ソーシャルエッセイ   荻正道

【昨日・今日・明日】

『EVは終ったのか?』


トランプ政権がもたらした衝撃のひとつにEV(電気自動車)の“追突事故”級の惨状がある。ガソリンエンジン車の時代が終わり、EVの時代が来ると誰もが思っていただけに妙に寂しいものがある。可能性に充ちた産業が為政者の心ひとつで潰されて良いものか、という割り切れなさもあれば、事業者の執着のなさも気になるのだが。

 ことの発端は言うまでもなく地球環境問題だった。地球温暖化による災害級の気候異変が世界的に相次ぎ、CO2の排出を抑制すべきというコンセンサスが国際的に形成され、ガソリンエンジン自動車の排気ガスが問題視された。排気ガスを出さない車への転換が急務とされ、その解答が充電式バッテリーを動力とする電気自動車(以下、“EV”)。かくて官民挙げてEVを推進する風潮が形成された。消費者がガソリンエンジン車からEVに乗り換えるのは、いくつかのハードルがあった。走行距離の問題や充電場所の少なさや充電時間の長さが大きかったが、何よりも消費者が躊躇したのはエンジン車との価格差である。自動車産業を擁する主要国は、まずは、この価格差を埋めるために“購入補助金”を出し、価格面でのEVのハンディを取り除こうとした。販売台数が増えていけば、量産効果でコストは圧縮され、走行距離や充電時間の改善も技術進化によって克服されるだろうと考えられたのである。

 この補助金政策は効果があった。すべてのイノベーティブな製品がそうであるように、新しモノ好き(アーリーアダプター)の消費者がEVを買いはじめた。ガソリン車からEVへの置き換わりは時間の問題だと、自動車メーカーの経営陣は考えた。“乗り遅れる”恐怖が経営者に拡がると戦略転換は競い合うように前のめりになる。開発や生産のための大規模投資が競争的に始まってしまった。そのタイミングで、アメリカに政権交代が起こった。再登場したトランプ大統領は、バイデン前大統領の政策をことごとく否定した。EVの補助金も例外ではなかった。自動車メーカーは“梯子をはずされる”かたちになったのである。「地球温暖化や環境問題とCO2排出量とは関係がない! そういうことを言う科学者たちは、インチキだ。アメリカをここまで偉大にした従来の製造業を窮地に陥れて、この国を危機におとしたいのか!」と大統領は吠えた。補助金の廃止で高くなったEVの販売は急ブレーキがかかり、再びガソリン車が息を吹き返した。しかし、このとき既に多くの自動車メーカーはEV事業に投資済みだったのである。

 開発費の除却や設備の減損処理で、“ビッグ3”が計上した損失は計8兆円に昇った。日本メーカーの中で最も被害を出したのはホンダだった。大胆なEVへの転換を中期計画に盛り込み、ガソリン車の開発を中止することを社内外にも公言していた。この方針が浸透し準備作業がフルスロットステージに入った時に“トランプ・ショック”という衝突事故にあったようなものだった。これにより、同社は創業以来の赤字決算(2026年3月期に6900億円の最終赤字)を計上することになった。部品メーカーへの影響も甚大なものがあった。
EVはタイヤをモーターで動かす以上、モーターの専業メーカーに一日の長があるとニデックは考えた。ガソリン車においても、車メーカーはタイヤ等は自社生産せずに専門メーカーから購入している。EVにおいても、モーターは専門メーカーから調達するはずと考え、モーターと周辺パーツをモジュール化した製品を開発し、これを成長戦略の柱にしようとした。しかし、肝心の自動車メーカーがEVの生産計画を縮小している。売り先は、補助金を継続させた中国市場に向わざるを得なかった。しかし、中国メーカーにとって同社の製品は“高すぎた”。極端な計画未達に対して、創業者は目標必達を要求し続けた。これが同社の不正会計事件の主要な背景である。

 こうみてくると、EVブームは早くも収束に向いガソリン車の時代が再び始まるような気になる。しかし、トランプ大統領の時代がいつまでも続くわけではない。少なくとも任期はあと2年半しかない。次の大統領がどういう人物なのか見当もつかないが、CO2排出問題を全く無視するほど“勇猛な”人物が選ばれるとは思えない。トランプ大統領の政策は相互に矛盾することが多く、現に、イランへの攻撃により原油価格が高騰し、ガソリン車ユーザーへの負担は増している。次の大統領が、EVの購入補助金を復活し、EVを普及させることで、ガソリン高への国民の不満を避けようと考えても不思議ではない。環境問題の理解者としてのEVファンは限定的だが、ことが経済的な損得になると、多数のユーザーは、先行きのガソリン価格の高値継続を見越して、“ガソリンの要らない”自動車に乗り換えようとするだろう。既に、テスラの日本法人は、ホルムズ海峡の通過危機が話題になるや、充電料金ゼロキャンペーンを打ち出し、EV普及の好機と捉えている。

