
安藤佐和子&渚美智雄
安藤「『明日に向って撃て』は、アメリカン・ニユーシネマの代表的な映画とされてますが、アメリカン・ニューシネマって何なんですか?」
渚「そうですね・・・そこから説明しないとね。1960年代後半から1970年代初頭にかけて、それまでのハリウッド映画のスタイルをガラッと変えてしまう映画が続々と登場した。それらをアメリカン・ニューシネマと言っています。その始まりが『俺たちに明日はない』(1967年)でした。この『明日に向かって撃て』は1969年ですから、その2年後です。この年には、もう一つの代表作と言える『イージーライダー』が公開されました。この3本はアメリカン・ニューシネマの御三家みたいな映画なんですよ(笑)」
安藤「従来のハリウッド映画と何が違うんでしょうか?」
渚「若い世代の反社会的な行動を肯定的、共感的に描いていることでしょう。背景にはベトナム戦争への抗議という社会的なムーブメントと言うか、時代の空気があった。例えば、ジョン・ウエインの西部劇では、ならず者は社会から排除すべき存在だった。そこに議論の余地はなかった。日本流にいう“勧善懲悪”の大原則が確固としてありましたが、それがひっくり返されているんです」
安藤「ならず者の方を主人公にして、シンパシーをもって描いたんですね。御三家の3本とも、いわゆる反社的な若者たちを描いていますからね・・・」
渚「ベトナム戦争に反対する若者たち(ヒッピー)の方が正しいのではないか、という世の中の風潮があり、それが映画にまで及んでいった面があります」
安藤「でも、最期はならず者の若者たちは社会から駆除される。『俺たちに明日はない』はマシンガンの銃弾を何十発も浴びて殺される。このシーンの残酷性は衝撃でしたね。それをスローモーションで撮ったでしょ。ヒロインはまるでロック音楽に合わせて踊っているように見えたのね・・・」
渚「そういう描写方法自体、それまでの映画の表現倫理を破壊するものだった。アメリカン・ニューシネマは若者の破壊衝動にも強く響くものだったんですね」
安藤「“アメリカン残酷映画”みたいな受け止め方があったと聞いてます(笑)」
渚「多分、『明日に向って撃て』がなかったら、そういう偏った方向にだけ行ってしまっていたでしょう。革命というのは、凄惨な暴力事件を伴って行くんですが、文化的に従来の枠を破壊して新しいものを生み出す面がある。この映画は、特に技巧面でそれが言えます・・・」

安藤「ならず者の二人は最期は警察団に包囲され殺害されるんですが、そこまで描きませんよね、彼らが銃を撃ちながら自虐的に突撃していくところでストップモーションにして映画を終えてしまう。これは物凄い衝撃でしたよ。動きがなくなるというのは、死の象徴なんですね・・・」
渚「動画として描かれてきた無軌道な若者の物語は静止画になることで、伝承(バラード)に一変する。凄い切れ味でした。その後、どれだけ多くの映画が、このストップ・モーションを真似したことか。日本の任侠映画でも多かったですよ(笑)」
安藤「おしゃれでもあるのよね。女性観客がこの映画を特に気に入ったのは、そこですよ」
渚「この映画は技巧をこらした“凝った”映画なんですね。冒頭は、モノクロの活動写真にして、カタカタという映写機の音だけが耳に残ります。やがて、モノクロで始まった映画はいつの間にかカラーになっていく。実にスムースというか、気が付いていたらカラー映画だったという感じですね」
安藤「シックな上着を脱いだら、鮮烈なカラーシャツが見えたみたいな感じ・・・おしゃれな映画なんです(笑)」
渚「そのおしゃれ感覚を決定的にしているのが、バート・バカラックの主題曲『雨にぬれても』ですね」
安藤「当時。最先端の乗り物だった自転車にポール・ニューマンとキャサリン・ロスが乗って遊ぶシーンに、この曲が流れるんですね。何とも優雅というか“ハイカラ”な感じ。日本なら、明治時代のセンスかな・・・(笑)」
渚「『明日に向って撃て』というと、このシーンを思い出す人が多い・・・そういう意味では名場面に違いない」

安藤「この映画の新しさは、この二人にロバート・レッドフォードを加えた男二人プラス女一人の“三角関係”・・・。レッドフォードとキャサリン・ロスは恋人同士で、ポール・ニューマンは二人の恋を壊さないように自重している。この節度が良いんですよ。無軌道に見える若者たちが男女関係においては非常に守旧的というのが面白い。男女のドロドロ感のなさが、この映画が女性観客に支持される理由だと思う・・・」
