ソーシャルエッセイ 荻正道
【昨日・今日・明日】
『選挙の進化』
2月8日に投開票が行われた衆院選は、憲政史上異例のものだった。結果は自民党の歴史的大勝。このような“奇襲選挙”が許される日本の政治風土を問題視したくなるのは、惨敗を喫した中道連合の関係者だけではあるまい。
しばしばこの国の選挙では“風が吹く”という言葉が使われる。それに倣うなら今回の衆院選は“高市旋風”だろう。政治家個人の人気が全体の空気を形成する現象は日本に限ったことではない。アメリカでも旧くはケネディ旋風がそうだったし、近くはオバマ旋風がそれだった。最近の“トランプ旋風(MAGAブーム)”は、未来を語るのではなく昔日へのノスタルジーに充ちている点で違いがあるが、有権者のエモーショナルな心情に訴える点では本質的に同じと見ていいだろう。いうまでもなく民主主義制度の本質は“国民主権”だ。
しかし、おびただしい国民の多様な意見を集約することなど至難な話、いや不可能な話なのだが、他に妥当な方法が見いだせず、やむなく“多数決の原理”が採用された。国民の多数意思をもって“国民全体の意思”とする割切りであり、その具体手法が選挙なのである。それが年々、奇妙に歪んできているとすれば、それは“民主主義の危機”以外の何物でもない。
本来なら、基本政策について、それぞれの立場を代表する候補者や政党が論争を繰り返し、多くの有権者はそれぞれの論拠(言い分)を聞き、認識を深め自分の意思を形成して、最終的に投票行動によって自分の意思を示すのだ。もちろん、投票は個人の意思で行われ何者からも強制や誘導をうけることがあってはならないし、票の集計は公明正大で透明性が担保されねばならない。世界では“名ばかり民主主義国”も多く、外形的には“選挙”が行われているが、その実態は権力者が自らの権力を正当化するための“仕掛け”にしている例が少なくない。国民は自分の本当の意思を表すことが出来ないのだ。民主主義の先進国とされるアメリカでさえ、選挙に敗れた大統領が、「俺の票は盗まれたのだ」と言い出す始末。かほどに、国民の意思を確認する選挙は口で言うほどやさしくはないのだ。
日本では、幸いなことに選挙システムそのものへの不信は今のところない。少なくとも投票用紙は正確に数えられ結果に対してインチキだと考える有権者は皆無のようである。今回の衆院選にしても、歴史的完敗を喫した中道連合の中枢からは、結果を潔く受け入れ、メディアのインタビューに対しては、“私の責任は万死に値すると思います。進退については既に腹を決めています”と潔い態度を見せる。これは日本の選挙のレベルが倫理的にも相当に高いことの証左と言っていい。もっとも、敗北後に潔く“責任”をとろうとせず、首相の座にしがみつこうとした人物が最近でもいたが、現役首相の権威と特権で居座り続けることは出来なかった。日本の政党政治はその程度の自浄能力は備えているのだ。その点だけでいえば、日本は世界でも屈指の民主主義国であることは間違いないのだろうが。
問題はその内実である。国民の多くが政策を慎重に吟味したうえでの投票行動をしているかとなると、はなはだ疑わしい。人間は感情の生き物だ。自分の一票を“好きな人”に投じたいというのは人情としては十分に理解できる。
日々の消費行動が決して合理的選択によるのではなく多分に情動的であることは誰しも自覚するところだろう。人間は決して合理的思考の持ち主ではないのだ。長く経済学はそのことに気付かなかった。人間の不可思議な消費行動を前提にした研究によって古典経済学は近代経済学に脱皮できたとするならば、政治学も“現代政治学”に脱皮しなければなるまい。いつまでも“民主主義政治のタテマエ”を信奉しているわけにはいかないのだ。今回の衆院選は、その契機としなければなるまい。そもそも、“風”の正体は何なのか?
