この人にエールを!

尊富士弥輝也 


先場所、誰もが想像できなかったことが起こった。新入幕力士の幕内優勝。歴史上例がなかった訳ではない。大正時代(1914年)に“両国”という力士が達成したという。実に110年ぶりの壮挙だった。

こうなると、今月の夏場所への期待も尋常なものではなくなる。優勝したとはいえ、番付は“前頭”上位といったところだろう。もし、今場所で優勝もしくは、それに準ずる成績を残せば七月場所で小結。そこで結果を出せば、九月場所で関脇に昇進することになる。そこからの昇進は急峻な登山のようなものだ。大関になるには関脇で“三場所で33勝以上”という“非公式基準)をクリアする必要がある。一場所平均、11勝以上ということだが、先場所の圧倒的強さを思えば楽勝と言いたくなるのだが・・・。

それが出来れば、大関昇進は来年の三月場所となる。そこから横綱までは、“二場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績”が問われる。それをやったとすれば、横綱昇進は来年の七月場所。気の早いファンからは“まだ1年も待たねばならない”という声すら聞こえるのだが、土俵の世界はそんなに甘いものではあるまい。

令和に入ってからの角界は、有望力士が出てきても、瞬発型で持続できないという傾向が顕著である。最近の例では、大関に昇進した後の霧島。何と先場所に大きく負け越して、この夏場所はカド番で迎える。期待を集めた琴の若もイマイチの状態。

尊富士もそうなのじゃないのか、といった声も聞こえる。有望力士がつまずく原因は、まず怪我である。この人も、先場所の14日めでの対朝乃山戦で右足首靭帯損傷という大怪我をおった。千秋楽は気合で豪ノ山を一気に押し倒したが、怪我の影響はむしろ場所が終わってから大きく出るという。回復度合いにもよるが、そもそも稽古が充分に出来たとは、とても思えない。

楽天的に言うなら、この人は、十代の頃から怪我に慣れていることだ。少年相撲で頭角をあらわしたが、高校一年のときに左ひざ前十字靭帯断裂。同三年の時に、秋の国体の土俵で左ひざ負傷(不戦敗で準優勝に終わる)。さらに、日本大学相撲部での全国学生選手権で右ひざ負傷。とにかく怪我には慣れているのだ。

大相撲で伊勢ケ浜部屋に入ったのも、横綱、照ノ富士への憧れだったという。大怪我で序二段まで落ちながら復活して横綱に昇りつめた姿こそ“目標とする力士像”なのだろう。先場所、大怪我で千秋楽の出場をあきらめかけたとき、「記録にこだわるな。記憶に残る力士になれ。最後まで土俵を務める姿こそ大事なんだ」と土俵に上がるように発破をかけたのは、この兄弟子横綱だったという。

むろん。批判もあった。たった一番の無理で土俵人生を終わらせるリスクをとって良いはずがない、というものだ。怪我をこじらせて長い停滞の後、廃業に追い込まれた力士は少なくない。そんな風に考えたくないが、先場所の歴史的快挙で勝負師としての運を使い果たした、と言われる事態も想像できない訳ではない。しかし、ここで先場所に達成した、もうひとつの記録を見ておこう。初土俵から初優勝までのスピードランキングである。

① 尊富士 10場所 ② 貴花田(後の貴乃花) 24場所 ② 朝青龍 24場所 ④ 照ノ富士 25場所 ⑤ 曙 26場所

注目すべきは、ここにあげた力士のすべてが横綱になっていることだ。照ノ富士流にいうなら、すべてフアンの記憶に強烈に刻まれている力士たちだが、最高位を極めたことで、一層の輝きを添えている。そのランキングのトップにいる以上、尊富士が、令和第一号の日本人横綱として“記憶に残る名力士”になってくれることは、既に“約束されている”とすら言いたくなる。たとえ、その道程が、一転して長いものになったとしても・・・。

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