渚「監督のジョージ・ロイ・ヒルは技巧派として存分にそのセンスを発揮しているけれど、この自転車には、もう少し深い意味を与えているように思います。あの素敵な(ロマンチックな)シーンの最期に、機嫌を損ねたポール・ニューマンは、こんなものの何が最先端だと言って、水たまりに自転車を捨ててしまう。ここには、新しいものを乗り切れない若者の悲劇が伏線としてイメージされているんですよ。普通は、若者こそが新しいモノを支持し文化を作っていくはずなんですがね。銀行強盗のような伝統的な悪事にしか頭が行かない(笑)」
安藤「物語の時代背景は1898年の米西戦争ですよね。西部開拓の時代が終わって(米政府による1890年のフロンティア・エンド宣言)、遅れてきた植民地主義国としてスペインを破り南米諸国をアメリカが総どりする転換になった戦争ですよね・・・」
渚「ならず者稼業(銀行強盗、列車強盗ほか)が成り立つ時代は既に終わっているのに、この三人はそれに気付いていない。それどころか、ポール・ニューマンは“警察の連中は戦争で忙しいから、俺たちには手が回らない”と言って得意がってる・・・」
安藤「西部開拓の時代には、ならず者が出没すると、町の男たちは自衛団を結成して追跡したりする・・・そこに参加する市民も少なくなっていくんですね。ポール・ニューマンはそこを見越して自分たちの稼業が永遠に続くと考えている。社会を舐めているんです」
渚「そうです。ところが戦争が終わって、社会の秩序機能が強化されていくと、かつてのようには強盗稼業は上手くいかない(笑)」
安藤「自営団じゃなくて民間企業として自衛を請け負う動きが出てくる。これに追われていくあたりから、この映画はぐっと面白くなる。アメリカでは思うように稼げなくなったから南米に行ってならず者稼業をやろうとする(笑)」
渚「国内市場が飽和なので海外市場を開拓しようとするアメリカの植民地主義の象徴のような・・・(笑)」
安藤「行ったのが、アメリカの裏庭であるはずの南米、ボリビア。ここで銀行強盗をやろうとするけど、スペイン語が話せないから上手くいかない。“手を上げろ、金を出せ”程度のスペイン語も話せないんですからね(笑)」
渚「キャサリン・ロスは学校の先生で、二人にスペイン語を教えようとしても、上手くいかない。特にポール・ニューマンは努力するのが大嫌いで手っ取り早く楽して稼ぎたい。かたぎになって牧場経営でもやったらとキャサリンが提案しても、あんなキツイ仕事は俺には向かんと言って真面目に働くことを毛嫌いする。一度、社会を甘く見てうまい汁を吸った若者は労働に拒否反応を示すんですね」
安藤「キャサリン・ロスはこの男をリーダーにして付いてっても、ろくなことにならないと見限って一人アメリカに戻る。恋人のはずのレッドフォードとも別れることになる。女の現実感覚が男を見切る訳よね。レッドフォードもポール・ニューマンに似て頼りにならない(笑)」
渚「男二人になってからは、二人の諍いは激しくなる。やはり緩衝材としての女を失うと男同士はギスギスするんだね(笑)」
安藤「ポール・ニューマンのいうことがいかにいい加減かが分かってきて、レッドフォードもイラつく。結局、お前は言うだけで何もできないんだな、と不満をあらわにします・・・普通なら男たちはここで決別だと思うけれど、そうならない、女から見るとそこが不思議です(笑)」
渚「ポール・ニューマンは“ボリビアは俺たちには少し早すぎたんだ、オーストラリアに行こう。あそこなら英語が通じるから銀行強盗もやりやすいぜ”なんて言い出す。笑ってしまいますが、レッドフォードは話のいい加減さに腹を立てながらも、そうしようかとなる。普通のビジネスの人間関係なら解消されるのが当たり前。それでも二人の関係は破綻しない。これこそ青春時代特有の友人関係(友情)なんですね。この映画はニューシネマスタイルの西部劇というよりも、青春映画だといいたくなるのはそこなんです。結局、二人は“オーストラリアで一旗揚げるという“明日”に向かって撃って出て一緒に死んでしまうんです。この映画の魅力はこの古風な青春像にある。・・・当時無名だったレッドフォードはこの映画で一躍スターになった。その後、役名のサンダンスを冠した独立系の映画祭(サンダンス映画祭)を主催して多くの映画人を育てた。こういう恩義に報いるような生き方をさせた『明日に向って撃て』は、表向きの新しさの下に古風な価値観を持った奇妙な映画です。そこが『俺たちに明日はない』や『イージー・ライダー』と違って、実に柔らかく優雅に旧来の型を破った。その点で、その後の映画への影響は一番あった気がしますね・・・。柔よく剛を制す、という実例でしょうか(笑)」