この人にエールを!
親泊昌代 氏
最近、“第二の人生”という言葉をあまり聞かなくなった。定年までひとつの会社で働き、“勤めあげる”のが普通であった昭和の時代では、“定年後”が“第二の人生”を意味した。それは労働からの開放であると同時に、賃金収入を断たれる生活不安を意味した。
転職が当たり前になった令和の時代には、“第二”どころか、いくつもの人生を経験する人が多い。第二の人生という言葉の持つ意味が理解されないのも無理からぬところだろうか。
ここに紹介する親泊(おやどまり)昌代さんは、“第二の人生”という言葉あってこそ、その歩みを語れる気がする。
今年60歳。3月に40年勤めた日本航空(JAL)を定年退職した。これからどうしていこうかと考えていたところで思わぬ再就職口が舞い込んだ。沖縄のリゾートホテルの社長になってほしいという・・・。一瞬驚いたが、それほど違和感はなかったという。自分が沖縄出身であることから、“お里帰り”の人生が始まるのだ、と納得するものがあった。奈良で生まれ育ったが、父親が沖縄出身であることから、8歳から高校卒業まで沖縄で暮らしている。中学の時にホームステイを体験し、それが客室乗務員への憧憬に繋がった。この人もまた“外の世界”への好奇に誘われて人生を歩んできたのだ。
実は第二の人生の舞台となるそのホテルとは、CA時代に縁があったのである。新型コロナ禍で搭乗者が激減した時代、JALはCAに仕事を与えるため様々な企業に働きかけ出向勤務の職場を確保した。このとき、その陣頭指揮をとったのが、CAの先輩で今の社長の鳥取三津子氏だった。「コロナ禍は必ず終わります。その時、今回の異業種体験が役に立ち、皆さん個々のキャリアアップに繋がる機会にしてほしい」との言葉に背中を押され、故郷のホテルの従業員教育の仕事を体験することになった。
同じ接客業とはいえ、業種が違えば、やはりそれは“別の仕事”だった。一般論的なレクチャーでお茶を濁すようなことはしたくなかった。
彼女がこのとき拠り所にしたのは、JALが経営不振に陥った時、再建役としてやってきた稲森和夫氏(京セラ、KDDI創業者)の講話だったという。
「私は製造業の出身です。サービス業のことは何も知りません。だから皆さんに教えてもらわんといかんのだが、僕ぐらいの年になると新しいことはなかなか頭に入らんのですわ。だから、皆さんには今まで培われた経験やスキルを発揮していただいて頑張ってもらうしかない。ただひとつ、自分にできることがあるとしたら、この機会に働くことの意味をもう一度考え直してもらうお手伝いなのです」。
“働くことの意味”という言葉が妙に印象に残った。長年同じ仕事をしてくると、年季が入る分だけ考え方が硬直的になってくるという実感が自分でもあった。原点に返る機会を与えられたような思いだった。会社を再建するということは意外にそういう気づきから始まるのではないか。当時、約350名いたCAを束ねる客室乗員部の室長の立場にあった。自分から変わらねばならない、強くそう思ったという。
やがて、“JALフィロソフィ”という手帳が配られた。何のためにこの会社はあるのか? この会社に集う一人ひとりの従業員は何のために働くのか? そんなことが書かれている。そういう根本を見失ったとき会社は行き詰り、社員もやりがいを失う。会社の経営とはそのような根本的な考え方、フィロソフィを日々考え、思いを強くしていくことに尽きる、という“稲盛哲学”が飾らない平易な言葉で綴られていた。
すべては顧客のため。そこに深い喜びと生きがいを見出す伴奏者が自分なのではないか。この人はそれを基本にして、慣れない仕事に没頭したのだ。その仕事ぶりは、“一時の腰掛”とは対極にあるものだった。その働きぶりを、ホテルの運営会社(かりゆし)の社長が見ていた。次の社長をこの人にやらせたい、と彼女の定年を密かに待っていたのだという。
「接客の仕事以外は全く分からない。いかにサービス業といっても社長となると、それをスタッフ任せにしておれません。毎日、勉強です。大変ですが、還暦を迎える幸せというのは、こういうことかも知れませんね」と笑う。
“第二の人生”が死語になりつつあると冒頭に書いたが、人生が連続していることに変わりはない。山に登れば次に挑むべき山が見えるように、歩みを続けるのが人生なのだ。だからこそ、この人の新たな仕事の充実を願わずにはおれなくなる。