風は何処の国の選挙にもつきものだろう。しかし、その風の性格は、その国の風土や国民性が強く反映する。日本の特徴はまず“ムラ社会”にある。自分たちの精神的共同体である同じ郷土の人物への贔屓感情こそが選挙区を支配している。握手した人の数だけ票が出るというのは、同郷人であり隣人であるというPRが選挙運動の核になっているからだろう。ムラ社会ではその候補者の政策など問題にされない。今回の衆院選でいえば、宮城4区が象徴的だった。安住淳という“地域代表的存在”に対して、他県出自の元タレント候補の森高千里が“大金星”を上げえたのは、そのことに気付いたからである。彼女は2021年の選挙区選挙で敗れた後、石巻に移住し選挙区の住民に対して“身内”として認知されるために街頭に立ち続けた。いつしか“辻立ちクィーン”と呼ばれるようになり、立憲幹部として地元を離れ続けた安住よりも“身内意識”を獲得したのが今回の勝因なのだ。世にいう“地盤”とは、ムラの選挙区の住民の同郷意識の集積のことなのである。
逆に作用することもある。日本維新の会が与党として高市人気を最も利用しやすい立場にありながら、大阪以外では大苦戦したのは典型である。突然の衆院解散総選挙を好機とみて、大阪都構想を復活させるべく吉村代表は大阪府知事を辞任し再選挙に打って出た。これは大阪以外の全国の有権者から見れば、“あそこは大阪のことしか考えない政党”と見えたに違いない。ムラ社会は“よそ者”に対する排他意識を潜ませている。維新の会は自らその罠にはまってしまったのだ。愚かと言えば愚か・・・。もっとも地元大阪では、さらに根を深く下したと言えなくもない。圧倒的な勝者となった高市首相が、今後の政権運営において、維新をどう扱うかは見ものと云えよう。もはや利用価値はないとみなすかどうか。
ムラ社会の政治風土を近年大きく揺さぶっているのはSNSの浸透であろう。村落的性格を希薄化させた都市部においては、ドブ板に踏み込んで住民と握手する運動よりも、ネットでの“刺さる”発信をした方がはるかに当選圏内に近くなる。街頭演説のサビの部分を巧みに編集し反復訴求することで人気をあおり有権者の好感度を高める。この手法で近年、台頭した政党が選挙区よりも比例区で議席を獲得していく傾向が強いのは、この手法の有効性を示すものであろう。今回の衆院選でいえば、「チーム未来」がそうだった。しかし、これは発信者個人の魅力が前提になる。あっという間に知名度をあげることが出来るのもSNSだが、あっという間に関心外に押し出されるのもSNSなのだ。伸びていく政党は、次々と魅力的な個性が出てきて政党のアイデンティティ(カラーと言っても良い)が出来上がり、ネットに熱心でない層にも浸透することで政党としての基盤を形成するが、これは至難である。強い発信力を持っていた「れいわ新選組」が、党首の山本太郎の議員辞職で退潮したのは好例である。
もうひとつ指摘しておかねばならない日本の深刻な事情がある。都市圏への一極集中である。全国289選挙区のうち、東京だけでも30を占める。実に一割以上が東京が選挙の舞台なのだ。これに神奈川、千葉、埼玉の首都圏を加え、さらには名古屋圏、近畿圏、福岡圏を加えれば日本の選挙は今や全国区とは言い難い。都市型有権者主体なのであり、地方の有権者ははじめから少数派なのである。ムラ的社会意識から開放された有権者には若い世代も多く、“SNS選挙”が浸透する大きな背景を形成しているのだ。今回の衆院選はその意味でも象徴的だった。投票日の2月8日は日本海側のエリアは豪雪に襲われた。雪を踏みしめながら近いとは言えない投票所に足を運ぶ高齢有権者の姿を大都市で街頭演説に声をからすそれぞれの政党党首はどれほど意識していただろうか。
もちろん、すべては冒頭解散に踏切り戦後最短の選挙期間で解散総選挙を断行した高市総理の“非常識”にある。しかし、選挙は結果なのだ。勝者が得た多数議席という政治資産を獲得した総理が今後どのような政治姿勢をとるのか注目するしかない。“責任ある積極財政”によって、過疎化が進む“地方の問題”を蔑ろにしないことを願うばかりである。それにしても、首相に衆院の解散権があり、それを首相が独断的に決定できるという“首相の専権”という法的根拠はどこにあるのか。憲法7条の“天皇の国事行為”のなかに“衆院の解散”が明記され、国事は内閣の助言と承認のもとに行われるという前提を重ねて首相の専権事項とした“強引な解釈”をいつまで続けるつもりなのか。国会の議論のないままに“アタシが総理でええのんかどうか国民に直接問いたいの”などという解散の理屈づけは幼稚過ぎる。選挙に“感情の嵐”を排し理性を取り戻させねばならない。それが政治改革の第一歩なのだ。諸悪の根源というべき“首相の専権”を正し、例えば首相の独断を阻止する“解散の承認機関”を置くのも一法だろう。手始めに解散を決意した首相は天皇にその旨を申し上げ、天皇の賛意を義務としたらどうか。たとえ儀礼としても、解散詔書をいただくのに、これぐらいのことは当然なのではないのか。そのとき天皇が、今回の豪雪による“民の負担”を憂慮される一言でも口にされれば、象徴天皇も日本の民主政治の質的向上に資されることになるのだろうが。 (敬称略)