘』を撮った。これは代表作の一つとされていますが、フォード監督としては複雑な思いがあったんでしょう。実は相当にいいかげんな男だったということを描いておきたかったんでしょうね(笑)」
安藤「シャイアン族がこっちに来るというので“疎開”騒ぎになる。馬車を連ねて逃げ出すんだけれど、その先頭に立っているのがワイアット・アープ。ジェームス・スチュアートが演じていますが笑わせてくれますね」
渚「映画はここで折り返して、後半は相当に深刻な展開になる」
安藤「シャイアン族の故郷への帰還というのは怒りによる衝動的なもので、計画性が不十分だった。飢えが彼らを襲う。野生のバッファローがいるから、それを捕らえて食料にすればいいと考えていたのが、そんなものはどこにもいない。時代が変わっているんです。かれらはそれを知らなかった。そこに痛ましさがあるんですね」
渚「こうなるとシャイアン族を敵視する白人のなかにも人道的な観点から何とかしなければという動きも出てくる。その筆頭が騎兵隊の中尉であるリチャード・ウイードマーク。彼が本編の主人公であるのは、そのためなんです(笑)」
安藤「彼はどちらかというと、インディアンを敵視している訳でしょ。映画の冒頭近くで、“彼らは生まれながらの兵士だ。警戒する必要がある”なんて言ってますね・・・」
渚「それなのに、あっさりとインディアン同情派に変わる。クエーカー教徒で居留地で先住民の学校の先生のボランティアをやっている女性(キャロル・ベーカー)が好きで、彼女が先住民の帰還行に同行していると知って放っておけなくなる訳です。シナリオ的には筋は通っていますが、その葛藤は十分には表現されていない。そういう人間の葛藤が掘り下げられないと映画は深くならないです。フォード監督の代表作『捜索者』のジョン・ウエインとの差はそこらにありますね」
安藤「彼は先住民を救うべく、現地出身の上院議員に訴えに行く。彼もあっさりと先住民の救出を決意する。あんまり葛藤がないように見えるんですが、彼はかつての同僚議員だったリンカーンの肖像に向って、“兄弟よ、これで良かったんだろうか”とつぶやく。ここにはリンカーン大統領の厳しい先住民政策に長年疑問を持っていたことが、このつぶやきでわかる・・・。演じるエドワード・G・ロビンソンも良い貫禄ですが、この独語があることによって、アメリカ人の良識派の存在感が際立ちます。流石は名匠、ジョン・フォードですよね」
渚「この映画は今見ると、現在、1億人を超えると言われる難民問題を先取りして描いているように見えます」
安藤「この映画では、シャイアン達は故郷に帰り着き、キャロル・ベーカーは子供たちに“H・O・M・E”という言葉を教える。感動的なラシトシーンですが。その故郷が果たしてかつてのような豊かな地なのかどうか、カメラは美しい夕陽をとらえ、その逆光に暗く沈んだ現実を捕らえようとはしない」
渚「この映画はフォードの到達点であり立派な映画ですが、甘さもある。キャロルベーカーも先住民と行動して彼らの素朴な面だけを見たのではなかったはずなんです。そこは描かない。しかし、フォード監督は心残りだったんでしょう。二年後に遺作『荒野の女たち』を撮った。この映画はあまりに地味で興行的に成立困難とされ日本未公開のままなんですね。しかし最期まで、描くべきものを自問自答し続けたところに、ジョン・フォードの真の偉大さがあるんです・・・」