 これは先見の明というべきかもしれない。イラン紛争が収束しても、ホルムズ海峡の実質閉鎖状態が続き、原油がますます高騰するかもしれないという恐怖感は消費者に十分に浸透したはずである。自動車のように10年程度の保有期間を想定した耐久消費財において、どうせなら、ガソリンの要らない車にしようかと考える消費者は増えるだろう。問題は、メーカー側がEVを強く薦めるかどうかだ。テスラのようなEV専門メーカーに迷いはないだろうが、ガソリン車を生産しているメーカーにとっては、そこまで前向きになれないのが本音ではないのか。そもそもビッグ3にしてもホンダにしても、さっさとEV開発に背を向けるような経営判断をした動機には、従来のガソリン車を主要品目にする方が利益をあげやすく、系列の部品メーカーも護れるという判断があったのではないか。しかし、思えばホンダは1970年代末のオイルショックの時代に、アメリカの排ガス規制(マスキー法)をクリアするエンジンを世界に先駆けて開発したことで、今日の地位を築いたのではなかったのか。技術力で世界的課題を先頭に立って解決するという気概はどこへいったのか、と言いたくなる。

 そもそもテスラのイーロン・マスク氏がEVを開発したのは、排ガス規制が主目的ではなかった。彼の目標は自動運転車の実現であり、排ガス効果は副次的なものだった。排ガスなら他にも手段はある。従来のエンジンを使い燃料をガソリンから別のものに置換える方法だ。意外にこの方が手短で、何より従来からのエンジン技術をそのまま活かすことが出来る。しかし、マスク氏の構想から言えば、車を動かす動力は電気でなければならなかった。それは、未来の自動車運転にはコンピューターが不可欠であり、その“指示”をいちいちエンジンに伝えようとすれば、余計な転換装置が必要になるからだ。構造は複雑になり、何よりも時間のロスが生じる。自動運転においては、この時間ロスは致命的な結果になりかねない。コンピューターが指示した指令が遅滞なく車の動きに直結しなければならないとなれば、車は電気で動かすことが大前提になる。

 マスク氏の構想する自動車の未来像は、人が運転するという限界を乗り越えようとするものだ。人間の知覚や運転能力に頼っていては、今の自動車以上のものは出来ない。吹雪に見舞われホワイトアウト状態になれば、自動車運転は危険極まりないものとなるが、AIが運転するなら、こういった劣悪危険な運転環境でも走行が可能になるに違いない。車の周囲に死角なく張り巡らされたセンサーは、人間のようにバックミラー等の視覚補助を必要としないのだ。もちろん、眠気等の生理的リスクからも自由であり、何十時間走行しても疲れを知らない。おそらくマスク氏の構想からすれば、運転手の乗るスペースも必要がないのが理想なのだ。人を運ぶならそのように車体をデザインすれば良く、荷物を乗せるならそのように設計すれば良い。エンジン時代の車の常識であったハンドルも不要であり、運転席そのものが不要になる。運転はコンピューターが担い、車輪の回転数や角度の変更指示として電気的に制御される。車の未来が“電気自動車”でなければならないのは、そのためなのだ。

 それだけではない。AIの進化によって、車の走行ルートや立ち寄りスポットも含めてドライバーの頭脳に蓄積されていた“記憶”は、自動走行の考慮要素としてAIによって常に参照され、時としてドライバーの意思を確認する“対話能力”も備えることになる。バスのような公共サービスや荷物の運搬などにおいては、それらの頭脳は車両に設置される必要はない。出来る限りコンピューターのようなクラウド方式にするに限る。パソコンがクラウドによって搭載メモリーを軽減できたように車両には極力無駄を廃し、運搬目的物(人、荷物)のためのスペースを最大化することが出来る。車体に無駄なものは搭載しないという原則にたてば、マスク氏の今の自動車は“ムダだらけの車体”にみえるに違いない。車体の軽量化こそ省エネの一丁目一番地ということになる。もっとも、代わりに多くの電池を積まなければならないのなら同じことではないかという批判は以前からあった。しかし、マスク氏が“普通でない”のは、技術の進化への強い確信(信仰といってさえ良い)があることだ。電池容量の飛躍的な増加など数年あれば可能になる次元のものなのである。携帯電話に搭載されているリチュウムイオン電池が高容量化し、電話本体がどんどん小さく薄くなっていったことを思い起こせば、マスク氏の楽観論を笑って済ますことは出来まい。

 現状のEVはマスク氏のヴィジョンからすれば、端緒の段階に過ぎまい。恐らく、その構想にはマスク氏が注力してきたスターリンクの衛星通信網とのリンクがある。衛星から地図情報をダウンロードするカーナビゲーションと原理的には同じだろうが、マスク氏は衛星によって宇宙に巨大なデータセンターを設置すること本気で考え、ここから端末である地上のEVに様々な情報や指示を出す構想を持つと言われる。宇宙空間そのものが巨大な冷却装置であり、地上のデータセンターが莫大な電気を使うのに比べ極めて少量の電気で済む。その電気は衛星に搭載した太陽光パネルで自立的に賄うことが出来る。こうして電気の悩みから開放された“宇宙データセンター”から地上のEVに様々な“アプリ”がダウンロードされるのだ。つまりEVという“端末”だけを眺めていてもマスク氏が、車は電気で走る必要があるという信念を理解することは出来まい。
思えば、ホンダとソニーは手を組んで新しい未来カー(EV)を開発しようとしていた(ソニー・ホンダモビリティ)が、今回のホンダの撤退によって実質的に消滅することになった。かつて、その創造性と志の高さにおいて日本のモノづくりを牽引してきた両社の蹉跌は、イノヴェーションを実現しようとするスピリッツの衰弱に起因するように思えてならない。EVは終わったのではない。高い志を掲げる起業精神が終わったのだ。       
 



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